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伝説の王・禹~最古の王朝の謎~

2017-12-31 | みる
古代中国 よみがえる英雄伝説「伝説の王・禹~最古の王朝の謎~」
2017年12月31日(日) 午前7時30分(90分)

◆五穀豊穣 米・麦・粟・黍・豆の5種
◆玉石混淆

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NHK公式ホームページより

番組内容

俳優・中井貴一が中国古代史の謎に迫る。司馬遷が記した「史記」には、最古の王朝「夏」は全土の治水に成功した「禹王」によって建てられたとある。これまで神話に過ぎないとされてきたが、近年の発掘調査から、夏王朝の実在が明らかになろうとしている。また、王朝成立以前、中国各地には、いくつもの文化が繁栄していたことも明らかになった。その中で禹が中国最初の王となり得た理由は? 最新の考古学から禹の実像を探る。

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Wikipedia夏より

夏(か、紀元前1900年頃 - 紀元前1600年頃 [紀元前2000年頃からとする説もある])は、中国の史書に記された最古の王朝。夏后ともいう。夏・殷・周を三代という。『史記』『竹書紀年』などの史書には初代の禹から末代の桀まで14世17代、471年間続いたと記録されている。殷に滅ぼされた。従来、伝説とされてきたが、近年、考古学資料の発掘により実在の可能性もある。

考古学的比定

夏の実在性

従来、史書に記された夏の実在性を確実に示す考古学上の発見が無く、伝説上の王朝とされてきた。

しかし、宮殿を持つ都市文化である河南省偃師の二里頭村の二里頭遺跡が、炭素14年代測定法により、殷の建国(二里岡文化)に先行していることが確定しており、また後から力を伸ばした殷はこの二里頭文化を征服して建国し、文化を継承した形跡が見られる。したがってこの二里頭文化が、史書のいう夏の時代に相当することになる。

しかし二里頭の都市文化は、文字の出土資料もなく、後世の概念である王朝・国家の性格を持っていたのかも不明である。考古学的に『「夏」と後世に呼ばれた政権が実在した事』を証明された事と、史書のいう『「夏王朝」が実在した事』を混同してはならない[1]。

現代の中国史・考古学学界では夏王朝が実在したものと見なされている[2]。

二里頭遺跡

詳細は「二里頭遺跡」を参照

二里頭遺跡は新石器時代の遺跡で、掘り出された住居の跡から人口2万人以上と推定される。当時としては世界有数の大規模集落。トルコ石で表現された龍、銅爵(どうしゃく)、宮殿区、龍の文様の入った玉璋(ぎょくしょう)が発掘されている。

「宮殿区」の南門近くにある「一号宮殿」は、回廊に囲まれ、内部に広い空間「中庭」、正面に「正殿(せいでん)」を配する構造となっている。この構造は、後の中国歴代王朝の宮殿構造に近く、歴代王朝ではここで宮廷儀礼を行っていることから、宮廷儀礼もここから始まったとも考えられる。

ヒスイの龍は、二里頭文化以前に栄えた遼河流域の興隆窪文化、紅山文化でも発掘されており、遼河流域の文化の影響が及んでいることが示唆される。龍は歴代王朝は王の権威の象徴として用いられていること、歴代王朝の宮殿と類似する宮殿跡などから、二里頭文化が歴代王朝に影響を与えた文化だと考えられ、二里頭文化こそ夏王朝だとする学者も多い。

また、二里頭遺跡周辺の当時の土壌に残る種子の分析から、粟(あわ)、キビ、小麦、大豆、水稲、の5種類の穀物を栽培していた痕跡がある。これにより、気候によらず安定した食料供給が可能となったと考えられる。これが、それまでに衰退した他の中国の新石器時代に起こった各文化との違いであり、その後の商(殷)とも推定される二里岡文化へと繋がる中国文化の源流となったとも言われる。

