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東響第95回川崎定期(2024年4月21日)

2024年04月21日 | コンサート

共にフィンランド出身の指揮者サカリ・オラモとソプラノのアヌ・コムシを迎えたお国物を中心としたコンサートである。まずエイノユハニ・ラウタヴァーラの「カントウス・アルクティクス」(鳥とオーケストラのための協奏曲)作品61である。自ら収録したフィンランド中部の湿地帯に生息する鳥たちの鳴き声をソリストとするユニークな「協奏曲」だ。2chで収録された鳥の声のテープ音がホール天井から舞台に降り注ぐ中、オケがそれに呼応する3つの楽章から成る佳作だ。幾種類かの鳥の声とオケが北国の自然風景を描き、最後はフィンランドの国鳥オオハクチョウの群れが春を告げる。まことにシーズン幕開けに相応しいスターターではないか。続いてはカイヤ・サーリアホの「サーリコスキ歌曲集」(管弦楽版)の日本初演だ。ペンッティ・サーリコスキの詩集から採られた人生と自然についての詩をコムシが独特の歌声で歌い上げたが、それは声を超越してオーケストラと同化し大きな感動を誘った。休憩を挟んでシベリウスのソプラノ独唱付きの交響詩「ルオンノタル」作品70だ。ルオンノタルは「カレヴァラ」に登場する大気の精で、空虚のはざまで激しい風や波と交わり受胎の末に水の乙女となり700年もの歳月孤独に海を漂流する話が題材である。詩は禁欲生活の中で絶望した作曲者が共感した自然も超越した峻厳な内的世界を描くが、ここでもコムシは他の誰にも達し得ないような共感でその世界を浮き彫りにした。いったい彼女以上に説得力を持ってこの曲を歌える歌手はいるのだろうかと思わせるほどの絶唱に会場は大いに沸いた。シベリウスはこの作品を「間違いなく私の最良の作品の一つだった」と語ったそうだが、この演奏はその言葉を裏付けるものだった。そして最後に置かれたのはアントン・ドヴォルザークの交響曲第8番ト長調作品88である。ここまでは峻厳な自然を描く趣の曲を連ねておいて、ここで郷愁を誘うドヴォルザークを締めに置いた意味はどうしても不明であるが、演奏自体は、所謂ボヘミアの哀愁のようなものとはハッキリと訣別した、極めて闊達明快な秀でたものだった。オラモの強力な統率力の下でオケもその機能を十二分に発揮し、胸の空くような輝かしく爽快な演奏を展開した。それでもやはり連続性の謎は聞きながらも脳裏を行き来していたのだが、「ドヴォ8冒頭のフルート・ソロとラウタヴァーラとの鳥繋がり」というのが今の所辿り着いた唯一の答えである。




紀尾井ホール室内管第138回定期(2024年4月20日)

2024年04月21日 | コンサート

2021年11月定期以来二度目の登場となるピアニストのピョートル・アンデルシェフスキ迎えた2024/25年シーズン開幕公演である。スターターは指揮者無しでグノーの小交響曲変ロ長調だ。名前は「交響曲」だが、木管7本のアンサンブルの滅多に演奏されない曲である。私も生で接するのは多分生涯二度目だと記憶するが、今回は紀尾井の名手達の卓越した表現力がグノーの魅力を十全に引き出した。フルート相澤政宏、オーボエ神農広樹・森枝繭子、ファゴット福士マリ子・水谷上総、クラリネット有馬理絵・亀井良信という顔ぶれ。続いてアンデルシェフスキの弾き振りでモーツアルトのピアノ協奏曲第23番イ長調K.488。のっけから水際だった玉井菜採率いる弦の美しさに心を奪われたが、どうしてか肝心のピアノの方は余り印象に残らず。もちろん均整がとれた心地よく美しい響きなのだが、前回の来日時のようなアゴーギクは影を潜めていた。ここまでが前半で後半はルストワフスキの「弦楽のための序曲」で始まった。全体にバルトークを感じさせる雰囲気の漂う音楽だが、ピチカートも多いこんな曲を指揮者無しで演るのは無謀じゃないかというのが正直な感想だ。さすが鉄壁のアンサンブルを誇る紀尾井なので、目立った乱れこそ聞き取れなかったが、表現に物足りなさを残した。最後はベートーヴェンのピアノ協奏曲第1番ハ長調作品15。これは実に面白く聞いた。アンデルシェフスキーのアグレッシーヴな音楽の魅力がピアノにも指揮にも表れた最高に楽しい時間だった。とりわけ「ラルゴ」での弱音表現の掛け合いの素晴らしさには息を飲んだが、一方で両端楽章で聞かせたオケのシャープな音も印象的だった。聴衆に背を向けてオケを煽りながら弾き振りする姿を観つつ、ベートーヴェンもこんな風に演奏していたんじゃないかと「妄想」を巡らせた。大拍手にアンコールはハイドンのピアノ協奏曲第11番ニ長調からの緩徐楽章。ここでも特上のピアニッシモが静謐な音楽空間を作り出していた。


バッハ・コレギウム・ジャパン第160回定期(2024年3月29日)

