ミクロネシア 青年海外協力隊環境隊員のブログ

ミクロネシア連邦国において環境分野で活動する青年海外協力隊、シニアボランティアからの報告。コメントお待ちしています。

歴史的な日

2009-10-29 14:35:41 | チューク州
チューク州本島であるウェノ島の唯一のゴミ投棄場が使用できるまでに修復されて一ヶ月、週1回ペースでモニタリングに行ってるのですが、なかなか順調に使われているようです。と言ってもゴミ投棄場にゴミを運んで投棄しているのは現段階ではチューク州立病院のゴミ収集車のみで、本来ならば焼却しなければならない医療廃棄物を毎日毎日捨てているのです。
病院以外の、政府機関、学校、民間企業、住民の人々全てが島中にポイ捨てや不法投棄をしているということです。
ゴミの分別とか言う以前の問題です。

もちろん、ゴミ投棄場を修復しても自分たちでゴミを投棄場まで捨てに行かないだろうというのは分かってました。ゴミに対しての意識が低いのはもちろん、
街の中心からゴミ投棄場まで遠い。
道が舗装されていなくとてつもなく悪い。
メインストリートからゴミ投棄場までの近道のアクセス道路が周辺の土地の所有者によって10年以上も閉鎖され、ものすごく遠回りをしなければゴミ投棄場に行けない。


近道アクセス道路の入り口



遠回りの道は距離が長く時間が掛かる上にこんな道路の状況なんです。





僕は赴任当初から言い続けてきました。
ゴミ投棄場を修復するだけでは効果はほとんどない。近道のアクセス道路を開通させて、ゴミ収集システムを構築すること。ゴミ収集車や住民がゴミ投棄場に投棄しやすくしなければゴミの不法投棄は一向に減らないと。啓発活動を続けても最低限のインフラ整備をしない限りは限界があると。


カウンターパートを含め、州政府の人ほぼ全員、周辺住民も、10年も閉鎖されて今さら開通など出来ないとあきらめモードでした。
僕が提案してもやりたければやればーっていう感じでした。
僕のホストファミリーからも無理だからやっても意味ないよと言われました。
ミクロネシア連邦の大統領からもチュークの問題はゴミではなく土地だと言われ、こればっかりはどうしようもないと言われました。


僕にはまだ若さと勢いがあったのです。笑
不可能なことはない。「外国人」という特権を使ってやってやろうじゃないか!


もちろん自分ひとりじゃできないので、嫌がられるほどしつこく同僚を説得し、土地区画整理局ともミーティングを開き、地元の国会議員、州知事も説得し、先日、土地所有者数名を州政府のオフィスに呼び、州知事、国会議員、土地区画整理局長、環境保護局長、と協議の場を持たせ、チュークの廃棄物問題とアクセス道路の必要性を訴え、ついに所有者から承認をゲットしました。



そして、今日、土地区画整理局の測量技師たちを連れて、10年以上も閉鎖され草木が生い茂っているアクセス道路の場所に行き、土地所有者立会いの下、測量を行いました。昨日からテンションがあがって眠れませんでした。











土地所有者の合意をもらい、地図上ですが、アクセス道路がメインストリートからゴミ投棄場まで開通しました。


やりました!!!
多くの人に不可能と思われていたことを可能にしました!!!

今日は歴史的な日です。



あとは、重機で実際に道路を整備するだけです。

またこの道路整備に時間と金がかかるんですが、徐々に前に進んでいることは確かです。




<21年度1次隊 宮城 匡志>

離任の挨拶 ③

2009-10-22 22:29:45 | コスラエ州
約2年前の2007年9月25日、19年度2次隊として私たち環境教育隊員3名を含む8名がミクロネシア連邦へ派遣されました。

JICAでは2ヶ月間に及ぶ派遣前訓練期間が設けられており、語学や国際協力等について事前に学びます。その中で、「2年間という限られた期間では大きな成果を上げることは出来ません。それよりも、日本を好きになってもらえるように良い関係を築いていくことの方が大事です!」と言われました。協力隊に参加する人の多くは、途上国で何らかの貢献がしたい、少しでも役に立ちたいと思って応募するのではないかと思います。私は、英語を習得できたら人生が180度変わるかもという半ば不純な動機ではありましたが、現地の人たちのために少しは役に立つ技術移転ができるかもしれないと思っていたのは事実です。