歴史

以下は主に『史記』「夏本紀」、『竹書紀年』による。

禹の創業

夏王朝の始祖となる禹は、五帝の一人顓頊の孫である。帝堯の時代に、禹は大洪水の後の治水事業に失敗した父の後を継ぎ、舜帝に推挙される形で、黄河の治水事業に当たり、功績をなし大いに認められた[要出典]。2016年8月に科学雑誌『サイエンス』に掲載された研究結果によると、この大洪水は紀元前1920年に起こったという[3][4][5]。

舜は人望の高かった禹を後継者と考えていた。舜の崩御後3年の喪に服した禹は、舜の子である商均を帝位に就けようとしたが、諸侯が商均を舜の後継者と認めなかった為に禹が帝位に即位し、陽城(現在の登封市)に都城を定めた。禹は姓は姒(じ)と称していたが、王朝創始後、氏を夏后とした。

禹は即位後暫くの間、武器の生産を取り止め、田畑では収穫量に目を光らせ農民を苦しませず、宮殿の大増築は当面先送りし、関所や市場にかかる諸税を免除し、地方に都市を造り、煩雑な制度を廃止して行政を簡略化した。その結果、中国の内はもとより、外までも朝貢を求めて来る様になった。更に禹は河を意図的に導くなどして様々な河川を整備し、周辺の土地を耕して草木を育成し、中央と東西南北の違いを旗によって人々に示し、古のやり方も踏襲し全国を分けて九州を置いた。禹は倹約政策を取り、自ら率先して行動した。 『竹書紀年』に依れば、45年間帝であったという。即位後、皋陶に政治の補佐をさせたが、皋陶の死去に伴い益による朝政の補佐が行われた。

尚、「禹」という文字は本来蜥蜴や鰐・竜の姿を描いた象形文字であり、禹の起源は黄河に棲む水神だったといわれている[注釈 1]。この神話から、禹及び夏人は南方系の海洋民族であったと想定する説もあり、その観点からも多数の研究書がある。



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紂王と太公望~王朝交代 古代最大の決戦

2017-12-30 | みる
古代中国 よみがえる英雄伝説「紂王と太公望~王朝交代 古代最大の決戦~」
2017年12月30日(土) 午前7時30分(90分) 
NHK-BS 再放送

中国の歴史って本で読んでも頭に入らないけど、考古学資料映像つきだと頭に入る(笑)。

◆勝者周の歴史感
殷が占いで生贄を捧げたり、女性が政治・軍事を司どった風習を非難
◆商人の由来
◆殷で生贄とされた人はチベット系遊牧民の骨の放射線分析から羌族
◆太公望

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NHK公式ホームページより

番組内容
中国史を彩る英雄たちの実像とは? 「史記」などに描かれた伝説の物語を、新発見の遺跡や出土文物からたどり、ロマンあふれる歴史の真実を浮かびあがらせる。酒池肉林の淫とうを重ね、残虐な生けにえや刑罰を繰り返したと伝わる殷の紂王。その強力な大軍を太公望率いる周が破り、新王朝をうち立てたのが古代史最大の決戦「牧野の戦い」だ。弱小国だった周の勝因とは? 意外な真相を美しい青銅器や古代遺跡が語り始めている。

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Wikipedia殷より

殷(いん、拼音: Yīn、紀元前17世紀頃 - 紀元前1046年)は、中国の王朝である。文献には天乙が夏を滅ぼして王朝を立てたとされ、考古学的に実在が確認されている中国最古の王朝である。商(しょう、拼音: Shāng)、商朝ともよばれる。紀元前11世紀に帝辛の代に周によって滅ぼされた(殷周革命)。

王朝名の殷

殷墟から出土した甲骨文字には、王朝名および「殷」は見当たらない。周は先代の王朝名として「殷」を用いた。殷後期の首都は出土した甲骨文字では「商」と呼ばれた。

(略)

商人という言葉は、商(殷)人が国の滅亡した後の生業として、各地を渡り歩き、物を売っていたことに由来するとされる。そこから転じて、店舗を持たずに各地を渡り歩いて物を売っていた人を「あれは商の人間だ」と呼んだことから「商人」という言葉が生まれたというものである。ただし、白川静は「商に商業・商賈の意があるのは、亡殷の余裔が国亡んでのち行商に従ったからであるとする説もあるが、商には賞の意があり、代償・償贖(とく)のために賞が行なわれるようになり、のちにそのことが形式化して、商行為を意味するものとなったものと思われる」と否定している。

