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まさおレポート

諸法非我あるいは無我か ブッダの宿題

追記2024-04-10

諸法非我かあるいは無我か。佐々木閑氏のYoutubeからようやく理解できた気がする。輪廻する主体は何かの議論が2500年立っても続いている実に理解し難い、しかし極めて重要な課題で頭を悩ませてきた。ある人はそんなことを考えても何の意味もないとして夢幻のように見れば良いとか。頭であれこれ考えても、悟るまではわからないとか。

涅槃に至らない人の死後は縁起の中に溶け込んでしまい、どこを探しても見つからない。しかし再び生を得て、つまり縁起によって生まれ変わる。川の水に例えてみると的確かどうかわからないが少しはわかった気になるかもしれない。

川は存続するが流れる水は一時も同じではない。しかし川は存在し続けるように見える。

諸法非我とは死後は縁起の中に溶け込んでしまい、どこを探してもその存在や実体は見つからないが川の水が次々とポイントを変えてつまり地形を変えて存在し続けることを指すのかな。

諸法無我とは死後は縁起の中に溶け込んでしまい、どこを探してもその存在や実体は見つからない。まして涅槃に入れば永遠に無我となる。川の水が次々とポイントを変えてついには海に注ぐ。

諸法非我の存在が輪廻を離れ涅槃に入れば諸法無我となる。結局同じことを違う側面から言っているのだろうか。私なりにスッキリした感がある。

初稿2018-06-25 追記2024-03-21 
こうも考えられる。非我は輪廻の収束するまでを指し、無我は輪廻が終わりもはや生まれ変わることはないという境地を指す。
 
諸法非我or無我 輪廻はある? 我は存在するのかしないのか、これは仏教学界を未だに二分する問題らしい。我を存在するとしなければ輪廻はないので確かに根本的な見解の相違だ。おまけに釈迦自身が無記と述べて非我or無我を考えるなと弟子に諌めている。考えても仕方がない、時間の無駄なのでひたすら修行に励めということか。

平たくいうと現代のお盆の習慣は輪廻を前提としており、この風習は釈迦に端を発する仏教として正当な習慣か異端かということになる。仏教に関心のない人々にはどうでも良い問題提起なのだが仏教信者や宗教学者にとって極めて巨大で重要な問題が曖昧なままで出発しているということになる。2500年にわたっての釈迦の意図せざる疑問提起ということになる。

ドストエフスキーのカラマーゾフの兄弟で大審問官へのキスの意味が永遠の疑問あるいは謎とされ、今後も論文の種になっていくことと同種の歴史のカラクリのようなものを感じてしまう。そういえば永遠にとけそうもない謎めいた一節を残している作品がある。「バラの名前」村上春樹作品の多くのように。意図せざる方法なのかも。

仏教は宗派の数が半端でなく多い、文科省届出だけでも十三宗五十六派に及ぶとか。23億人の信者がいるキリスト教でも13億から17億とも言われるイスラム教でもスンニ派などメディアでいくつかあることは知れるがたかだか数千万人の信者で十三宗五十六派とは以上なおおさだが、おそらく根っこの解釈に自由度が高いので日本仏教も宗派が多いのではと考えてしまう。

明治以来宇井伯寿に始まり仏教は無我とされてきたが最近は異論を唱える人が出てきたという。中村元氏や宮元啓一氏は諸法無我説を退け非我説をとる。

宮元啓一氏はブッダは「アートマン(自己)ではない」=非我とは説いたが、「アートマンがない」=無我とは説かなかったと主張し、無我説を斥け、その根拠として因果律を置く。原因があれば結果があるのでその責任を引き受ける主体つまり我がなければ困ったことになるのだ。つまり因果律には時効がないので死後に主体がなくなれば責任の追求先がなくなる。


混乱の元は非我説が無我説に転じたことにあるらしい。

「比丘たちよ、色は無常である。無常なるものは、苦である。苦であるものは、自己ならざるもの(無我と訳されるが本来は非我)である。自己ならざるものは、『これはわたしのものでない、これは、わたしではない、これは、わたしの自己(本体)ではない』と、このように、ありのままに、正しい智慧によって見るべきである。」(『サンユッタ・ニカーヤ』三五・四)

非我の漢訳がいつのまにか無我になったというわけだ。つまり非我と無我の両儀的な梵語(サンスクリット)から一義的な漢字への漢訳の誤りというわけだ。釈迦自身が無記と述べていることもこの誤訳を支えた理由の一つだろう。五蘊と心で経験・観察できない神秘主義的な問題としての我、アートマンに関して釈尊は沈黙しただけであり否定はしていない。

もう一つの誤解は「ミランダ王の問い」が無我説の根拠の一つにになっていることだが説得力のない文献だと三木悟氏は現代仏教講座(youtube)で述べている。

釈尊は、経験・観察できる世界に対しては、諸法無我の立場を貫き、人間存在(色・受・想・行・識)はすべては無我である、アートマンではないとしている。経験・観察できない世界に対しては、沈黙を守り、死後の世界もアートマンは生き残るかどうかなどという議論はおろかであるとして無記としている。増谷文雄氏はブッダは対機説法(仏教では、相手の能力や状況などに応じて教えを説きこれを「対機説法」と呼ぶ)を盛んに行ったので相手によっていうことを変えているの述べている。

