マヨの備忘録・・・マヨのぼやきから

いろいろあったな・・・真実を知りたい!この一心で始めたブログだったが、知れば知るほど世の中の闇は深くなるばかり・・・。

今日もこちらに・・・

2009-09-02 10:18:39 | インポート

今日もエキサイトが調子悪い、一応投稿したけど見れなくなる恐れがあるので、同じ内容ですがこちらにもアップしておきます。(内容は同じです。)

いやいや大変でした。久しぶりに「マヨのぼやき」に投稿したら、なぜかコメントがたくさん来るし、ためしに作ったブログ、「マヨの「日本はどうなる」」にもコメントが来てるし、あっちこっち目が回りそう・・・・。ためしに作っただけだから新しいブログを更新するつもりはないのだけど、ちょっとかっこいいのでもったいないな、一応緊急避難先として確保しておこうかな?

さて、昨晩はサムライさんがジンギスカン義経説に反対するもんだから、ついむきになって鹿島先生の「義経=ジンギス汗 新証拠」を探し出し読んでいた。まあ、義経がジンギスカンだとすると、モンゴルとしても自国の英雄が日本人ではちょっと困るし、日本も、一応朝敵だった義経が大陸で皇帝になってもらうとやや立場が悪い。いろいろな思惑の中で、誰も真実を明らかにするのを望まなかったのだろう。意外と知られていないのだけど、ジンギスカン義経説は江戸末期、シーボルトが唱えたものなのだ。また、徳川光圀公も「義経は衣川で死せず、逃れて蝦夷へ渡ると述べたと言う。
いずれにしても広く流布され始めたのが大正13年、小谷部氏が「成吉思汗は源義経也」を発表してからで、やはり、満州への思惑の違いか、学者達を総動員してよってたかって否定論を発行し論戦を繰り広げた。つまり、政治に巻き込まれたのである。なぜそれほどまでに学会を刺激したのであろうか?

さて、今日の話題はそのことである。即ち、ツラン民族運動についてである。サムライさんからいただいた栗原茂氏のレポートに寄れば、大正時代、日野強という軍人が極秘に満州から新疆を目指し、トルファンを経てウルムチまで到達。「現地にて何州少佐と呼ばれ、イリ将軍などに格別な厚遇を得たのも姓に根ざす遺訓として、儒道歌道に通じたからで、家訓に学ぶ伝承あればこそのめぐみなのである」、との謎の言葉を書いている。この日野家については後日詳しく調べる事にしているが、今日は彼が元をたどれば、藤原内麻呂の北家までたどることが出来、さらに本願寺大谷家とも親戚関係にあるという事だけにとどめる。

この日野強の行動はいうまでもなく、日本のさる筋が「ツラン民族運動」になみなみならぬ興味を持っていたことにつながる気がするのである。さらに、満州にユダヤ王国を作ろうとした筋の後ろには、大本教、日蓮宗、堀川、玄洋社などの姿がかすかに浮かんでくるのも感じられるのである。

昨晩、鹿島氏の本を読んでいたら、源頼朝は文治4年(1189年)以降、隔年に阿曽山神社に参拝し、その都度、時の大宮司三浦義仁より同神社に古代より伝承された神代史実の読書に熱中、さらに建久4年(1194年)には阿祖山神社の由来所を提出することを命じたとある。
そして、「書上申阿曽山三社由来の事」を頼朝に提出した。そして、三浦実顕、高山義澄、徳永時直の三氏を大陸に派遣させた。彼等は震旦より月氏八カ国にわたり、カラン、フランス、インキリ国など28カ国を巡り11年間の旅行を終え、弔旦と題し広く天下に発表した。
さらに、頼朝の庶子、大友能直はこの調査結果を元にまとめたものが「上記」であると言う。
鹿島氏によれば、彼等が大陸にいる間、即ち(1198年から1211年)の間にジンギスカンが即位している。つまり、各国の調査と言うよりは義経が生きていることを承知していて、その監視の意味があったのではないかと述べている。

テーマが大きいので、今日はこのぐらいしか書けないが、頼朝はウガヤ王朝の源流を訪ねたのであり、ツラン民族とは即ち、ウガヤ王朝を指していることはほぼ間違いないと私は考えるが、いかがでありましょう。


2 コメント

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こんにちは。 ()
2009-09-02 12:52:48
こんにちは。
シバちゃんの方へはコメ入れたのですが
中々入らなかったですね。
「マヨの「日本」はどうなる」は、、、
昨日アドレス入れたけど動かなくなってしまって、
見られませんでした。
で、ここでクリックしてやっと見られました~。
ホント!何かオカシイねーーぇ!!
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姫さま、どうも。調子悪いですね。 (mayo)
2009-09-02 13:01:47
姫さま、どうも。調子悪いですね。
9月になり、システムの入れ替えとか、サーバーの交換とかをやってるのかもしれませんね。
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