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Wikipedia呂尚より

『史記』における仕官の経緯

姓は姜、氏は呂、字は子牙[2]もしくは牙[3]、諱は尚とされる[4]。軍事長官である師の職に就いていたことから、「師尚父」とも呼ばれる[3][注 1]。謚は太公。斉太公、姜太公の名でも呼ばれる。一般には太公望(たいこうぼう)という呼び名で知られ、釣りをしていた逸話から、日本ではしばしば釣り師の代名詞として使われる[5]。

生涯

歴史上重要な人物にも拘らず、出自と経歴は数々の伝説に包まれて実態がつかめない存在である[4]。殷代の甲骨文に呂尚の領国である斉の名前は存在するものの、周初期の史料に呂尚に相当する人物の名前を記録したものは確認されていない[6]。

『史記』斉太公世家では、東海のほとりの出身であり、祖先は四嶽の官職に就いて治水事業で禹を補佐したとされている[4][7]。一族の本姓は姜氏だったが、支族は呂(現在の河南省南陽市西部)や申(現在の陝西省と山西省の境)の地に移住し、土地名にちなんだ呂姓を称したという[4][3]。元は屠殺人だった、あるいは飲食業で生計を立てていたとする伝承が存在する[2][3]。

また周に仕える以前は殷の帝辛 (紂王) に仕えるも帝辛は無道であるため立ち去り、諸侯を説いて遊説したが認められることがなく、最後は西方の周の西伯昌 (後の文王) のもとに身を寄せたと伝わる[8]。周の軍師として昌の子の発 (後の武王) を補佐し、殷の諸侯である方の進攻を防いだ[9]。殷を牧野の戦いで打ち破り、軍功によって営丘(現在の山東省淄博市臨淄区)を中心とする斉の地に封ぜられる[10]。

営丘に赴任後、呂尚は隣接する莱の族長の攻撃を防いだ。『史記』によれば、呂尚は営丘の住民の習俗に従い、儀礼を簡素にしたという[7]。営丘が位置する山東は農業に不適な立地だったが、漁業と製塩によって斉は国力を増した[4]。また、斉は成王から黄河、穆棱(現在の湖北省)、無棣(現在の河北省)に至る地域の諸侯が反乱を起こした時、反乱者を討つ権限を与えられた[11]。死後、丁公が跡を継いだ。呂尚は非常に長生きをし、没時に100歳を超えていたという[11]。

(略)

呂尚が文王に仕えた経緯については、『史記』に3つの逸話が紹介されている。しかし、いずれの逸話も信憑性に疑問がもたれている[16]。

文王は猟に出る前に占いをしたところ、獣ではなく人材を得ると出た。狩猟に出ると、落魄して渭水で釣りをしていた呂尚に出会った。二人は語り合い、文王は「吾が太公[注 2]が待ち望んでいた人物である」と喜んだ。そして呂尚は文王に軍師として迎えられ、太公望と号した。3つの逸話の中で一般に知られているのは、この説である[17]。陝西省宝鶏には太公望が釣りをしたという釣魚台があり、観光地となっている。

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Wikipedia婦好より

婦好(ふこう)は殷第23代王武丁の妻の一人。名は好、婦は一種の親族呼称であり、諡号は母辛、姓氏は不詳。中国史に登場する最初の女性政治家、軍事家[1]。

武丁の在位中は周辺国家・部族に対し戦闘が行われており、婦好も数多く兵を率いて出兵した。巴方、土方、夷方などの征伐におもむき、羌人征伐のときには13,000もの軍勢を指揮している。また、祭祀を担当し、祭天、祭祖先、祭神泉などの儀式を執り行った。武丁の寵愛を受け封地を冊封されている他、婦好に関する甲骨卜辞は170件以上にものぼる。