それならそれで以降の仏教徒はこの議論をやめればいいものをそうではなく延々と続けている、なぜか、やめてしまうと巨大な矛盾を抱えた体系になり、特に日本の大乗仏教諸派は存立の根拠に疑問を投げつけられたようで気持ちが悪いのだ。久遠実成の仏を説く法華経や阿弥陀仏などを根拠とする諸派からすると輪廻がないとする説には同意いたしかねるだろう。

だからそんな疑問は放棄するのが潔いのだがやはりなんとか解明したい。釈迦はリーマン予想よりもはるかに難しい命題を後世に残したのだろうか。あるいは単に文献学的理解の問題に着せられるのだろうか。

宮元啓一氏の無我論=アートマン論に耳を傾けてみよう。

宮元啓一氏のアートマン論
「因果を認めるということは、因果応報、自業自得の原則を認めることですから、倫理的な行為を為す主体とその行為の結果を享受する主体とは同一にして不変でなければなりません。この主体こそが自己なのです。」 『仏教かく始まりき:パーリ仏典《大品》を読む』p.104)

「同一にして不変」は龍樹の不生不滅・不常不断・不一不異・不去不来の八不中道に反しております。倫理的な行為を為す主体とその行為の結果を享受する主体とは、龍樹『因縁心論』に説かれる天井の月の池面に映る月、渓谷における声とこだま、印と印章の比喩にある通り、同一であるものでも異なるものでもあるのではありません。

「自己は、まさに自己反省的自己あるいは自己完結的自己ですから、あらゆるものごとに実在性を与える根源であって、現象として現われることはありません。」『仏教かく始まりき:パーリ仏典《大品》を読む』 (p.181) 

中村元氏は『龍樹』で、原始経典に縁起真如(諸法実相)の法理が説かれたことを指摘する。縁起真如であれば無我はありえないことになる。法華経の根本思想である諸法実相の法理は釈尊の直説といえると述べる。

ゴータマ・ブッダの、こうした五蘊非我の教えは、ゴータマ・ブッダが入滅してはるかに時が経つと、「五蘊のいずれも自己でないならば、どこにも自己は存在しない」という趣旨の「無我説」へと変質しました。「自己」ということばを主語にした議論にかかずらうなというゴータマ・ブッダの戒めは、忘れられてしまったのです。(p.97)

因果を認めるということは、因果応報、自業自得の原則を認めることですから、倫理的な行為を為す主体とその行為の結果を享受する主体とは同一にして不変でなければなりません。この主体こそが自己なのです。(p.104)

自己は、まさに自己反省的自己あるいは自己完結的自己ですから、あらゆるものごとに実在性を与える根源であって、現象として現われることはありません。(p.181)

「生まれることは滅尽した」(輪廻的な生存は今生で終わり、もはや生まれ変わることはない)という境地にまで至るというのが、ゴータマ・ブッダの仏教の目標なのです。ちなみに、こうしたことばを前にして、「ゴータマ・ブッダは輪廻説を否定した」などと堂々といえる人がいれば、ぜひお目にかかりたいものです。(p.184)宮元啓一『仏教かく始まりき:パーリ仏典《大品》を読む』

宮元啓一氏のアートマン論=無我説が説得性を持つと思う。

こうも考えられる。非我は輪廻の収束するまでを指し、無我は輪廻が終わりもはや生まれ変わることはないという境地を指す。

宮元啓一氏自身は仏教徒ではないと自ら宣言している。(原始的アニミズムらしい)これもなかなか含蓄のある答えだ。なるほどドグマに侵されてはいけないということか。


以下参考

「想い(サンニャー)を想うものではなく、想いを離れて想うものでもなく、想わないものでもなく、虚無を想うものでもない。―このように知ったものは、色形を滅する。というのは、想いを原因として、多様な言語世界(パパンチャ)の名称が起こるからである。」『スッタニパータ』(874)

「行為と煩悩が滅するから、解脱がある。行為と煩悩は、思慮分別によって起こる。これらは、多様な思い(プラパンチャ)にしたがってあるが、多様な言語・表象世界(プラパンチャ)は空性(シューニャター)の中に滅するのである。」龍樹『中論』(18.5)

「瞑想するに応じて正しく考察するならば、それ(万物)を正しく観ずる人にとっては、〔万物は〕実体なく、空虚である。」(『サンユッタ・ニカーヤ』)

『マッジマ・ニカーヤ』第121経で釈尊は、「空」と「空性」の境地を明確に区別して語り、「空性」という言葉を使う時には、「空」ということを一切におよぼしたときの悟りの境地として語っています。

説一切有部等の部派仏教ではダルマの実体を説き、釈尊の説いた一切皆空の教えが忘れ去られてしまう、釈尊の原点に返って、空思想を蘇らせようとしたのが、大乗仏教における般若思想であり、それを論理的に大成させたのが龍樹。

平川彰氏の『初期大乗と法華思想』には法華経の悟りである阿耨多羅三藐三菩提について、パーリ上座部において、かなり早くから説かれていたことが指摘されており、このことは、この無上菩提の悟りが、かなり以前から語られていて、それを大乗が取り上げたことを示します。(竹村牧男著『仏教は本当に意味があるのか』82P)

徹底思考の瞑想の中で、ゴータマ・ブッダは、すべての因果関係の鎖を確定し、知ったのですが、改めて確認するさいには、いわば各駅停車で項をたどったのではなく、特急列車のように最重要な項のみをたどりました。その項の数が十二だったのです。(p.12)

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