2024年03月29日 | コンサート

2024年の聖金曜日にタケミツ・メモリアルホールで開催されたBCJによるJ.S.バッハ作曲マタイ受難曲の演奏会である。指揮は主席指揮者の鈴木優人。エヴァンゲリストはベンヤミン・ブルンス、ソプラノはハナ・ブラシコヴァと松井亜季、アルトはアレクサンダー・チャンスと久保法之、テノールは櫻田亮、バスは加耒徹とマティアス・ヘルムという声楽陣だ。私はキリスト教者ではないけれど、やはりこの曲を聞くとなれば襟を正して聞かざるを得ない。前回は2015年のラ・フォル・ジュルネだったと思う。プログラムによるとその時が今回の指揮者鈴木優人のマタイ初振りだったということだ。まあそれはともかくとして、キリスト受難の3時間を超える大曲の中に身を置くことは決して楽なことではないので、これが生涯最後の生マタイになるのかなと思いつつ席についた。生き生きとしていて俊烈な響き、しかし決して禁欲的でなく心地よく自然な音楽は、一瞬にして私の心を鷲掴みにし、3時間はアッ言う間に大きな感動のうちに過ぎ去った。それはもちろん声楽のパートにも器楽のパートにも最高の演奏者を揃えたBCJの成せる技ではあるのだが、それにしても鈴木が各コラールに与えた表現の多彩さは何ということだろう。この曲に於いてコラールは民衆の心を代弁する役割を果たすが、このように歌われると聞く者は否応なしに受難のストーリーに引き込まれるのである。これまで聞いてきたコラールとは異次元の音響世界で、こんなに心に染み入るコラールは受難曲で聞いたことがない。そしてブルンズの語り部としての秀でた歌唱も極めて大きな牽引力となった。こうした全体的な感動の中でははなはだ微視的なことになるが、第42曲のバスのアリアに寄り添った若松夏美のオブリガード・バイオリンの鮮やかさは、この厳粛な時間の流れの中で一服の清涼剤として深く印象に残った。いや〜言葉にし難い実に貴重な、そして有り難い時間だった。


びわ湖ホール声楽アンサンブル東京公演(2024年3月24日)

2024年03月25日 | コンサート

今年度で開館25周年を迎えたびわ湖ホールの活動を支える専属の声楽アンサンブルの東京公演である。前日には本拠地びわ湖ホールでの初日公演があったのでこの日が2日目ということになる。今回は初代音楽監督若杉弘氏へのオマージュということで「The オペラ!」と題され、その若杉が「青少年オペラ劇場」として幾度も上演を重ねたブリテン作曲の歌劇「小さな煙突掃除屋さん」のセミ舞台上演がメインであった。この45分ほどの小オペラは「オペラを作ろう」という3幕仕立ての舞台作品の一部で、最初の二つの幕では背景がドラマとして語られ、この作品はその第3幕という位置付けになる。そして今回それに先立って演奏されたのは何と演奏時間90分を要するヴェルディ作曲の「レクイエム」なのだ。これは世界的にもほとんど顧みられることのないヴェルディの初期オペラ8作品の舞台を、オール日本人ダブル・キャストで立て続けに上演し成功に導いた若杉の快挙に敬意を表した選曲なのだろうと想像するが、それにしても何とも驚きを禁じ得ない無謀とも言える選曲ではないか。しかしその企画の破天荒な自由さは、このアンサンブルならでは、あるいはびわ湖ホールならではと言って良いのではないか。さて演奏の方は、この劇場と座付きの演出家と言えるほど関係の深い中村敬一の要領の良い構成・演出が功を奏した後半が圧倒的に面白かった。アンサンブルの一人一人の生き生きした歌と芝居が作品を大いに盛り立て楽しませてくれた。そうした特質はびわ湖ホールでの大オペラとの共演や、中ホールでの自主オペラ、更には70回を超える定期公演や地域を中心とした幅広い活動で培われたものだろう。聴きながら1960年代初めの若き日々から日本のオペラ界を影で支え牽引し続けた初代音楽監督若杉弘のオペラへの強い愛と心意気が、現在のびわ湖ホールにしっかりと根付いていることを強く感じて胸が熱くなった。一方前半のヴェルディは17名のメンバーと河原忠之の指揮・ピアノ伴奏だけという小編成の演奏。(誰の編曲なのかは明らかにされていない)こちらは小編成なので声楽的には各声部が良く聞き取れてとても興味深いものだった。ただし本来オーケストラが圧倒的に物を言う作品だけに、ピアノ一台の寂しさを克服することはできなかったというのが正直な感想である。


KCO名曲スペシャル:ニューイヤー・コンサート2024(2024年1月26日)

