音次郎の夏炉冬扇

思ふこと考えること感じることを、徒然なるままに綴ります。

長嶋茂雄の鈍感力

2007-07-07 02:24:53 | スポーツ
kochikikaさんが長嶋茂雄の日経「私の履歴書」に触れておられたので、小生も思うところをば。学生時代に『きみは長嶋をみたか』という岩川隆の傑作評伝を20回以上繰り返し読んでいるので、この後の展開は大体わかっているものの、本人の証言はやはり貴重なのと、前述の書は昭和55年の巨人軍監督解任までで終わってますから、その後の読売会長・務台光雄との確執や、10・8決戦の話など、今後の連載に興味はつきません。

ちょうど、本日(6日)付けでは、立教の砂押監督の猛特訓でヘロヘロ状態の巻というところです。しかしこの砂押監督というのは、これぞ名伯楽という方なんですね。

「なんかいいんですよね。言葉ではうまく言えないんだけど、動きを見ているといいと思った。上手いというなら本屋敷の方が比較にならないほど洗練されている。対して長嶋は下手くそだしゴツゴツしているが、その馬力とリズムに魅力があった」

これは、長嶋が佐倉一高を卒業したばかりの時点で練習を見た砂押監督の述懐です。要は惚れ込んでしまったんですね。ちなみに本屋敷というのは、後に阪急ブレーブスに進んだ同期生です。そしてこのスパルタの鬼監督は、印旛沼から掘り出してきたこの原石のような素材を、昼夜問わずしごきにしごいたのです。

しかしこの後、砂押監督の排斥運動が起きるのです。立教野球部の上級生たちは監督の猛練習に鬱屈していたところに、1年生の長嶋への過度な入れ込み(スタメン起用、専属コーチを複数つけ自らも長時間直接指導)によって、遂に不満が爆発しました。このクーデターを首謀した主力選手の一人が、毎週日曜の午前中に着物姿で「喝!」とか叫んでるお爺ちゃんです。

この時、長嶋は涼しい顔をして上級生グループについたのです。まあ体育会の上下関係は絶対であり、合宿所で寝食を共にしているわけですから、付いて行く以外の選択肢はなかったかもしれませんが、主たる原因が監督の自分への依怙贔屓にあるのです。並みの神経だったらいたたまれなくなって、野球部辞めちゃったりしてもおかしくないわけです。でも当時の部員の証言によると、長嶋本人は軽く「困ったなあ」という風情で、まるで他人事のようだったといいます。連載を読めば、砂押監督の自宅で練習後はご馳走になったり、奥さんに残りを包んでもらったりしていたようなんですが・・・。

こうして砂押監督は追放され、部員が選んだ新しい監督が就任したのですが、これが長嶋に幸いしました。水を得た魚の様に活躍を始め、神宮の大スターになっていくのです。でも仮に4年間砂押監督の下でやっていたら、もしかすると潰れてしまっていたかもしれません。実際、同期の杉浦は何度も脱走を考えたそうですから。名うての鬼監督の存在は、上級生になってものびのびと野球をさせてもらえたかはわからない。かといって、最初から何も言わない優しい監督だったら、どうだったかといえば、なにしろ50年以上も昔ですから、情報は全国に行き渡っていませんし、ビデオなどもない時代です。野球名門校でもない限りは、指導ノウハウなど無きに等しかったでしょう。つまり、田舎の無名校の選手などは、それまでまともな指導を受けた経験がないわけです。砂押監督はあまりの厳しさにゆえに部員に嫌われて、石もて追われるように立教を去りましたが、その後社会人野球監督として実績を残し、やがてはプロの監督(国鉄スワローズ)に招聘されるほどの指導者ですから、立派な野球理論をお持ちだったのでしょう。その監督に鍛えられ、基本を徹底的に叩き込んでもらった1年間があったからこそ、ミスタープロ野球と呼ばれるまでに成長したとすれば、結果的にこの監督交代のタイミングが絶妙だったというわけです。

