緑には、東京しかない

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開業前の東京駅:丸の内ビル前~行幸通りから眺める丸の内駅舎

2012年10月02日 19時16分38秒 | 東京駅周辺


丸の内ビル低層棟前から行幸通りに向かって散策を続けていきます。JR東日本が当初描いていた丸の内の駅前広場の構想よりも、面積的に縮小された広場として完成しているのが何よりも残念ですが、実際に工事を進める上で縮小せざるを得ない要素が現れたのかもしれないですね。しかし、駅前広場の敷地の7割以上を歩行者用広場にする当初の計画と比較すると「縮小」というレベルの話では済まないのも事実だと思います。




岩崎弥之助率いる三菱が日本陸軍の用地の払い下げに応じ、その後何の開発も行われず荒地として放置されていたことは前回の記事で述べました。その後、市区改正委員会の提案によって官営東海道本線を起点の新橋駅から外堀に沿って線路を北へと延伸し、皇居前に中央停車場を建設、線路は民営(日本鉄道)東北本線の起点である上野駅に接続させることが決定されます。三菱が買い上げた土地に線路や駅舎を建設する工事が進められます。




1914年(大正3年)に三河吉田藩・信濃松本藩の屋敷跡地に中央停車場が建設されます。丸の内駅舎は宮城(読み方は「きゅうじょう」。戦前は皇居ではなく宮城と呼ばれていました)・和田倉門から約400メートルほど離れた場所に建設されます。関東大震災の戦災復興事業の一つとして、和田倉門から丸の内駅舎前まで不燃道路「行幸通り」が建設されます。




皇居前広場・和田倉門南から東へ向かってまっすぐ伸びている大通りが「行幸通り」、正式名称「東京都道404号皇居前東京停車場線」です。幅員73メートルの広規格道路道路として建設されました。2010年(平成22年)4月12日に歩道兼馬車道として交通開放されます。ただし、行幸や信任状捧呈の車馬が通行する時のみは専用道として一般歩行者の通行が制限されます。




江戸時代は武家屋敷が密集して建っていた「本丸の内」、明治維新後は陸軍の練兵場として使用された後、岩崎弥之助に売却されます。その後、丸の内は三菱のオフィスビルが数多く立ち並ぶことになります。1894年に丸の内最初のオフィスビルである三菱一号館が竣工、これを皮切りにロンドンのロンバード街に倣った赤煉瓦街が建設され、一丁倫敦(いっちょうろんどん)といわれるようになります。




土佐藩出身で実業家である「岩崎家」が戦前の日本政府の「政商」として一気に拡大した「三菱財閥」。土佐藩出身の武士であった岩崎弥太郎は坂本龍馬が近江屋井口新助邸で暗殺されたことで解散した海援隊の後身として、大阪市西区堀江の土佐藩蔵屋敷(現在の土佐稲荷神社付近)で始めた九十九商会の監督を1870年に任じられます。これが後の「三菱商会」、俗に言う三菱財閥の起源となります。




1873年に「三菱商会」と改称し、海運と商事を中心に事業を展開します。西南戦争(1877年)のときには政府側の軍隊・軍需品の輸送を独占し、一気に「政商」としての地位を確立します。その後、ライバルであった三井・長州閥と「国をあげての三菱潰し」を経て弥太郎は失意のうちに死去、2代目の総裁として実弟の岩崎弥之助が就任します。明治政府内の権力闘争に巻き込まれていく中、明治7年(1874年)に三菱商会は大阪から東京(丸の内)へ移転することになります。




丸の内駅舎の背後・八重洲口にそびえ立っているのは交通会館跡地に建設された「グラントウキョウノースタワー」です。大和証券グループ本社やフランスの首都パリに本拠地がある金融会社「BNPパリバ」の日本支社が入居しているなど、丸の内が「アジアの金融センター」として成長する象徴となっています。




三井グループ・長州閥との「潰し合い」の結果、郵便汽船三菱会社(三菱商会から改名)は倒産寸前に陥り、日本政府の仲介によって共同運輸との対等合併で日本郵船会社が設立されます。その後、官営造船所や炭鉱、鉱山事業など様々な方面へと事業を拡大することによって倒産寸前であった三菱は奇跡的に息を吹き返すことになります。その後、商法の施工によって三菱社は明治26年(1893年)に「三菱合資会社」へと改組されました。




明治27年(1894年)、三菱合資会社は中央停車場の建設が始まっている丸の内の荒地に「第一号館」と呼ばれる丸の内最初の洋風貸事務所を建設します。三菱の建築顧問であったジョサイア・コンドルによりイギリス・クイーンアン様式(en)の外観を持つ煉瓦造の建築物として設計され、また建設工事には曽禰達蔵現場主任があたり、直営工事による施工がなされました。




行幸通りの東端部から撮影した丸の内駅舎です。散策当時は丸の内駅前広場にはイベントのための機材が設置されている状況でした。




「第1号館」の竣工当初においては、三菱合資会社本社、第百十九国立銀行(後の三菱合資会社銀行部、三菱銀行)本店、高田商会が設けられたほか、貸事務所として坪1円から1円50銭で貸し出されたとされます。このほか、郵便局「丸ノ内郵便電信局」が1902年(明治35年)11月より三菱合資会社の無償提供で本建物内一室に設けられていました。




日本の三大財閥の一つである「三井財閥」が同じ東京都内の日本橋地区に本社ビルをおいていたのに対し、土佐藩の海運会社がルーツとなっている三菱財閥は丸の内に本社を置き、三菱財閥に関係するビルを丸の内周辺に集中させている状況は現在でも変わっていないです。三井財閥は江戸時代の「越後屋」などが起源となっているのに対して、三菱財閥は明治維新後に生まれるなど、この二者はその生い立ちや成長過程などが全く似ても似つかないですね。




その後第2号館、第3号館、東京商工会議所と馬場先通り沿いに相次いで4軒の西洋建築が建ち並びます。その後も仲通り沿いに多くの建物が建設され、丸の内周辺は赤レンガの建物が向かい合って立ち並び「一丁ロンドン」と呼ばれることになります。その後大正3年(1914年)に中央停車場が開業し、「天皇の駅」のお膝元の丸の内には「政商」である三菱合資会社のビルが次々と建設されていきました。




当時の日本は日清・日露戦争を経てヨーロッパの列強国へと肩を並べつつある時代でした。中央停車場が竣工した大正3年(1914年)は第一次世界大戦が勃発した年でもあります。当時の日本は天皇に主権がある時代であり、さらに日清・日露戦争の勝利によって軍の発言権が大きくなりつつある時代でもありました。




そんな中「天皇の駅」として華々しく開業した中央停車場。この華麗なる赤レンガ駅舎は明治維新を経て西洋に肩を並べることができるようになった日本の力を世界に見せつける象徴となったのです。同時に、明治時代に新しい日本の首都として成長しつつある「東京」という町のさらなる一歩でもあったのでしょう。




中央停車場の開業によって官営東海道本線、京浜東北線の起点となります。その後ますます首都東京の発展が続く中、第一次大戦後の不況や関東大震災、世界恐慌などによって日本は「国家総力戦・国家総動員」へと突き進むことになります。三菱財閥も軍事物資の調達の拡大など、日本が「総力戦」を遂行するにあたって、なくてはならない存在へとなっていきます。

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