めご の ひとりごと

ほぼ ひとりごと と おぼえがき

ブラタモリ 宝塚

2018-01-13 | ぶらたもり
#95 宝塚
~なぜ 宝塚は“娯楽の殿堂”になった?~
総合 2018年1月13日(土)
午後7時30分~8時15分

ブラタモリで宝塚が見られるなんて・・・なんて私得(笑)。
宝塚新温泉・プール失敗・花の道が堤防とか宝塚ファンだと既に知ってることが多かったけれど。

◆宝塚市人口23万人に対して宝塚観劇のために訪れたのは117万人・・・リピーター多いからね(笑)。

紅ゆずる・綺咲愛里登場。



タモリはミュージカルは突然歌いだしたり疑問だらけだけど、宝塚は羽根を背負っていたり疑問の上をいってるらしい(笑)。

タモリを後押しする紅ゆずる(笑)。
バラエティーで的確な反応できる紅ゆずると、可愛い綺咲愛里の組み合わせ良かったかも。

宝塚の昔の映像と『Bouquet de TAKARAZUKA』



◆六甲山地と長尾山地の間から流れる武庫川の扇状地
◆武庫川は暴れ川だったので、宝塚の中心地に人が住み始めるのは明治以降
◆小高い「小浜」 大堀川 毫摂寺 寺内町
◆小濱宿 有馬街道・西宮街道・京伏見街道の交差点 芝居小屋・酒
◆明治 宝塚温泉 花街
男の遊ぶところ
女子供 家族連れで遊ぶところを 武庫川左岸の低湿地を埋め立て宝塚新温泉
◆プール失敗で建物利用で宝塚少女歌劇
◆花の道は自然堤防



★★★★★

ブラタモリ、宝塚へ!
今回の舞台は兵庫県の宝塚市。タカラヅカといえば、なんといっても「宝塚歌劇団」。華やかな歌とダンスが織りなすステージ、めくるめく世界を楽しみに年間110万人以上が訪れます。しかしそんな夢の舞台があるのは、大阪や神戸といった関西の都市からは少し離れた郊外の町。いまの宝塚の中心部が多くの人が住むようになったのも、わずか100年ちょっと前のことなんです。ではどうして、そんな場所が“娯楽の殿堂”になることができたのか。タモリさんがブラブラ歩きながら、タカラヅカのヒミツに迫ります。
まずは宝塚のシンボル・大劇場にやってきたタモリさんを、現役の星組トップスター&トップ娘役がお出迎え!タモリさんが長年の疑問をタカラジェンヌに直撃!?
続いて、町のはじまりを探るべく向ったのは、とある高台の集落。人工的につくられた川や曲がりくねった道筋からタモリさんが気付いた、意外なタカラヅカのルーツとは?民家の奥深くに眠る、江戸時代の人々に愛されたモノの痕跡とは?
さらに歌劇団が出来る前に、宝塚の発展のきっかけになったという場所へ。歌劇団の「清く正しく美しく」とは違った“大人の娯楽”と“昭和のマドンナ”の正体とは?
そしてタカラヅカファンが集まる、大劇場へ続く「花のみち」でついに明らかになる、“娯楽の殿堂”を生み出した意外な地形のヒミツとは?

オープニング

01:花のみち
ブラタモリ「宝塚」。宝塚大劇場へ向かう道からスタート!
02:“ナゼ宝塚は娯楽の殿堂になった?”
大阪や神戸から離れた郊外に、日本を代表する娯楽の殿堂が出来た理由を探ります!
03:宝塚大劇場へ
現在の劇場になってから25年。延べ2500万人以上の観客が訪れています。
04:豪華な劇場の内部を見る
現役の星組トップスターとトップ娘役の出迎えにタモリさんもビックリ!

江戸時代のまちの中心

01:大堀川
人工的に堀られた川です。江戸時代まで、宝塚の中心は、川の先の高台・小浜にありました。
02:クランク
城下町に見られるような道のクランクがあります。
03:毫摂寺
戦国時代、小浜は寺を取り囲む町全体が要塞のような防御機能をもった「寺内町(じないまち)」でした。
04:駄賃定札
今で言う交通料金が書かれています。江戸時代、小浜は宿場町として賑わいました。
05:かつての造り酒屋
江戸時代、小浜宿は酒の名産地でもありました。

明治以降の発展

01:武庫川の近く
武庫川は元々「暴れ川」。この周辺の発展が始まったのは明治以降のことです。
02:「宝塚温泉」の石碑
明治17年ここで温泉がみつかり、最盛期には70軒近くの旅館が建ち並びました。
03:温泉街に生まれた娯楽を知る
明治から昭和まで宝塚には、芸者が一流の芸で客をもてなす「花街」がありました。

娯楽の殿堂と誕生

01:宝塚大劇場の立地を知る
宝塚大劇場のある場所は、元々、一面の低湿地でした。
02:再び宝塚大劇場へ
03:「宝塚新温泉」がわかる礎石
明治44年に開業した新温泉。翌年につくられた日本初の室内プールが、宝塚歌劇団の誕生の礎となりました。
04:「花のみち」と松
小高くなっている「花のみち」は、もともと武庫川の自然堤防。松はその名残です。

・・・・・




★★★★★
Wikipediaより

毫摂寺 (宝塚市)

毫摂寺(ごうしょうじ)は、兵庫県宝塚市小浜にある浄土真宗本願寺派の寺院。小浜御坊とも称され、寺内町として発展した小浜の中心であった。山号は出雲路山。本尊は阿弥陀如来。

毫摂寺所在地兵庫県宝塚市小浜5-5-12位置北緯34度48分24秒
東経135度21分52秒山号出雲路山宗派浄土真宗本願寺派本尊阿弥陀如来創建年明応年間(15世紀末)開基善秀別称小浜御坊法人番号3140005018624テンプレートを表示

歴史

本願寺三世覚如に帰依した乗専が丹波国六人部(福知山市)の天台宗寺院を改宗して毫摂寺と称し、京都に移して覚如の末子・善入が住職となった。その末裔の善秀が明応年間(15世紀末)に小浜庄を開き、この地にも毫摂寺を建立した[1]。

その後寺内町として発達した小浜は、交通の要衝で武将の往来も多く、豊臣秀吉が有馬湯治の際千利休を伴い毫摂寺に宿泊し、茶を点てたという。また、秀吉の養子・秀次も有馬湯治の際に毫摂寺に宿泊し、寺の次女亀姫を見初めて側室(小浜の局)としたが、秀次が失脚・切腹すると、妻子や他の側室とともに亀姫も三条河原で処刑され、毫摂寺も焼き打ちにあう。

江戸時代には小浜は宿場町として復興し、毫摂寺は八本松の名所として知られるようになった[2]。

明治に入り浄土真宗本願寺派に属することとなる。

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