2024年01月26日 | コンサート

ニューイヤー・コンサートと言えば毎年元旦に開催されるウイーン・フィルのものがつとに有名であるが、昨今は初登場や珍しい曲ばかりで組まれる傾向があるように思える。それはそれで良いのだが、どうも私には音楽的に物足りなさを感じるようになって来た。そこへゆくとこの紀尾井ホール室内管弦楽団とその名誉指揮者でウイーン・フィルのコンマスも務めるライナー・ホーネックの演るニューイヤー・コンサートは曲目がとりわけ変化に富んでいて飽きることがない。まず一部はモーツアルトの歌劇「フィガロの結婚」の序曲で始まり、ホーネックの弾き振りによるバイオリン協奏曲第5番イ長調K219が続いた。まあここまではある意味腕試し的な感じで、紀尾井のアンサンブル自体もちょっと荒いかなと感じられる所もあった。しかし協奏曲ではホーネックの軽やかさと機敏さを併せ持った爽やかなウイーン風に酔った。休憩後の最初は何とリヒャルト・シュトラウスの楽劇「バラの騎士」よりワルツ・シークエンス第2番。楽劇の第3幕の音楽だけで構成された優美な香りに満ちた蠱惑的なメロディが次から次へとホールを満たし、一気にアンサンブルの熱量も上がり紀尾井ホールがあたかもウイーンのシュターツ・オパーになったよう。そして続く「バラ」のワルツの原型が聴かれるヨーゼフ・シュトラウスのワルツ〈ディナミーデン〉のアカデミックな選曲に唸った。驚くべきは次のコルンゴルドのバレエ音楽〈雪だるま〉からの抜粋だった。これは作曲者11歳の時のピアノ曲をエーリッヒ・ウオルフガング・ツエムリンスキーがオーケストレーションした不思議な魅力的を秘めた音楽だった。そしてヨゼフ・シュトラウスのポルカ・マズルカ〈とんぼ〉、ヨーゼフ・ヘルメスベルガー2世の〈妖精の踊り〉、ヨゼフ・シュトラウスのポルカ・シュネル〈休暇旅行で〉と続き、その後は趣をガラリと変えてヨハン・シュトラウス2世の〈芸術家のカドリーユ〉で、メンデルスゾーン、モーツアルト、ウエーバー、ショパン、パガニーニ、マイヤベアー、エルンスト、シューベルト等の作曲家達の大パロディ大会に思わずニヤリとさせられる。この後は純粋なウインナ・メロディが、ヨゼフ・シュトラウス&ヨハン・シュトラウス2世のピチカート・ポルカ、ヨゼフ・シュトラウスのポルカ・シュネル〈おしゃべりな可愛い口〉、ヨーゼフ・シュトラウスのワルツ〈天体の音楽〉、ヨーゼフ・シュトラウスのポルカ・シュネル〈騎手〉と続き、これで本プログラムが終了した。ここまでをシュトラウス・ファミリーの音楽だけで見ると、8曲中6曲がヨゼフ・シュトラウスの作品、1曲がヨゼフとヨハン2世の合作、最も有名なヨハン・シュトラウス2世の作品に至ってはたった1曲だけという極めて特異な構成だ。更に8曲中ワルツは〈天体の音楽〉と〈ディナミーデン〉のたった2曲しかないのだ。しかしながらウイーン情緒に満たされた満足感で心満たされて帰途についたのだから、ホーネックと今回のゲスト・コンマス、バラホスキー率いる紀尾井のアンサンブルの力量たるや只ものではないということだ。ちなみにアンコールだって奮っていて、エドワルド・シュトラウスのポルカ〈速達郵便〉とヨハン・シュトラウス2世のポルカ〈雷鳴と電光〉ということで、お決まりの〈蒼きドナウ〉も〈ラデツキー〉も無しで実に清々しいではないか。というわけで、マンネリに竿刺すホーネックの姿勢が随所にうかがわれる実に楽しく充実した〈ニュー・イヤー〉だった。


京都市響第685回定期(2024年1月20日)

2024年01月23日 | コンサート

沖澤のどかを追いかけて本拠地京都にやって来た。京都のお洒落な街北山にある京都コンサートホールで開催された彼女が常任指揮者を務める京都市交響楽団の1月定期演奏会である。先日の東京シティ・フィルへの客演時と同様のフランス物を並べたプログラムだ。最初は滅多に生で演奏されることのないアルチュール・オネゲルの交響曲第5番「三つのレ」である。どの楽章も消えるように終わりはするが、作曲当時の不健康な健康状態の悲壮感よりむしろオネゲルの精緻な筆致をよく表した演奏だった。そして迷いのない棒による推進力からは秘めた力さえ感じさせられた。2曲目はハープ独奏に吉野直子を迎えてフランスの女流作曲家ジェルメーヌ・タイユフェールのハープと管弦楽のための小協奏曲。美しい佳作ではあるが、いかんせん演奏のせいか、はたまた聞いた場所のせいか、独奏ハープの音が聞こえづらく聴覚上のバランスがとても悪く余り楽しめなかったが、それはこの楽器の持つ華やかさを封じ込めたような筆致のせいが大きかったのかもしれないと思った。吉野の実力はむしろアンコールのマルセル・トウルニエの”朝に”で示された。これは文句なくハープの持ち味を存分に楽しめる華やかで美しくかつ繊細な演奏だった。休憩を経て、ジャック・イベールがパリからスペインを経てローマに向かう船旅で各地を回った印象に基づいて書かれた3曲なら成る組曲「寄港地」だ。京都市響の瑞々しくしなやかな弦がとりわけ印象的だった。最後はモーリス・ラヴェルの「ボレロ」。沖澤はプレ・トークで今回は初版の譜面通りの一般より遅めのテンポで演奏すると言っていたが、むしろ目立ったのはその正攻法な姿勢だった。芝居じみた外連味を一切排して最後まで極めてスタイリッシュに振り抜いた爽やかな今の彼女らしい「ボレロ」だった。鳴り止まぬ拍手に、元旦に起こった能登地方の震災・津波の犠牲者に思いを寄せつつ、徳山美奈子の交響的素描「石川」より第2楽章「山の女」”山中節より”が奏された。(沖沢は若い頃OEKで修行したことがあったそうで、今回の災害には只ならぬ思いがあったであろう)


