公開から一週間、大ヒットには至っていない感ありですが、話題騒然ではありましょう。
大ネタバレなのでご注意。
ネタバレ
ネタバレ
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原作を面白いと薦められたのが2年ほど前のことで、果たして日本で発行されているのかも知らず、作者も知らず折に触れ探していたが、昨年末にふと入手が叶った。やっと手に入ったその本は、「香水 ある人殺しの物語」というタイトルで、香水と人殺しという、相反する要素の同居に惹きつけられた。てっきりロマンティックな小説とばかり思い込んでいた私には、軽い衝撃でもあった。読み始めると一気に読み進み、今まで味わったことのない強烈な面白さに「読み進みたいが終わってしまったらつまらない」とまで思うほどだった。読了とほぼ同時に映画完成の報を聞き、それは絶対に観なくてはと思い暮らした。
嗅覚という、原始的で動物的な五感の一つを極限にまで高めた他に類を見ない小説を、どのように映像化するのか。映画は匂いは出さない。仕掛けをすれば別だが、そのような仕掛けは陳腐だ。小説を読みながら読者が脳内で様々な匂いや香りを想像していたものが、映像で映し出される。映画は、ありとあらゆる映像効果を使って肥溜めのような魚市場から、腐ったリンゴ、赤毛のプラム売りの少女の芳しい体臭、パリの街かどの種々のにおい、香水店、香料の数々等を執拗なまでに描き出す。濃厚で美しく、どこか不吉さをはらんでいる。それは、ジャン=バティストの「己に欠けているもの」「他の誰より優れた感覚」の皮肉な表裏をも漂わせているからではないだろうか。映画のジャンは、小説イメージとは違い、ほっそりと少年のようで、一見イノセントささえ感じさせる。そこに映画ならではの「騙し」がある。いかにも怪しい風貌ではないから、異常さよりも天才的な面のほうが強調される。ジャンの純粋さ、一生懸命さにどこか違和感を覚えながらも引き込まれていくのだ。その「純粋」さは、「香り」以外に何にも興味を持てないからなのだが。彼は、己の目的のためだけに突き進む。ただ、彼の求める究極の香りのために。
声も立てず、話も殆どせず、「目的」のためだけに存在するジャンは、獲物を狙う動物のようだ。これが性的なものであれば、もっと粘ついた獲物探しとなるところが、ジャンには香り以外には興味が無い。だから、最初の少女を誤って殺してしまったからといって動揺するのではなく、彼女が死んだことによって彼女の香りが失われて初めて慌てる。才能の枯れた調香師について修行し、様々な名香を生み出すも、ジャンの求めるものはたった一つ。俗世を喜ばせるものではない。師であるバルディーニが精製するバラの精油がいかに高価であっても。
ジャンは香水作りの目指す地グラースへと旅をすることを師に許され、職人であることの証明をもらってかの地を目指すが、途中で洞窟で暮らした日々の後、自分に体臭のない事を知り慟哭する。匂いのない自分は、誰からも覚えてもらえない、居ないも同然なのだと。そこから彼の「究極の香り」への渇望は益々いや増し、女性たちを次々に殺害していく。映画は殺戮を繰り返すジャンに一切の感情移入をしておらず、また観客にもさせる余地を与えていないように思える。家畜を屠るかのように無感情に「材料」の命を奪っていくジャンの淡々とした仕事ぶりはどうだろう、おぞましさを超えてただ見入るのみだ。
そして遂に美女たちの香りを集約した究極の香りは完成するも、ジャンは凶行がばれて死刑を宣告される。だが、死刑執行のその時、彼は究極の香りを集まった野次馬や司祭たちに向かって放つ。究極の香りとは、誰もが屈せずにはいられない愛の香り。香水というよりは麻薬のような力を持ち、愛娘を殺されたリシさえも、
その香りをまとったジャンを息子と呼んで抱きしめる。
ジャンは最後に想う。初めて殺してしまった少女と普通に愛し合えていたらと。
原作には無い、「人との触れ合い」を、ジャンが求めていたのかと思わせるカットを入れることで映画はぐっとジャンを観客の琴線に触れる存在に押し上げた。
恐るべき連続殺人者でありながら、孤独で理解されない哀しき天才であるジャンの複雑さを上手く引き出していたと思う。
だが、必要以上に踏み込むことはせず、最後の最後まで映画は残酷なまでに淡々と進む。700人とも800人とも言われる死刑場に集まった人々の全裸乱交場面より、あっけないほどに終わるラストのほうが数段ショッキングであろう。
賛否を巻き起こす作品ではあるが、猟奇と耽美、悪臭と芳香、天才と狂気、すべてにおいて両極端を描きつつ、画面から立ち上る香りや匂いを感じさせるつくりは見事であり、適材適所の演技陣、官能的な音楽も含め完成度の高い作品だと思う。
蛇足ではあるが、フランス人が「フロッギー」と言われる由縁、実に皮肉に表現されているのも面白い。