甲骨文字には武丁が婦好の懐妊に際し男児か女児かを占った内容のものが残されている。

武丁に先立ち死去した婦好は殷墟の宮殿宗廟区内にある婦好墓(河南省安陽市)に埋葬された。殷王族の墓の中では唯一盗掘をまぬがれ、1976年に発見された。墓内からは婦好が軍事権を握っていたことを示す鉞や、殷代には珍しい銅鏡、方鼎や長方彜など1,928件の文物が出土している。

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Wikipedia牧野の戦い

事前の経緯

『史記』によれば殷末の帝辛は凶悪な暴君として知られ、重税を課し、諫めるものを殺し、先祖を祀るのに生贄として多くの人間を殺したために民衆は殷の支配を嫌うようになった。また、殷末期には外征も行われ、諸侯は次第に殷を倒す密議をするようになった。

帝辛はこれを知って怒り、ある日密議に加わった諸侯らを偽って招き、殺して塩漬けにした。周の君主である西伯の昌は篤実な性格でこの密議には加わっていなかったが、帝辛に疑われて奴隷とされた。さらに帝辛は殷の人質となっていた昌の長男伯邑考を羹(あつもの、スープのこと)にして昌に食べさせた。昌の家臣たちが帝辛に莫大な贈物をしたので昌の疑いは晴れて解放されたが、昌はこれを恨んで殷に復讐する決意を固めた。

昌は周に戻ったのち、近隣の諸国を併呑して国力を増大させ、さらに殷に恨みをもつ諸侯たちの間に手を回して次第に殷に対抗できるだけの力を持つに至った。しかし、老齢の昌は殷との対決を目前にして亡くなってしまう。

昌の後を継いで次男の発が周の太子として諸侯をまとめ、殷に決戦を挑むことになった。

発の率いる軍は殷の虚をついて決起し、諸侯の軍もこれに加わって瞬く間に大軍となった。殷軍は為す術もなく周軍は侵攻したが、発は「いまだそのときではない」と言って突如として軍を返し、周へと帰国した。

この理由は不明とされているが、

占いによって殷を滅ぼすのが不吉と出た。

諸侯の力を借りてあまりに素早く殷を滅ぼしてしまうと、周が王朝を開いた時に諸侯の力が強くなりすぎると考えた。

などの理由が推測されている。

牧野の戦い

数年後、発はまたしても軍を発して殷を攻めた。この際には様々な瑞兆があったといわれている。周軍は孟津という港から黄河を渡ろうとしたが、雷雨と暴風に邪魔されて河を渡ることが出来なかった。発は怒り、黄河の神に向かって「天命は既に下ったのだ。どうしてわたしの邪魔をするのか」と大喝すると嵐はやみ、周軍は河を渡ることができた。また、河を渡る船の中に白魚が飛び込んできた。白は殷のシンボルカラーである。

周軍と殷軍は殷の首都・朝歌に近い牧野で決戦することになった。『史記』周本紀によれば殷の準備は万全で70万という大軍を動員した、一方で周軍は諸侯の軍を加えても40万であった。しかも決戦を前にまたしても雷雨に見舞われ周軍の諸将は敗戦を恐れたが、発は殷の天乙 (湯) が夏の桀を破って王朝をひらいた鳴条の戦い(中国語版)においても雷雨がとまらなかったといわれていることから、むしろこれは周が勝って王朝をひらくという前触れであると言って全軍を勇気づけた。

殷軍は数の上では遥かに優勢であったが、その数は戦場にて不吉を祓うための神官を含んでいるうえに、殷に服属している小諸国の軍や、奴隷兵から成り立っていた。彼らも暴虐な帝辛の支配に嫌気がさしていたので、呂尚のもとで先進化された周軍の攻勢をみるや矛先を変えて襲い掛かり、殷軍は壊滅した。

事後

周軍は帝辛を追って朝歌まで攻め入り、帝辛は王宮に火を放って死んだ。発は帝辛の遺体に三本の矢を放ってから鉞で首を落としたという。『尚書』牧誓によれば、この日の干支は甲子であると記され、出土した青銅器銘文でも確認されている。ここに600年に及んだ殷王朝は倒れ、発は周王朝を開いて武王として即位した。

