めご の ひとりごと

ほぼ ひとりごと と おぼえがき

ブラタモリ 真田丸スペシャル

2016-11-12 | ぶらたもり
#54 大坂城・真田丸スペシャル
~大坂城はなぜ難攻不落?~
放送日:2016年11月12日(土)

◆豊臣の城に徳川が「盛土」して、江戸時代にはそのことが忘れさられ、昭和の発掘調査でわかったら、豊臣好きの大阪民のために隠蔽(?)。
「どこで そういうふうになったのか 追求して調査報告する義務がありますね」 どこかで聞いたことが(笑)

映像だとわかりやすい・・・。

豊臣の大阪城と徳川の大阪城






大阪城攻め

自然堤防上の戦い



大阪城総構え

真田丸


今年発見された真田丸図

地形図と合っちゃた。


★★★★★
Twitterより


タモリはいつもいるけど、草なぎ剛もいたのは気づかなかった・・・。

★★★★★
NHK公式ホームページより

今回の舞台は、名城として知られる大坂城。
豊臣秀吉が天下統一の拠点として築いた大坂城は、当時“日本で最も堅固で難攻不落の城”と呼ばれるほど。1614年の大坂冬の陣では、“真田丸”という出城を築き、徳川の大軍を撃退した事でも有名です。現在放送中の、大河ドラマ「真田丸」も大坂冬の陣を目前に、いよいよ佳境!そこで今回のブラタモリでは“真田丸スペシャル”と題し、大坂城が難攻不落だった理由を、絵図や地形をもとに様々な角度から徹底的にひもときます。 年間230万人が訪れる観光名所・大坂城ですが、実は、今我々が見ている巨大な石垣や深い堀は、“秀吉の大坂城”ではなく、豊臣家が滅亡した後に、徳川家がつくったものなんです。しかし、城内にたった一カ所だけ“秀吉の大坂城”の痕跡があった!地下深くに眠る太閤の遺産にタモリさん大興奮!そして大坂城の北、京橋駅の近くにある一見普通の道路。実はここが大坂冬の陣の激戦地。地形を上手く利用した、驚きの戦い方が明らかに。さらに今年発見されたばかりの真田丸の絵図を手に、タモリさん「真田丸探し」の旅へ!高低差に注目しながら歩くと??謎に包まれた真田丸の姿が明らかに!?

オープニング

01:“大坂城は なぜ難攻不落?”
ブラタモリ「大坂城」。大坂冬の陣で徳川方の侵入を一歩も許さなかった秘密に迫ります。
02:堀を越えて本丸へ向かう
堀の幅は、広い所で約100mもあります。
03:天守
現在の天守は昭和6年に復元されたものです。
04:“豊臣大坂城の石垣”
徳川によって埋められてしまった豊臣大坂城。地下にその石垣が残っています。
<一般には公開していません>

難攻不落の理由 (1)東北西の立地

01:大坂城の立地を見る
上町台地の端に立つ大坂城は、かつて東・北・西を低湿地で囲まれていました。
02:京阪電車・京橋駅
線路の反対側の道は高くなっています。
03:道の両側が低い理由を知る
階段の下はもともと川。高くなっている道は川が運んだ土砂などでできた自然堤防です。
04:自然堤防での戦いを感じる
細い自然堤防の上は、軍勢同士が戦うのには向いていませんでした。

難攻不落の理由 (2)南の大工事

01:かつての城下町の道路
徳川方は、秀吉が整備したこうした道を使って南から大坂城を目指そうとしました。
02:下り坂
道がこの先で下っています。
03:上り坂
台地を切断し、幅30~40m、深さ10m以上という巨大な空堀がつくられていました。
04:空堀の痕跡
05:空堀の高低差を感じる

ブラタモリ流真田丸探し

01:真田丸を探す
文書に残るヒント「東八丁目の門」はこのあたり。ここから真田丸を探します。
02:“一段高い畑”だった場所?
文書の次なるヒント「一段高い畑」とはこの段差のことかも知れません。
03:上から見渡す
発見されたばかりの最新の絵図と見比べて、タモリさんは真田丸の場所を確信!?<一般には公開していません>
04:出丸のあった場所?
05:真田丸の空堀?
06:お寺の裏の段差
絵図と照らし合わせるとこの西側が真田丸だったと考えられそうです。
07:真田丸の南側?
幅45mほどの堀があったはずですが、痕跡は見あたりません。
08:高校の屋上から“真田丸”を見下ろす
難攻不落の大坂城を支えた真田丸にタモリさんは思いをはせました。
<一般には公開していません>

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