TV放送:NHKニューイヤーオペラコンサート(2024年1月3日)

2024年01月07日 | コンサート

この番組はもう何十年も前からか年初の楽しみとして毎年テレビで拝聴してきた。何年か前には試しにNHKホールに足を運んで生で体験したこともあったが、裏の仕切りが厄介で、やはり茶の間でお屠蘇気分で楽しむものだと実感した。昨今は毎回一回ごとに趣向を凝らした舞台作りと演出で、ある意味楽しませてくれている。しかしとりわけ今年は「対の歌声、終わらない世界」と題されて、黒い衣装に身を包んだ磯野佑子アナウンサーが暗く変に勿体ぶった感じの語りで全体を進める不思議な展開だった。新年早々能登地方では地震が、羽田空港では飛行機のクラッシュがある波乱の幕開きへの配慮なのかどうかは不明だが、とても新たな年を寿ぐ雰囲気ではなかったし、その不気味というか、無用な厳しさが「オペラ」を視聴者から遠のかせるのではないかと心配になった。その昔は舞台にオーケストラが並び、男性歌手は燕尾服あるいはタキシード、女性歌手はドレス姿でオケをバックにアリアを披露する単純なコンサート形式だった。「緊張して年を越し、この番組が終わらないと新年になった気がしない」というある歌手の方の言葉が何故か印象に残っている。森正指揮の東フィルをバックにクラシック音楽に造詣の深いNHKアナウンサー後藤美代子さんの司会で、伊藤京子、大橋国一、立川澄人、五十嵐喜芳、砂原美智子といった日本を代表する歌手たちが登場していたのが私の初期の思い出だ。もちろん昨今登場する歌手達の持つ歌唱や演技の技量は世界水準で「思い出の舞台」とは隔世の感があるが、つまらぬ事を考えずに、次から次へと登場する歌役者達の歌を楽しめた昔が懐かしく感じられた。


ベートーヴェン弦楽四重奏曲【8曲】演奏会(2023年12月31日)

2023年12月31日 | コンサート

今年で18回目を迎える大晦日昼1時から夜8時半までのマラソン演奏会である。隣の大ホールでは広上淳一指揮の交響曲全曲演奏が挙行されているのだから、この日は上野の東京文化会館はベートーヴェン・ファンで埋め尽くされるわけだ。演奏メンバーに一昨年から新たにクァルテット・インテグラが加わった。古典四重奏団は1986年、クァルテット・エクセルシオは1994年、インテグラが2015年の結成ということなので、日本を代表する重鎮、ベテラン、新進気鋭の常設アンサンブルがベートーヴェンの中期・後期の弦楽四重奏曲で技を競うのだから興味は尽きない。今年は作品59のラズモフスキーの3曲「エクセルシオ」が担当した。彗星の如く登場して話題になったこのアンサンブルもいつしかベテランの域に達ししなやかさは何時もながらだが、ラズモの3番では強く後期を感じさせるような仕上がりになっていることにアンサンブルの円熟を感じた。続いて「古典」は作品127と130(大フーガ)の2曲。ストイックを脱して融通無碍な境地に達しようとしている印象を強く持った。最後は新鋭「インテグラ」による作品131、132、135の3曲。晩年のベートーヴェンの諧謔的な筆致を材料に遊び尽くしたような極めて個性的な演奏。これは決して否定的な意味ではなく、若く新鮮な感性で作曲者の本質的な部分を引き出したということだ。この3曲がこんなに文句なく楽しい曲だったとは、これは大発見だ。これからがとても楽しみな若者達である。終了後は会場は大歓声に包まれ、心満たされて上野の森をあとにした。





紀尾井室内管弦楽団第137回定期(2023年11月17日)

