声を出さない、黙読による読書は近代以降の習慣らしい。
「汽車中で盛んに音読されては溜(たま)ったものではない。新聞などを取り出して呻(うな)り始める人は毎度汽車中にある。何分同車中の者は困り切る(略)音読をすれば咽喉(のど)も痛くなるが、意味も分からなくなる様だ」
大阪毎日新聞(大毎)で明治31(1898)年11月から翌年5月まで礼法をテーマに連載された記事をまとめた「でたらめ」の一節だ。筆者は第19代首相の原敬。当時は大毎の社長職にあり、「でたらめ記者」の名前で社説などを執筆していた。
明治時代までは、音読や朗読が一般的な読書習慣だった。近代化への途上にあった当時の日本で、原は西欧諸国への体面も考慮して、公共的な空間における「マナー違反」を戒めた。
「近代読者論」(外山滋比古、みすず書房)によると、黙読の際、声こそ出さないが、一歩手前の声帯の小さな運動を行っているらしい。それは心声といい、当人以外には聞こえないものの、全くの無声ではない。
目、耳、口などの器官は独立しながら、その活動は関連している。子どもが読み方を習う場合、音読の訓練を受けてからでないと、黙読による理解はできないという。音読、侮るべからず、といったところだろう。
今、電車の中で音読する人はいない。その代わり、携帯電話でメールを打つ姿が日常になった。20世紀末に普及した電子機器は「書く」空間を車中に作り出した。「読む」に比べ高度な訓練を必要とする「書く」。意味ある文章をつむぎ出す際、手助けとなるのは有声か無声か、それとも心声か。でたらめ記者ならずとも、興味津々だ。(運動部)
毎日新聞 2009年2月14日 東京朝刊
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます