音次郎の夏炉冬扇

思ふこと考えること感じることを、徒然なるままに綴ります。

箱根駅伝の伴走車

2010-01-10 07:16:52 | 時事問題
夏などはMTBでサイクリングする途中、河川敷の遊歩道に腰を下ろし高校生の部活の練習風景を眺めることがあり、たまにサッカー部が他校との練習試合をやっていると、つい真剣に見入ってしまったりします。そんなとき気になるのは指導者の声です。試合中のべつ幕なしメガホンで怒鳴り続けているのですが、1プレーごとにいちいち反応していて、うるさいったらありゃしない。この監督もさすがに公式戦ではここまでではないでしょうし、練習試合だからこそ逐次指導しているという言い分かも知れません。でもこんなにも箸の上げ下ろしまで日常的に言われ続けていたら選手は萎縮して、自分で考えてプレーする力、フットボールにおけるクリエイティビティーを涵養できないし、上の顔色を見ながらでは生徒も楽しくないだろうなと思ってしまうのです。せっかくのスポーツなのに。

結局、今年は2日間通しで観てしまいましたが、正月の風物詩、大学スポーツの華というにとどまらず、箱根駅伝は今や屈指の国民的行事と呼べるほどになっていることを実感。でもなんとなくですが、この独特のスポーツイベントは外国人の目からはかなり奇異に映るんじゃないかと・・・。なぜなら、わが国の世相やメンタリティーを反映しているような気がしたのです。キーワードは「過保護」です。

箱根駅伝における伴走車の歴史も変遷があります。経済小説の俊英である黒木亮氏は、あの瀬古と同じ時期に早稲田大学競走部に在籍し、箱根駅伝を2度走った経験がありますが、自伝的長編『冬の喝采』(面白いので駅伝ファンは必読)では、当時の指定車である自衛隊ジープに乗り込んだ中村清監督が、実践的なアドバイスもなく、ひたすら「みっやこのせいほーく♪」と校歌をがなり続けていたというエピソードを披露しています。そんな牧歌的な時代もありましたが、伴走車そのものの廃止や、車上からの声がけ規制(区間ごと何回以内)などの変遷を経て、今では「大会運営管理車」という名目でスピーカーもOKになったようで、指導者がどんなことを云っているのかは、視聴者にも結構聞こえてきます。

箱根駅伝がスリリングであるポイントは2つ挙げられると思います。一つは10人で走るということです。穴のない駒を10人揃える編成は有力校と言えども大変なことで、大エースのダニエルを擁して今シーズンの出雲(6人)と全日本(8人)を制した優勝候補の日大が14位と惨敗し、シード権を逃してしまったことからもわかります。それから、なんといっても区間平均20kmという長丁場を走るというのが最大の特徴で、10kmでは誤魔化せても20kmという距離は厳しいと言われます。オーバーペースや故障、体調不良が即ブレーキにつながるということです。

過熱人気によるプレッシャーや、冬とはいえ長距離のわりに給水ポイントが少ない(2箇所)ことを考慮し、選手の健康面をケアする必要があります。それにTV完全生中継、首都圏要路の交通規制など、極力スムーズな運営が求められるという事情もあり、各チーム1台の車での随行が認められているのでしょう。しかし近年は、スピーカーからの声は決して抑制的ではなく、四六時中といっていいほどの頻度で、内容も実に細かい。

長丁場においては、フォームのチェック、ラップタイムの確認、他校の動向など客観的・俯瞰的なアナウンスは必要でしょうし、孤独なランナーは日頃薫陶を受けている師から鼓舞してもらって力を得ているのかもしれません。それにしても、総合2位の駒澤大学のアンカー10区の日本橋から大手町のあたりで続いた大八木監督の叱咤激励を中継マイクがかなり拾っていましたが、はっきり云ってやかましい。まるで選手がお受験ママに管理される子どもみたいに映ってしまう。

生島淳の『監督と箱根駅伝』を読んでいるので、高卒で就職して2社を渡り歩きながら、駒澤に入学し25歳で箱根デビューした苦労人の大八木監督は緻密な理論派で決して嫌いじゃないんですが、ちょっと過保護すぎやしませんか? 

マラソンに限らず、競技というのは結局は一人で戦うものでしょう。その日の気候や体調を考え自分と対話しながら己をコントロールして進むのが陸上なんじゃないんですか? こんな過剰なナビゲーションは選手の自主性を奪います。箱根駅伝の人気が上昇するにつれて、有望な選手が育たず、日本のマラソンがダメになったのは、こんなところにも要因があるような気がするのです。

ここまで読んだ方はおわかりかと思うのですが、この手取り足取り頭取りの振り付けは、これから本番シーズンを迎えるお受験に通底しませんかね。学校選び塾選びには親があらゆる情報を収集しエクセルを駆使して分析、あげく勉強を教えるだけでなく、熱心な親は予想問題まで作るという中学受験は正気の沙汰ではないと常々思っているのですが、その結果として何が起きるかというと、大学付属校でない中高一貫校出身の生徒は、大学受験や就職活動に対して受身的なスタンスで臨む傾向があるらしいのです。

誰かがなんでも決めてくれて、それに従うのはラクなことで、ある種の心地よささえもあります。彼らは親がよしなにやってくれた9~12歳時の成功体験の残滓が消えないんでしょうか。


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