2023年11月18日 | コンサート

コロナ禍で一旦中止になったオッタービオ・ダントーネと紀尾井のアンサンブルの共演が実現した。勿論夫人でコントラルトのデルフィーヌ・ガルーを伴ってのことである。まずはヘンデルの歌劇「アルチーナ」序曲、サラバンド、ガヴォットⅡ、それにアリア「復習したいのです」で始まり、歌劇「ジュリーオ・チェザーレ」よりアリア「花吹く心地よい草原で」、歌劇「リナルド」よりアリア「風よ、暴風よ、貸したまえ」と続いた。さぞかし尖った演奏なのだろうと思っていたが、紀尾井のアンサンブルが穏やかに受け止めてか、とても居心地の良い古楽の響きに驚いた。細かなパッセージでも一糸乱れぬ弦にニュアンス豊かな木管は紀尾井の強みだ。一方ガルーの歌唱は声量こそあまりないが、自在に喉を駆使して見事なアジリタを聞かせた。響きが今ひとつ抜けきらない感もあったが、伴奏はそれを上手くカバーした。続くステージは同時代のナポリ派の作曲家ポルポラのピアノ協奏曲ト長調。この曲は元来チェロのための協奏曲なのだがダントーネが鍵盤楽器のために編曲し、今回はダントーネがピアノで独奏をした。古典派を通り越してロマン派的な響きを聞かせた編曲が面白かった。休憩を挟んで次のステージはヴィヴァルディだ。まず歌劇「テンペのドリッラ」からシンフォニア、歌劇「救われたアンドロメダ」からアリア「太陽はしばしば」、歌劇「狂えるオルランド」よりアリア「真っ暗の深淵の世界に」、そしてガラッとかわってグルックの歌劇「パーリデとエレーナ」よりアリア「甘い恋の美しい面影が」。後半になるとガルーの声は少し前へ届くようになってはきたが、そもそも小さな空間で歌われるべきものなのだろうから、無理のない響きで丁寧に技法を尽くすというスタイルがそもそも音符に合っているようにも思われた。そして日頃まったく接することのないバロック・オペラの4人の音楽家を一つの舞台に並べて聞くうちに其々の個性が明確に聞き取れて実に楽しい時間が過ぎていった。ここでいい忘れてはいけないのは「狂えるオルランド」のアリアでのコンマス玉井菜採のオブリガード・バイオリンの見事さだ。ガルーと同じ感性をもってピタリと寄り添う音楽にガルーの歌唱ともども惚れ惚れした。そして最後は実に逞しいハイドンの交響曲第81番ト長調で結ばれた。古楽スタイルであるのに決してエキセントリックにならない骨太の音楽に、このスタイルの成熟を聞いた。ここで終わりかと思ったら鳴り止まぬ拍手にダンドーネがついに夫人を帯同して現れてアリアのアンコール2曲。ガルーの技にアジリタの悦楽を味わった一夜だった。


紀尾井ホール室内管第136回定期(2023年9月22日)

2023年09月23日 | コンサート

秋のシーズン幕開けは首席指揮者トレヴァー・ピノックを迎えたオール・メンデルスゾーンのプログラムだ。この作曲家は総数750もの作品を生み出したそうだが、そのうち宗教曲が90作品にも及ぶという。しかしそんな宗教曲を我々がコンサートで聞ける機会は意外と少ないのではないだろうか。そした意味で今回はとても貴重な機会だった。どれも主を賛美する内容で統一されており、私自身はキリスト教者ではないのだが、とても満たされた豊かな心持ちになって帰途についた。前半はオラトリオ「聖パウロ」の序曲、それに続いて独唱つきの合唱曲詩篇第42番《鹿が谷の水を慕うがごとく》だった。ピノックの指揮は明快にして良く歌い豊かな感情を紡ぎ出す。ソプラノのラウリーナ・ベンジューナイテの美しくリリカルな歌声が心に染みた。そして新国立劇場合唱団の清澄さと力強さを併せ持った歌声は世界に誇れる出来だった。休憩を挟んではメインの交響的カンタータ(交響曲第2番)《讃歌》変ロ長調。下世話な例えではあるが、「♪箱根の山は天下の剣」のようなメロディで始まるこの曲は個人的にはどうも理解が及ばないところがあったのだが、今回はその神髄を理解できた思いがする。それと言うのも明快にして主を讃える感情を一杯に湛えたオケと独唱と合唱が三位一体となった見事な共同作業の成果であったといって良いだろう。テノールのマウロ・ぺーターはとりわけ後半のエヴァンゲリトを思わせる歌(語り)が見事だったし、代演の澤江衣里もベンジューナイテに対峙して二重唱で実力を発揮した。そして全体を通して、アントン・パラホフスキー率いるこの日の紀尾井のアンサンブルは、第二バイオリンのトップにもう一人のコンマスである千々岩英一を据えて万全の体制で臨み、その深く確固たる自信に満ちた生命感に溢れた音楽はヨーロッパを思わせる響きで感動を誘った。黒い僧服のような出で立ちで神への讃歌を紡ぎ出すピノックの姿は、あたかも神に祈りを捧げる牧師を思わせた。


東京シティ・フィル第74回ティアラこうとう定期(2023年9月9日)