私が赴任したのは人口8000人の小さな島・コスラエでした。8000人相手であれば意識を変えることは勿論、大きな仕事が出来るはずだと思っていました。しかし、実際に活動が始まってみると職場のスタッフはアメリカやハワイ等の大学で学んできたエリートで、海外で研修を受ける機会も多く十分な知識や先進国同様の考えを持ち非常に優秀であることが分りました。それに比べ、私は英語のレポートを渡されても辞書を使わないと読むことができず、ワークショップやミーティングに出ても殆ど理解できないために眠気に襲われる始末でした。

協力隊の任期は2年です。今になって振り返ってみるとJICAや先輩隊員から言われていた通りの2年間を過ごしてきたように思います。
JICAでは、
~ 3ヶ月:準備期間であり、配属先の現状を把握する
~ 6ヶ月:活動計画を作成する
~12ヶ月:これまでの活動を振り返り、今後の活動の方向性を再確認する
~18ヶ月:これまでの進捗状況を確認し、活動終了に向けて展望を行う
~24ヶ月:総合的な評価を行い、今後活動成果をどう活かしていくかを確認する
という流れになっています。

それに私の主観を加えると、
~ 3ヶ月:まずは気候や生活に慣れること。誰しも焦る時期!
~ 6ヶ月:どんな2年間にするかイメージする。
~12ヶ月:本当の意味で慣れてくる。活動が軌道に乗り出す時期。
~18ヶ月:赴任後1年から1年半が一番活動らしい活動ができる★。
~24ヶ月:帰国モード。カウンターパートへ引継ぎ、出来なかったことは後任へ…。

帰国後、2年間何をしてきましたか?と聞かれ言葉にしてみると、2年もあってこれだけのことしか出来なかったのかと情けない気持ちになります。
任期を終えコスラエを離れる飛行機の中ではもっと頑張れたのではないかと悔やみました。
しかし、日本のように物事が予定通り進まない中、純粋な気持ちでコスラエの人たちのために何ができるかを考え、実行し、前向きに取り組みました。職場の人たちとは冗談を言い合いながら一緒に仕事をし、時には真剣な議論も交わしました。
帰国直前はお葬式が続き誰もが忙しかったのですが、そんな中私のために時間を割き送別会を開いてくれました。そこで、どうしても2年間分の感謝の気持ちを伝えたくて、スタッフの1人1人に向けて一番記憶に残っている思い出を現地語でスピーチしました。もっと上手く話せたらもっと気持ちを伝えられたのにと悔いが残りましたが、そのように思える程の人たちと出会えたこと、そして2年間一緒に過ごせたことが幸せでした。
最後に、私の2年間の活動を支えてくれたホストファミリー、そしてJICA関係者のみなさま、どうも有難う御座いました。クロマララップ!


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CAN ART -アルミ缶アート-

2009-10-19 20:52:28 | ヤップ州
   

“YAP Beautiful Island"
アルミ缶で描かれているのはヤップのメンズハウス、ココナッツツリーとストーンマネー。
使用したアルミ缶は5200缶。
これがデザイン図(18-2 PC隊員作成)↓


2008年3月のヤップデーから始まった企画「アルミ缶アート」は1年半かけて2009年9月に完成しました。
目標にしていた7000缶アートにはなりませんでしたが、2008年のヤップデーからクリーンアップや学校からの寄付で集められた空き缶は10000缶を超えました。

組み立てが本格的にスタートしたのは毎年夏休み中にUSピースコー主催で行われる小学生対象のサマースクール「SOSキャンプ」。ピースコーボランティアよりJOCVへの協力依頼があり、昨年同様EPAとして参加しました。(昨年は廃油でキャンドルを作ろう!というテーマで参加。)
1週間に2日、3週間で300人近くの子供たちと、缶の洗浄、穴あけ、繋ぐ作業をしました。


作業前にはアルミ缶のリサイクルの仕組みを図を使って説明。子供たちのなかには興味を示してくれる子もいました。


キャンプで出来たパーツがこちら↓数は1000缶弱。

新学期開始と同時に10校の小学校、COM(短大)のクラスを巡回して缶アートの作業を進めました。
各小学校ごとに100~200缶を分担してもらい、作業終了後は出来上がったパーツとともに写真撮影。

ヤップニュースの取材を受け、作業の様子がテレビ放映されました。
こちらはインタビューを受ける生徒。


土曜日にはユースクラブ、コミュニティーとヤップ隊員とともに残りのパーツとフレームを仕上げて、
 
 

「CAN ART」完成!!


