わが輩も猫である

「うらはら」は心にあるもの、「まぼろし」はことばがつくるもの。

有声、無声、心声=落合博

2009-02-23 | Weblog




 声を出さない、黙読による読書は近代以降の習慣らしい。

 「汽車中で盛んに音読されては溜(たま)ったものではない。新聞などを取り出して呻(うな)り始める人は毎度汽車中にある。何分同車中の者は困り切る(略)音読をすれば咽喉(のど)も痛くなるが、意味も分からなくなる様だ」

 大阪毎日新聞(大毎)で明治31(1898)年11月から翌年5月まで礼法をテーマに連載された記事をまとめた「でたらめ」の一節だ。筆者は第19代首相の原敬。当時は大毎の社長職にあり、「でたらめ記者」の名前で社説などを執筆していた。

 明治時代までは、音読や朗読が一般的な読書習慣だった。近代化への途上にあった当時の日本で、原は西欧諸国への体面も考慮して、公共的な空間における「マナー違反」を戒めた。

 「近代読者論」(外山滋比古、みすず書房)によると、黙読の際、声こそ出さないが、一歩手前の声帯の小さな運動を行っているらしい。それは心声といい、当人以外には聞こえないものの、全くの無声ではない。

 目、耳、口などの器官は独立しながら、その活動は関連している。子どもが読み方を習う場合、音読の訓練を受けてからでないと、黙読による理解はできないという。音読、侮るべからず、といったところだろう。

 今、電車の中で音読する人はいない。その代わり、携帯電話でメールを打つ姿が日常になった。20世紀末に普及した電子機器は「書く」空間を車中に作り出した。「読む」に比べ高度な訓練を必要とする「書く」。意味ある文章をつむぎ出す際、手助けとなるのは有声か無声か、それとも心声か。でたらめ記者ならずとも、興味津々だ。(運動部)




毎日新聞 2009年2月14日 東京朝刊


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