2023年09月10日 | コンサート

「かてぃん」こと角野隼斗が登場するということで、発売後間もなく全席売り切れになったプレミアム演奏会だ。だから会場に着くといつもは地元ファンが集まるのんびりした雰囲気の土曜午後のティアラこうとうが、殺気だった異様な雰囲気に満ちていたのには驚いた。指揮は、「モーツアルトが向いている」と角野に選曲アドヴァイスをしたという首席客演指揮者の藤岡幸夫だ。最初に先日逝去されたこのオケの桂冠名誉指揮者飯守泰次郎氏を偲んでバッハの「エアー」が献奏された。指揮台を見つつ亡きマエストロの立ち姿を思い出しながら聴いた。そして1曲目はヴェルディ作曲歌劇「シチリア島の夕べの祈り」序曲。藤岡は来年の定期でも1曲目にロッシーニの歌劇「ラ・チェレントラ」序曲を据えているので、なにかイタリア歌劇に思うところがあるのだろうかと勘繰ったのだが、特別なことはない演奏。快速調でおもいっきり鳴らしたヴェルディで私にはどこかオペラの世界とはかけ離れて聞こえた。そして期待の角野が登場してモーツアルトのピアノ協奏曲第26番ニ長調K.537「戴冠式」。出だしからポロポロとオケに合わせて指慣らし。というよりも音が鳴りだしたらピアノを弾かずにはいられないという感じだ。透明な粒立ちの良い美音はある意味モーツアルトにピッタリで、ピアノと戯れるその姿に作曲者の姿が二重写になった。カデンツも独特の「かてぃん流」なのだが、決して「クラシック」の範囲を踏み外さないあたりが、ジャズに行ってまたクラシックに戻ってくる「小曽根流」とは趣が異なる。これは実に楽しい30分だった。盛大な拍手にアンコールは、最初のフレーズに「キラキラ星変奏曲」かなと思ったら、これも角野流の変奏曲となって、こちらはグランド・マナーのロマン派の世界にまで飛んでいってとても面白かったが、追っかけファンのスタンディングオベーションはいささか異次元の世界だった。最後は藤岡のセレクションによるプロコフィエフのバレエ音楽「ロミオとジュリエット」組曲。全曲から9つのシーンが選ばれた。こちらも1曲目と共通するようなシティ・フィルの機能性を全面に出した骨太で豪快な演奏だった。


第43回草津夏期国際音楽アカデミー&フェスティバル (2023年8月26日〜30日)

2023年08月31日 | コンサート

毎年恒例になっている晩夏の草津にやってきた。もちろん草津音楽の森コンサートホールで開催されるコンサートを聴くためである。今年はその終盤の4つの音楽会とアカデミーの優秀な生徒達によるスチューデント・コンサートを楽しく聴いた。まず26日はドヴォルジャークの弦楽六重奏イ長調、スラブ舞曲作品46-1&8と作品72-2(作曲者による四手連弾版)、ブラームスの弦楽六重奏曲第一番というプログラムだ。ここではショロモ・ミンツ(初参加)、高木和弘、般若佳子、吉田有希子、タマーシュ・ヴァルガ、大友肇らの名手によるブラームスの集中力の高い緊密なアンサンブルの演奏がとても素晴らしかった。ブルーノ・カニーノと岡田博美による迫力満点の連弾が二つの弦楽六重奏曲の間にアクセントを添えた。27日は「室内楽の神髄」と題されたプログラムで、ルードルフ太公のクラリネットとチェロの為の「ラルゲット」、その師匠ベートーヴェンのピアノ三重奏曲「太公」、スメタナの「モルダウ」(カーン=アルヴェルトによるピアノ版)とピアノ三重奏曲ト短調というプログラム。ルードルフ太公はベートーヴェンのパトロンでピアノ三重奏曲等多くの曲を献呈した相手としても有名だが、彼は音楽も嗜みベートーヴェンを師としたと歴史書では知っていたものの、その作品を生で聴ける機会は貴重だった。しかしこの日の圧巻はやはり悲壮な雰囲気に貫かれたスメタナのピアノ三重奏曲であったろう。それはクリストファー・ヒンターフーバー、カリーン・アダム、タマーシュ・ヴァルガらウイーン勢による渾身の演奏だった。その前にヒンターフーバーは超絶技巧の極みと言ってよいであろうピアノ版「モルダウ」を鮮やかに弾き切った。28日はとても多彩なプログラムで、カリーン・アダムスと般若佳子によるマルティヌーのヴァイオリンとヴィオラのための二重奏曲第2番、データー・フルーリー、カリーン・アダムスと高橋アキによるフルートとバイオリンのためのソナタ、高橋アキのピアノ独奏による一柳慧の「限りなき湧水」+「雲の表情I」と武満徹(西村朗編曲)の「さようなら」、若木麻有、大木雅人、四戸世紀、高子由佳、水谷上総、酒井由佳、蛯澤亮、上間善之、村中美菜ら管楽器9名によるF.クロンマーのパルティータ変ロ長調作品78、そして最後はそれにチェロの大友肇とコントラバスの須崎昌枝を加えたドヴォルジャークの管楽セレナードニ長調作品44だった。この日はまずその交響曲群とは趣の異なるマルティヌーの多彩な作風が興味を引いた。そして万感の想いで弾かれた武満に涙し、ボヘミアの郷愁を漂わせつつ最後に生き生きとしたマーチが戻ってくるドヴォルザークのセレナーデに心が弾んだ。今回参加した本公演最後の29日は「パノハ弦楽四重奏団へ感謝を込めて」と題されたオール・ドヴォルジャーク・プログラムだった。1998年以来毎年この音楽祭にハウス・カルテットとして参加してくれていたパノハはメンバー一人の引退による解散のためにもう草津に来ない。「感謝」はそうした彼らの長年の貢献への感謝なのだ。最初にカリーン・アダムと高木和弘と吉田由紀子による「ミニアチュア」作品75、続いてカリーン・アダム、泉里沙、吉田由紀子、タマーシュ・ヴァルガという珍しい組み合わせによる弦楽四重奏曲「アメリカ」作品96、そして最後はピアノのヒンターフーバーにクワルテット・エクセルシオが加わって弦楽五重奏曲イ長調作品81。「アメリカ」はアダムが弦楽四重奏は初めてということでスリリングだった。一方ピアノ五重奏の方は白熱しながらも極めて高い完成度が示された名演だった。今回の最後は30日の朝から開始されたアカデミーの各クラスから選ばれた優秀生によるスチューデント・コンサートだった。今回は8名が成果を発表したが、パガニーニのヴァイオリン協奏曲第2番(終楽章)を弾いた星野花(ミンツ・クラス)とシューマンの交響的練習曲(主題〜X)を弾いた今井梨緒(ヒンターフーバー・クラス)とサンサーンスのチェロ協奏曲第1番(1楽章)を弾いた上野玲(ヴァルガ・クラス)の3名に手納基金奨励賞が与えられた。個人的には沼津冬秋(インデアミューレ・クラス)によるモーツアルトのオーボエ協奏曲ハ長調(第1楽章)も天晴れと感じた。とは言え全員が良く弾いていた。この中から将来コンサートホールで出会える音楽家が出て来てくれることを楽しみに待ちたいものだ。


