体罰だけは許さない。
この言葉自体が存在して良いものか、それも問題である。
体罰が効果的だと信じる体育教師やスポーツ現場の人間はまだまだ多いだろ
う。それはなぜか?何かしら成績を残し、美化されているからだ。
しかし、体育やスポーツにおける練習は何のために行うのか?それを考えれ
ば体罰が不要な事は明らかである。
体育科というカテゴリーが学校にある。次世代の体育教師、指導者を目指
す若者に、その指導術や精神を教える場所、それが体育科だ。
体育やスポーツを理論的に解明し、技術やパフォーマンスを向上する、また
はさせる術を学ぶ場所、それが体育科である。理論と実践である。
今回、有罪判決が出た体育科教師は正に、この集団の先頭に立っていた人間
である。
体育科が教える体育理論の中の精神と指導について、体罰が効果的
だという話は出てこない。
「目指す目標に向かって、どう取り組むことで、できないものを出来るように
するかを理論的に解決していく術は、この体育理論には載っている。」
理想とされる指導法の中にない体罰という手段を先陣切ってやってしまって
いるのだ。もはや教育でも指導でもない。自己満足の世界。
殴った分だけ、技術が上がる、成績が出るなら、練習なんていらない。練習
の意義、それを考えればやるべき事は一つ。
「出来ないものを何故できないか指摘すること。どうしたら克服できるか、選
択肢を与えること。見抜くことである。その能力があるのが教師である。」
なければ磨く。その姿勢が教師にも必要であり、自信を持って行う指導も、
慢心して絶対視してしまうような心構えでは、人はみれない。
有罪判決により、社会的制裁を受けた。もはや当事者外からの追及はもう
不要だ。反省し、またこのような事件が全国で起きぬよう、忘れずいたい。
おしまい