プロ入りの際の経緯も興味深いですね。「私の履歴書」は原則1ヶ月間ですから、7月9日前後にこの顛末の掲載が予想されるところですが、長嶋は南海ホークスから思いっきり栄養費をもらっていたのですね。立教OBの大沢啓二が南海の鶴岡一人監督の命を受け、後輩の長嶋と杉浦を連れ出しては小遣いを渡していました。よくある先行投資で、今ほどマスコミも発達しておらず、勿論ドラフト制度などないので、違法行為ではありませんが、先輩を使って囲い込みをしていたというわけです。しかし巨人の猛烈な攻勢があり、長嶋は心変わりします。というよりも、もともと熱烈な巨人ファンだったと書いていますから、最初から巨人に行きたかったのでしょう。

本人なりの煩悶はあったのでしょうが、長嶋はある日、エースの杉浦を合宿所の食堂に呼び出し、決意を明かしました。

長嶋:「俺、やっぱ巨人に行くわ」

杉浦:「そうか、僕は大沢先輩に悪いから南海に行くよ」

いかにも人格者の杉浦らしい。杉浦まで巨人に釣られていたら、後の巨人VS南海の日本シリーズ名勝負はなかったでしょう。

長嶋は南海の鶴岡監督の所まで出向き詫びを入れ仁義を切りました。さすがはプロ野球史に残る大監督「そうか、縁がなかったな」と理解を示してくれたそうです。たしかにこの時に長嶋茂雄が南海に入団していたら、職業野球がここまで発展することはなかったかもしれません。一方おさまらないのはリクルーターの大沢親分です。誰にも悪口を言われない国民的ヒーローの長嶋茂雄に、ある雑誌の特集で唯一「許せない裏切り者」とコメントを寄せたほどです。さすがにもうお互いに70歳過ぎていますから、本件も「恩讐の彼方」でしょうが、それでもTV観ていると、長嶋の話題ではコメンテーターの大沢親分、今でも何となく歯切れが悪いですよ。

杉浦はじめ当時のチームメートの証言では、この時も速攻で切り替えて、悪びれるところが全くなかったそうです。この辺が凡人に真似できないところです。無駄なストレスを抱え込まないというか、これぞ鈍感力ですかね。

名をなす人というのは、強運とある種の「天然」が必要なのかも。




コメント (2)    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 何処も悩みが | トップ | 『いじめの構造』 »
最新の画像もっと見る

2 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
気になっていた件 (kochikika)
2007-07-09 21:54:00
音次郎さん、毎度どうもです。

豊田泰光だったか浜田昭八だったか他の人だったか忘れましたが、「長嶋茂雄のショーマンシップの源泉として、彼の祖父母だか先祖だかが旅役者で、その血が生きてるのではないか、しかしその話を長嶋本人は話したがらない」という話をしていて、気になっていたのですね。
で、今回の「履歴書」に出るかなと思っていたのですが、日経は平日駅売りしか読みませんので、7月1日(日)の第一回にこの話が出ていたかどうかがなお気になっているところです。
父が役所の出納係という話は出てましたが、本当のところはどうなんでしょうね。
お詳しそうな音次郎さん、この辺をご存知でしたら、コメントいただければ幸いです。
返信する
うーん・・・ (音次郎)
2007-07-10 01:51:15
>kochikikaさん、毎度ありがとうございます。
私も第1回は見逃してしまいましたが、旅芸人の話は初耳です。先祖は臼井の土着民だと思いましたが・・・。実直な父が臼井町の役場の収入役・助役まで勤めたのは周知ですが、メンデルの法則といいますから、祖父母が何かやっていたのかもしれませんね。

有名人は出自をあまり明らかにしないことも多いので、よくわかりませんが、もし豊田泰光氏がソースなら、彼は立教のセレクションに参加して、西鉄に行かなければ先輩になっていた関係で、若いときから長嶋と非常に親しく、信憑性があるかもしれません。
返信する

コメントを投稿

スポーツ」カテゴリの最新記事