紀尾井ホール室内管第135回定期(2023年7月14日)

2023年07月14日 | コンサート

2020年に共演予定があったが、新型コロナ禍のために来演が延期されて今回になった待望の公演である。指揮のリチャード・ドネッティは、オーストラリア室内管弦楽団(ACO)をもう30年以上も率いて挑戦的な音楽を作り続けているバイオリニスト兼指揮者である。その意気込みは現代曲2曲とウイーン古典派の大交響曲2曲を組み合わせた今回の選曲にもうかがうことができるだろう。まずは映画音楽の分野で多く作品を生み出しているポーランドの現代作曲家ヴォイチェフ・キラル(1932-2013)の「オラヴァ」だ。名称はポーランドの地方名で、この地方の民族音楽に由来すると言うことだが、ヴァイオリンが繰り返す音形が少しづつ変容しながら様々な形で広がったり纏ったりする10分余の佳作である。リズムに乱れが生じた瞬間もあったが、トネッティの自由奔放な音楽が大きくプラスに作用してとても面白く聴くことができた。ACOではチェロを除いて全員立奏なので、今回はKCOもそれに倣った。表現の自由度が大きくなったのはそのせいもあったのかも知れない。続いて200年時代を遡ってヨゼフ・ハイドンの交響曲第104番ニ長調「ロンドン」だ。ここでは管楽器も立奏でトネッティは前曲にひき続いての弾き振り。現代楽器を使用しているがビブラートは一切かけずストレートな弦で管楽器とティンパニは強めのバランスだ。ここまでだと所謂古楽的奏法ということになるのだが、弦のアンサンブルが”革新的”なのだ。聞き合って纏めるというよりも其々が皆野放図に弾きまくるという感じに聞こえるのである。その結果極めて「開放的」な、悪い言い方をすれば「乱雑な」ハイドンになってしまって、私にとってはとても居心地の悪い30分だった。「ウイーン古典派」の固定観念があるからだと言われればそれまでだが、美しさがないのは困りものである。休憩を挟んで武満徹の「ノスタルジア〜アンドレイ・タルコフスキーの追憶に」+J.S.バッハ「われ汝に呼ばわる、主イエスキリストよ」BWV639が通して演奏された。これは予想に反して実に面白かった。静的な音の間と色彩の綾を聴くのではなく、もっと動的でダイナミックな音の変化と力のぶつかり合いを武満から聞いたのは初めてだ。これは西洋人(非日本人)の感性だとつくづく思った。続いてアタッカでバッハのコラールを据えたのも酔眼だった。続き具合が心地よいのみならず、武満のタルコフスキーへの深い想いを更に増幅させた効果があった。そして最後はモーツアルトの交響曲第41番ハ長調「ジュピター」K.551。ハイドンにガッカリしたのでどうなるかと思ったら、これが実に楽しかった。アンサンブルの作り方は基本的に変わらずで、互いに聞き合いながらあるところに調和してゆくというのではなく、弦楽奏者達を見ていると開放的に個々に存分に楽しみながら、しかし今回は齟齬が生じないような別種の”アンサンブル”が出来上がっているのである。更に演奏に絡む因習を捨ててゼロから曲を見直したといった感じで、新鮮なイントネーションがそこかしこから聞き取れる。その結果伸び伸びとした自由闊達な音楽が生まれるというわけだ。まさにドネッティ・マジックを聴いたということだろう。(ACOの現メンバーである後藤和子氏を今回の紀尾井メンバーに加えるという徹底ぶりだ)これは手に汗握るほど湧々してとびきり楽しい時間だった。もしかしたらドネッティの自由奔放な音楽作りを受け入れられるか否かは、モーツアルトとハイドンの音楽の資質の違いなのかも知れないなとも思った次第。勉強になった。