たくさんのヤップの子供たちの手により完成した「CAN ART」は街の中心に1週間展示され、その後ヤップユースクラブによりリサイクル業者へ渡り、換金されたお金はユースクラブに寄付されました。

さいごに。
今回のアルミ缶を使った壁画アートへの参加により、人々のリサイクルへの理解と意識が少しでも上がってくれることを期待しています。
また、協力してくださったみなさんに心から感謝しています。ありがとうございました。

(ヤップ満江友紀)

離任の挨拶

2009-10-19 19:39:18 | コスラエ州
無事、2年間の任期を終え、先月24日に帰国しました。

今コスラエでの充実した濃い2年間を振り返っています、が、なかなか消化できない自分がいます。
少しずつ振り返って、少しずつ消化して、身にして、糧にして、自分の成長につなげていこうと思います。

前半1年は経験や知識がない中で、前も後ろもわからないまさに暗闇の中トンネルを掘り続けた1年でした。
思うように進まない工事、人が足りない、お金がゼロ、すぐ重機が壊れる、炎天下と土砂降りの雨の繰り返し、仕事がない日々。
そして一番つらかったのは自分の存在意義が認めてもらえないこと・・・。

協力隊に参加する前は
ずうずうしくも「自分が問題を解決してやる!」くらいの気合いでした。
任国に来てそんな野望ははかなく打ち砕かれました。
当たり前です。
理想と現実のギャップに苦しみました。
周りと比べて焦りました。
自分の語学・能力不足に呆れました。
自分は何もできない現実に突きつけられました。

そんな中、ホームステイという暮らしを通して
現地の言葉を話し、現地の食事を取り、現地の人と共に生活し、
顔を突き合わせることで、見えてくるものがありました。

「価値観」の違いでした。

日本で当たり前だと思っていたことが、島では当たり前ではない。
私たちが「え?」と思ったことは、島では当たり前。
そんな異なる文化になんとか適応した2年間。
そこでは、世界には価値観の違う人がいるということを学び、受け入れることの大切さを学びました。
その価値観、物事にはいろんな背景があり、それは深く文化や社会に根付いている。
「正しい・正しくない」ではなくて、そのことを「理解する」こと。
そこの文化や価値観を受け入れた時に、
現地の人の声、何が本当に必要なのか、何が理由で何ができないのか
(2年だけじゃほんのちょびっとかもしれませんが)
少しだけわかったような気がします。
そのおかげで、仕事やステイ先で理解できないことがあっても、
現地の人を嫌いになることはありませんでした。

国際協力は日本の技術移転「だけ」では成功しない、
もちろん適切な技術移転は必要ですが、それだけじゃない、
その土地の「価値観」を強く意識したものでなければいけないと思います。

後半1年になって、活動にやっ~~~と先の方に光が見えてきた時。
最終処分場が完成したと同時に、州予算が取れたり、日本からごみ収集車の供与が決まったり、
サモア・パラオなどの国外研修にスタッフを参加させたりすることができました。
物事がスムーズに行くこと自体が信じられませんでしたが、やっと活動らしい活動ができ始め
当時、これで島のごみ問題は解決の道を進むと信じてやみませんでした。

今になって思うのは、最終処分場、ごみ箱、ごみ収集車を日本からコスラエに供与したことで
私たちはコスラエのことを助けているけれど、
これだとコスラエの主体性・自主性を育たせることができていないのでは?
本当に良かったのだろうか?と。

あの時専門家の人や周りの人からいただいたアドバイスを
今になって、客観的に考えることができます。

日本側で良かれと考えて押し付けるのではなく、
時間がかかっても現地の人たちに考えさせることが必要だということ、
でなければ日本人がいなくなればまたもとの状況に必ず戻ってしまうということ、
単に機械や重機を入れれば解決する問題ではないということ、
インフラができても、マネジメントができていなければ、余計な仕事と予算を増やすだけのこと。
目に見えないもの「教育」や「現地の人の持つ能力向上」こそが大切であること。
国際協力ってやっぱり難しいし、まだまだ全然わかっちゃいないんだろうけど
これらのことを身をもって学ぶことができました。
今後の自分の土台になったのは間違いありません。

私は最後に配属先に言いました。
「このプロジェクトは日本政府のプロジェクトではない、コスラエ州政府のプロジェクトでもない、
ましてや私のプロジェクトでもない。
コスラエのために、コスラエ人だけで作ったDT&Iのプロジェクトであることを忘れないで。
DT&Iのスタッフの汗が集結したこのプロジェクトのことを、みなさん自身が誇りに思い、
みなさんの仕事に誇りを持って、コスラエのごみ問題に取り組んでいってほしいと願っています。」


