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読書という場の不自由さや制約に意識的になるために(11月27日の和田敦彦さんのお話しをめぐって)

2011年12月04日 | 知のアフォーダンス

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立教大学の連続講座「情報を評価し、判断する力をいかに育むか」で「読む」という行為をどのような観点から取り上げるか、企画段階で中村さんと講師をさがしていたとき、いつか読んだ登山と読書についての論考が印象的だったことを思い出した。和田敦彦さんが2003年の雑誌『環』(藤原書店、vol.142003、特集「読む」とは何か)に寄稿された「読むことと登ることの間で」(雑誌「環」vol.142003、特集「読む」とは何か)である。登山や登山史に関心があったわけではない。登山について「書き、読む」ことと登山という「行為」とがどのようにかかわっているかというテーマが私の意味論的な関心を刺激したのである。私たちにとって登山とは、ただ「山に登ること」ではなく、その行為に対する何らかの意味や価値が付与されている。私はこれまで、そういった意味づけ(価値付け)の作用を頭の中で起こっている作用として考えてきたが、和田さんの論考は、私たちの認識を形成する外在的な要因(登山について書き、読むことを可能にしている出版・流通の仕組みや、そこにかかわる人、読まれる場所といった要因)に目を向けてくれたのである。登山の意味が社会化されてゆくプロセスといってもよい。プロセスに着目することによって、登山という行為は、個人的な意味を超え、社会的に固定された意味づけ(価値づけ)からも解放されて、問い直しの対象となり、新たな意味(価値)を生み出すことが可能になる。そんな広がりをもった視点から読むことの意味を問い直してみたいと思った。中村さんの依頼を和田さんが快く引き受けてくださって、1127日に連続講座の第3回でお話しいただくことができた。 

 

講演のテーマは「読むことの歴史から学ぶ・教える」。書物が書かれ、読まれるまでの過程でどんなことが起こっているか、そこに介在する人や場に焦点を当てて、具体的な事例を交えて話してくださった。私の読んだ論文とは異なるテーマだが、書物と読者の「あいだ」に着目するという視点は一貫している。アメリカにおける日本図書館やその基礎を築いた角田柳作のこと、日本文化を海外に紹介する役割を果たしてきたタトル出版のこと、明治大学図書館による風俗関係資料の収集をめぐる逸話などを引き合いに出した和田さんのお話に導かれて歴史的、地理的、文化的に距離のある「遠く」の読書環境を眺めてみると、たしかに私たちの読書環境が相対化されて見えてくる。内容はおおむね和田さんの近著『越境する「書物」 変容する読書環境のなかで』(新曜社、2011と重なり合っていたが、これから読もうという人には格好の導入となったことだろう。

越境する書物―変容する読書環境のなかで
クリエーター情報なし
新曜社

大型書店に本があふれ、次々にベストセラーが作り出され、書籍の電子化が進み、新刊も古書もネット書店で容易に購入できる時代にあって、私たちはつい、自由に書物を読むことができていると思い込んでしまうが、その一方で出版されていても私たちの目にも手にも届かない(届きにくい)書物があることには気づきにくくなっている。そもそも、書物として書かれないアイデアは数知れない。そこには、さまざまな制約が介在しているはずなのに、そのことが意識されないまま、供給される書籍と読者が求めているものが一致している(読者が求める本はすべて手に入る)ように思えてしまう状況は決して自由だとは言えないのではないか。

余談だが、和田さんは、かつてご自身の著書『読むということ テクストと読書の理論から』(ひつじ書房、1997の表紙に牢獄のイメージを出すように求められたという。

読むということ―テクストと読書の理論から (未発選書)
クリエーター情報なし
ひつじ書房

 

ひるがえって学校図書館のことを考えてみたい。学校がはらんでいるさまざまな制約のなかで、学校図書館が子どもたちに促してきた「自由読書」とはどんなものだったのか。学校図書館にかかわってきた人たちは、学校の制約をどこまで意識化し、それをどのようして乗り越えようとしてきたのか。そして、現在の学校図書館の読書活動はどうなのか。そのために、20110906日のブログ学校図書館というのはそれ自体背理的な存在なのです」(内田樹さん)で取り上げた内田樹さんの問題提起を手掛かりにしてはどうだろう。114日に書いた「原子力をどう教えるか(放射線に関する副読本を巡って)」でも、学校図書館の立ち位置を間接的に問うたつもりである。学校という制約のなかで子どもたちを守りながら、現実世界に触れ、異質な他者と関わり合う場で「市民性」を育んでいくことが学校の課題だとすれば、そのために学校図書館はどのような読書環境を作っていけばよいのか。

和田さんがおっしゃる「読書という場の不自由さや制約に意識的になる」ことが、私たち大人にとっても子どもたちにとっても、読書によって世界を拓いていくとっかかりになるかもしれない。
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