本当は「火葬場にたつ少年」

2021-05-03 | 歴史、

2019年11月にローマ教皇が長崎に来られて「戦争がもたらすもの」として

世界に発信されたこの写真はアメリカ軍カメラマンのジョー・オダネルが

被爆後約2ケ月の昭和20年10月中頃の日中に撮影したものだということが

今回の調査で分かったそうです。

 

 

 

オダネルは次のように説明しています。

「遺体を火葬する焼き場で弟を背負う少年に出会った。

小さな体はやせ細り、ぼろぼろの服を着て裸足だった。

背中には(死んだ)幼い男の子が括り付けられていた。

少年は焼き場の淵まで進むとそこで立ち止まった。

係員は背中の幼児を下し足元の燃え盛る火の上に乗せた。炎は勢いよく燃えあがり

立ち尽くす少年の顔を赤く染めた。少年は気を付けの姿勢でじっと前を見続けた。

急に彼は回れ右をすると背筋をピンと張り、まっすぐに前を見て歩み去った。

一度も後ろを振り向かないまま」と。

孤児となって共に生きてきた弟を亡くし遺体を焼いた少年にはこれから先

生きていかねばならない現実があり泣き言は言っていられなかったのでしょう。

調査によると、少年には一定以上の放射線量を浴びることによる鼻出血が

あったのか、鼻栓らしいものが見られたそうです。

撮影場所はほゞ特定されていて(2説あり)、今回のコンピューター調査では

長崎市北部、道ノ尾、長与、大草方面となっています。

 

道ノ尾駅は私が戦後住んでいた住吉町から12~15分位北で土地勘のある場所です。

大草は伊木力ミカンの産地です。

僭越ながら私の感覚では原爆の被害が大きく及んだのは道の尾駅あたりまでです。

道の尾駅のすぐ近くには、戦争孤児収容の向陽寮があります。

その頃まで少年が生きながらえていたら、こちらに保護されたでしょう。

「どんな大人に出会えたか」又「どこに引き取られたか」によって

生死が分かれたと言われています。

(一部資料はNHKETVにお借りしました。)