牧野の戦いは文献によれば大規模な大軍同士の戦闘とされるが、青銅器銘文や甲骨文においては「大邑商に克つ」と記されたものがあり、戦闘は殷の邑を先制して周が襲撃したものであるとも考えられている。


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始皇帝と乱世の名臣たち~春秋戦国 天下統一への道

2017-12-29 | みる
古代中国 よみがえる英雄伝説▽始皇帝と乱世の名臣たち~春秋戦国 天下統一への道
2017年12月29日(金) 午前7時30分(90分) 

◆兵馬俑に色彩
黒・白・黄・青・赤
中国各地の土壤の色
◆夏王朝の儀式
生贄として捧げる牛の耳を切りとり血を口につける
最も有力な国が儀式を指導したことから「牛耳る」
◆同盟契約の候馬盟書はこの時に牛の血で書かれた
◆夏王朝の権威→中夏→中華
◆陝西省西安で「封泥」
荷物の送り主や中身を示すもの
金や塩が集められていた
◆始皇帝の重要な都市・極廟
北極星を現した「皇帝」に
大河 渭水は天の川
◆北京の天壇公園
皇帝が天をまつる儀式を行う祭壇
◆孥
◆ちまき・ドラゴンボートの由来

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NHK公式ホームページより

番組内容

中国史を彩る英雄たちは、どのような生涯をおくったのか。「史記」などの文献に描かれた伝説の物語を、その舞台となった新発見の遺跡や文物などの映像でたどり、ロマンあふれる歴史の真実を浮かびあがらせる。強大な権力とカリスマ性で戦乱の中国を統一したといわれる秦の始皇帝。統一はなぜ成し遂げられたのか。秦の誕生の地で進む発掘や兵馬俑が明らかにする意外な真相とは? 秦のライバルだった詩人屈原など名臣の悲劇とは?


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Wikipedia孥より

弩(ど、おおゆみ)は、東アジア、特に中国において古代から近世にかけて使われた射撃用の武器の一種。「いしゆみ」と訓ずることも少なくないが、これは厳密には正しくはなく、石弓と混同されたものと思われる。

構造編集

弩は横倒しにした弓(翼と言う)に弦を張り、木製の台座(臂もしくは身と言う)の上に矢を置き引き金(懸刀と言う)を引く事によって矢や石などが発射される。この引き金の機構全体を機と言い、初期は剥き出しのまま臂に埋め込まれていたが、後には郭に収納され、それが臂に埋め込まれるようになった。

(略)

性能

弓に比べて初速が100 - 300m/sと速く矢も重く太いため飛距離(最大射程)・貫通力に優れ、照準を合わせやすく命中精度にも勝る。ただし、射出後空気中での安定性が悪い為か有効射程は高張度の合成弓のそれと大差の無いものもある。また、前述のように150kg程度の高張力を必要とする為、連射性能は弓(張力はその数分の一から、大きくても半分以下)に比べて劣っている。

この為、13世紀 - 14世紀ロングボウを装備したイングランド軍にフランスの弩(クロスボウ)兵が圧倒されたり、日本のように小規模な抗争が多かった社会では紛争が多くても弩が省みられなかった世界も存在する。

ただし、威力が射手の腕力に依存し命中精度を上げるのにも長期間の訓練が必要となる弓に比べ、誰が用いても威力が変わらず短時間の訓練で一定の命中精度が得られる弩は、農兵等の戦争に不慣れな人材を大量に動員する必要があった社会(中国・ヨーロッパ)では重宝された。

通常の弓よりは飛距離は優れているものの、構造上短くて矢羽の少ない矢を使用せざるをえないので、敵軍が弩を持っていない場合、自軍が放った矢を敵軍は再利用できないという利点もあった。

歴史

中国における最初の文献的証拠は『孫子』である[1]。紀元前5世紀に始まる中国の戦国時代には斉の孫臏が戦闘で弩兵を運用している記述があり、既にこの頃には主力の飛び道具として使われていた[1]。戦国時代頃の弩は発射装置を構成する部品である青銅製の精巧な弩機が遺跡から発掘されており、殊に直後の統一秦の時代ではあるが、始皇帝陵の兵馬俑坑からは保存状態の良いものがいくつも出土した。