バーミンガム市響(2023年6月29日)

2023年06月30日 | コンサート

2016年にもこのオケを引き連れて来演している山田和樹だが、今回は首席指揮者/アーティスティック・アドヴァイザーとしての”凱旋公演”である。バーミンガムと言えばロンドンに次ぐ英国第2の都市なのだから、なかなか凄いポジションであることは確かだ。前任者にはラトルやネルソンズの名前があるところを見ると巨匠への登竜門かもしれない。さて、この日の曲目はピアノにチョ・ソンジンを迎えたショパンのピアノ協奏曲第2番ヘ短調作品21と、山田が熱望したというエルガーの交響曲第1番変イ長調作品55だ。まずショパンだが、2015年ショパン国際コンクール覇者のチョのピアノは繊細を極めた外連味のない率直な表現でとても好感の持てるものだった。それは巷で言われる「ショパン弾き」とは一線を隔する音楽だ。ただこの日のピアノ(スタインウエイ)の音はどこか冴えがなく、実力を発揮できていたかどうかは私には疑問だ。一方山田のサポートもそのピアノに対峙すべく微細を極め行き届いていた。更に凡ゆる声部のバランスが見事に整っていて表情づけも丁寧なので、ショパンのオーケストレーションの不満を感じる瞬間はひと時もなかった。アンコールは何とラヴェルの「道化師の朝の歌」だった。こんな曲を持ってくること自体、自分はショパン弾きではなく「ピアニスト」なんだと主張していることではないか。繊細さはもちろん、シャープな切れ味もある文句のない出来栄えなのだが、何故か私にはここでも色彩が感じられなかった。休憩を挟んでのエルガーは「お国もの」だけあって誠に共感に満ちた出来栄えだった。作曲者の生地であり、最愛の場所でもあったMalvernのなだらかな丘の続く風景が目にみえるような懐の深い豊かな音楽が続く50分。とりわけ深くウエットな叙情を湛えたアダージョから輝かしいフィナーレにかけての盛り上がりには心が躍った。決してヴィルティオーゾオケではないが、(だからこそ)このオケの音は実に親しみやすい雰囲気を持っている。それは山田とオケの現在の最良の関係を物語っているようで、聞いているこちら側にも幸福をもたらせてくれる時間だった。アンコールは音が厚いのでエルガーかなと思いつつ聞いていたのだが、HPで調べたらウオルトンの映画音楽「スピット・ファイヤー」から威勢の良い前奏曲だった。(譜面の赤い表紙には「前奏曲とフーガ」と書いてあった)これには会場は大盛り上がり。バイバイと奏者全員が観客に手を振って捌けた後に山田のソロ・カーテンコール一回でお開きになった。実に心楽しい良い時間だった。


東響第91回川崎定期(2023年6月25日)

2023年06月26日 | コンサート

2020年に来日を予定をしながらコロナ禍で共演を果たせなかった俊英ミケーレ・マリオッティがついにやってきた。そしてピアノに萩原麻未を迎えたウイーン古典派・ロマン派の演奏会だ。スターターはモーツアルトの21番の協奏曲ハ長調K467。出だしからオーケストラはとても丁寧な音楽を作る。日頃日本のオケでは滅多に聞けないような弱音の緊張感と美しさが印象的だ。その深い音楽に乗せて萩原のソロは時に繊細、時に大胆なほどに力強く幅広いレンジの音を作ってゆく。だからロココの微笑み以上に奥行きの深い立派なハ短調協奏曲に仕上がった。アンコールは最初はBachの平均律かと思ったら、グノーの「アベ・マリア」がしっとりと奏でられ静謐な空気を会場にもたらしてくれた。そしてメインはシューベルトの交響曲第8番ハ長調D944。ここでもマリオッティの棒は丁寧。とりわけ強弱のニュアンスを豊かに引き出すのが大きな特徴だ。もちろんその棒に追従した東響の貢献は大きく、棒弾きをしないとこんなにニュアンス豊かな音楽が立ち上るものなのだと言うことを再認識した。そしてここぞという処では渾身の力が入る。しかしそれは決して粗くならずにあくまでも音楽的なのだ。そんな訳だから同じフレーズの繰り返しが多くて日頃冗長に感じる時もあるこの「ザ・グレート」だが、今回は飽きるところは一刻たりともなくシューベルトの世界にのめり込めた。特筆すべきは東響の木管アンサンブル(荒・Neveu・竹山・福士)の素晴らしさ。そして随所でアクセントを添える硬質なティンパニーも良かった。2019年にペーザロのピットで彼の指揮する「セミラーミデ」と巡り会って以来才能に溢れた指揮者だと思っていたのだが、やはり間違いはなかったようだ。オケからも歓迎されている雰囲気だったので是非また東響に来てほしいと思う。今度はブラームスの2番あたりを是非聴きたいものだ。