最後になりますが、
コスラエ2年間が充実したものになったのは、
毎日温かい気配りと食事を用意してもらったホストファミリーと
笑いあり汗あり涙ありの、かけがいのない仕事仲間のおかげ。
コスラエ語も英語もままならない私に、
いつでも温かく笑顔で優しく接してくれたコスラエ人みんなのおかげ。
美しい空と海と緑が、いつも見守ってくれていた。
そして。日本でいつも励まして支えてくれた理解力のある両親と恋人と友人のおかげです。
関係者の皆様を含め
本当にありがとうございました。

正直、先週くらい前までは毎日のように
コスラエのことを思い出しては感傷に浸い、
現実から逃げていましたが、
コスラエでもらった大切な宝ものは決して失わないように
この経験を次のステップに生かし、社会へ還元していこうと思います。
今が「スタート地点」です。

そして、いつか必ずもう一度、いや、何回でも大好きなコスラエ島を訪れ、
感謝のお返しをしに訪れようと思います

長文失礼しました。

19年度2次隊 コスラエ州 森田理絵 Srue Bolden Abraham



コスラエダンスと啓発活動

2009-10-01 22:05:18 | コスラエ州
去る7月31日と8月28日はコスラエ体育館にて、レラ村の音楽祭でした。
この音楽祭は、9月のLiberation Dayに向けての資金集めが目的で
地区ごとにわかれて歌・ダンス・寸劇などの披露をして
自分たちの地区のアピールをするものです。
テレビ中継も入ります。


7月31日の音楽祭では、
弥永隊員と一緒に太めのコスラエ人の格好をして日本のラジオ体操を披露しました。
これは環境教育とは関係なく、運動の啓発でしたが、
コスラエ人にも運動しなければ、という思いがあるからか
これがなかなか好評で、次なる依頼が舞い込んでいるそうです。

8月28日の音楽祭では、
これに田口隊員(H20-1小学校教諭)も参加して
日本人3人でコスラエダンスを披露しようということになりました。

私は仕事でごみの啓発活動として村を巡回した
ワークショップや住民説明会などを通して
意図的に人を集めることの難しさを実感していた矢先でしたので、
こういった人が多く集まる場所は、
楽しく啓発できるいい機会だと思いつきました。
この音楽祭を啓発活動も兼ねてダンスするという企画に2人は乗ってくれました。

適切なゴミ捨てとゴミ缶の管理を目的に、
実際に住民に配布されたゴミ缶を素材として使いマスコットを作成し↓

4Rガール(仮称)(JICAの隊員支援経費を活用させていただきました)

「ダンスの前にごみに関する寸劇を披露し、
その後ゴミ缶とともにコスラエダンスする」という企画になりました。

従来型の啓発ツール(ラジオアナウンス、ポスター等)だと、
単調で人の関心を引き付けにくいことが多いのに対し、
躍動するマスコットによる啓発は住民の興味を喚起し、
印象的なものになると考えたのです。
これは、パラオにおける「3Rヒーロー」を参考にしました。
また、廃棄物管理に関する啓発バナーは今まで存在しなかったことや、
看板作成と比較すると、バナーは人目を引く上に持ち運びが可能なので処分場での常設掲示のみならず
イベント等での掲示による啓発に活用できると考え、
これも隊員支援経費にて作成しました。↓


どんな時でも面白く話をするおばちゃんをスカウトし、
当日は彼女にヘルプしてもらいました。
相変わらず私の啓発テーマは
「生分解性ごみ(庭ごみは裏庭へ、非分解性(プラスチック)はゴミ缶へ!)
なので、葉を入れると嫌がるとか、プラスチックは喜ぶ、
「ラーメン食べたら汁はゴミ缶の中に入れないこと」や
「ゴミ缶は地べたではなくタイヤの上に座るのが好き」とか、
そういったことを劇にしました。
当日、彼女のしゃべりで笑いを取る戦略は成功。
会場がどっと湧いたように大笑い。
コスラエ人のノリの良さを実感しました。


寸劇のあと、コスラエダンスの先生とともに、
ぎこちない動きをしつつもなんとかコスラエダンスを披露しました。


ほぼ毎日のように、音楽祭のテレビが放映されています。
人に会うと「ダンスうまかったよ」の他にも「教育活動ありがとう」とか
道端のすれ違いで、見ず知らずの人にでも
私独特の発音で「FIHSRCSR IN KULAWI!」(コスラエ語で「生分解性」という意味)」とか言われると、
けっこう恥ずかしいのですが、
(私にとって、「R」と「L」の発音は永遠のテーマです。。)
インパクトは少なからずあったかなと思います。
この言葉が浸透しただけでも良し!です。

任期が終わる最後の最後まで、これをかぶって小学校を巡回して、
このゴミ缶マスコットをアピールしようと思います!!

手伝ってくれたコスラエ隊員に感謝!

コスラエ州 森田理絵