蚩尤や黄帝、または楚の琴氏が発明したという伝説が存在するものの、発明時期、発明者などは不明である[2]。中世の中国においても主力武器の一つとして使われており、唐の軍隊では約2割が弩を装備していた。弩兵の一斉射撃により、騎兵の突撃力を弱め制圧する事が可能であり、北方の騎馬民族の侵入に悩まされ、歩兵が中心の中国にとっては不可欠な武器であった。

中国において弩は、政府管理の武器として厳格に管理されており許可無き保有は罰せられた[1]。 その製造・整備は政府直轄の工房で行われており、その製造には高度な技術が必要だったと思われる[1]。つまり、弩とは中央政府の強固な意志によって作られ、維持される高度な技術製品だったのである。

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Wikipedia屈原より

屈原は楚の武王の公子瑕(屈瑕)を祖とする公族の1人であり、父は屈伯庸、弟は屈遙、子の名は不詳。屈氏は景氏・昭氏と共に楚の公族系でも最高の名門の1つであった(これを三閭(中国語版)と呼ばれる)。家柄に加えて博聞強記で詩文にも非常に優れていたために懐王の信任が厚く、賓客を応接する左徒となった。

当時の楚は、西の秦といかに向き合っていくかが主要な外交問題であった。楚の外交方針について、臣下は二分していた: 一つは、西にある秦と同盟することで安泰を得ようとする親秦派(楚における連衡説)であり、もう一つは、東の斉と同盟することで秦に対抗しようとする親斉派(楚における合従説)である。屈原は親斉派の筆頭であった。当時の楚では屈原の政治能力は群を抜いていたが非常に剛直な性格のために同僚から嫉妬されて讒言を受け、王の傍から遠ざけられると同時に国内世論は親秦派に傾いた。

屈原は秦は信用ならないと必死で説いたが、受け入れられない。屈原の心配どおり秦の謀略家張儀の罠に懐王が引っかかり、楚軍は大敗した(張儀の項を参照)。丹陽、藍田の大敗後、一層疎んぜられて公族子弟の教育役である三閭大夫へ左遷され、政権から遠ざけられた。

秦は懐王に婚姻を結ぼうと持ちかけて秦に来るように申し入れた。屈原は秦は信用がならない、先年騙されたことを忘れたのかと諫めたが懐王は親秦派の公子子蘭に勧められて秦に行き、秦に監禁されてしまった。

王を捕らえられた楚では頃襄王を立てた。頃襄王の令尹(丞相)として屈原が嫌いぬいた子蘭が着任したため、更に追われて江南へ左遷された。その後、秦により楚の首都郢が陥落したことで楚の将来に絶望して、石を抱いて汨羅江(べきらこう)に入水自殺した。後に屈原の無念を鎮めるため、また亡骸を魚が食らわないよう魚のえさとしても人々が笹の葉に米の飯を入れて川に投げ込むようになったと言われ、これがちまきの由来といわれる[1]。

また、伝統的な競艇競技であるドラゴンボート(龍船)は「入水した屈原を救出しようと民衆が、先を争って船を出した」という故事が由来であると伝えられている。

屈原の強烈な愛国の情から出た詩は楚の詩を集めた『楚辞』の中で代表とされ、その中でも代表作とされる『離騒(中国語版)』は後世の愛国の士から愛された。


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娘役表紙@宝塚GRAPH 2014年~2017年

2017-12-28 | たからづかほん
とりあえず1回は表紙になってる。
娘役2人写りの愛希れいか・実咲凛音が珍しい。

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2014年2月号

2014年3月号

2014年6月号

2014年7月号

2014年11月号

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2015年3月号

2015年10月号

2015年11月号

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2016年12月号

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2017年2月号

2017年5月号

2017年8月号

2017年9月号
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娘役表紙@歌劇2014年~2017年

2017-12-28 | たからづかほん
愛希れいか強いね。

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2017年9月号

2016年10月号
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