大ネタバレなのでご注意。
ネタバレ
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原作を面白いと薦められたのが2年ほど前のことで、果たして日本で発行されているのかも知らず、作者も知らず折に触れ探していたが、昨年末にふと入手が叶った。やっと手に入ったその本は、「香水 ある人殺しの物語」というタイトルで、香水と人殺しという、相反する要素の同居に惹きつけられた。てっきりロマンティックな小説とばかり思い込んでいた私には、軽い衝撃でもあった。読み始めると一気に読み進み、今まで味わったことのない強烈な面白さに「読み進みたいが終わってしまったらつまらない」とまで思うほどだった。読了とほぼ同時に映画完成の報を聞き、それは絶対に観なくてはと思い暮らした。
嗅覚という、原始的で動物的な五感の一つを極限にまで高めた他に類を見ない小説を、どのように映像化するのか。映画は匂いは出さない。仕掛けをすれば別だが、そのような仕掛けは陳腐だ。小説を読みながら読者が脳内で様々な匂いや香りを想像していたものが、映像で映し出される。映画は、ありとあらゆる映像効果を使って肥溜めのような魚市場から、腐ったリンゴ、赤毛のプラム売りの少女の芳しい体臭、パリの街かどの種々のにおい、香水店、香料の数々等を執拗なまでに描き出す。濃厚で美しく、どこか不吉さをはらんでいる。それは、ジャン=バティストの「己に欠けているもの」「他の誰より優れた感覚」の皮肉な表裏をも漂わせているからではないだろうか。映画のジャンは、小説イメージとは違い、ほっそりと少年のようで、一見イノセントささえ感じさせる。そこに映画ならではの「騙し」がある。いかにも怪しい風貌ではないから、異常さよりも天才的な面のほうが強調される。ジャンの純粋さ、一生懸命さにどこか違和感を覚えながらも引き込まれていくのだ。その「純粋」さは、「香り」以外に何にも興味を持てないからなのだが。彼は、己の目的のためだけに突き進む。ただ、彼の求める究極の香りのために。
声も立てず、話も殆どせず、「目的」のためだけに存在するジャンは、獲物を狙う動物のようだ。これが性的なものであれば、もっと粘ついた獲物探しとなるところが、ジャンには香り以外には興味が無い。だから、最初の少女を誤って殺してしまったからといって動揺するのではなく、彼女が死んだことによって彼女の香りが失われて初めて慌てる。才能の枯れた調香師について修行し、様々な名香を生み出すも、ジャンの求めるものはたった一つ。俗世を喜ばせるものではない。師であるバルディーニが精製するバラの精油がいかに高価であっても。
ジャンは香水作りの目指す地グラースへと旅をすることを師に許され、職人であることの証明をもらってかの地を目指すが、途中で洞窟で暮らした日々の後、自分に体臭のない事を知り慟哭する。匂いのない自分は、誰からも覚えてもらえない、居ないも同然なのだと。そこから彼の「究極の香り」への渇望は益々いや増し、女性たちを次々に殺害していく。映画は殺戮を繰り返すジャンに一切の感情移入をしておらず、また観客にもさせる余地を与えていないように思える。家畜を屠るかのように無感情に「材料」の命を奪っていくジャンの淡々とした仕事ぶりはどうだろう、おぞましさを超えてただ見入るのみだ。
そして遂に美女たちの香りを集約した究極の香りは完成するも、ジャンは凶行がばれて死刑を宣告される。だが、死刑執行のその時、彼は究極の香りを集まった野次馬や司祭たちに向かって放つ。究極の香りとは、誰もが屈せずにはいられない愛の香り。香水というよりは麻薬のような力を持ち、愛娘を殺されたリシさえも、
その香りをまとったジャンを息子と呼んで抱きしめる。
ジャンは最後に想う。初めて殺してしまった少女と普通に愛し合えていたらと。
原作には無い、「人との触れ合い」を、ジャンが求めていたのかと思わせるカットを入れることで映画はぐっとジャンを観客の琴線に触れる存在に押し上げた。
恐るべき連続殺人者でありながら、孤独で理解されない哀しき天才であるジャンの複雑さを上手く引き出していたと思う。
だが、必要以上に踏み込むことはせず、最後の最後まで映画は残酷なまでに淡々と進む。700人とも800人とも言われる死刑場に集まった人々の全裸乱交場面より、あっけないほどに終わるラストのほうが数段ショッキングであろう。
賛否を巻き起こす作品ではあるが、猟奇と耽美、悪臭と芳香、天才と狂気、すべてにおいて両極端を描きつつ、画面から立ち上る香りや匂いを感じさせるつくりは見事であり、適材適所の演技陣、官能的な音楽も含め完成度の高い作品だと思う。
蛇足ではあるが、フランス人が「フロッギー」と言われる由縁、実に皮肉に表現されているのも面白い。