学校は、知識と技能を効率的に身につけて上級学校に送り出すことに追われて、ともすると、子ども一人ひとりの成長を助け、民主主義社会の担い手を育てるという視点が抜け落ちてはいないだろうか。学校が卒業・進学のための通過点になり、テスト結果への依存を強めていることが、子どもの学ぶ意欲を削ぎ、自分の考えで行動しない、従順な子どもを生み出しているのではないか。読書についても、社会や共同体との関係を抜きにして(つまり文化の問題としてではなく)個人の問題として、「よく本を読む子どもは学校の成績も良い」とか「将来の役に立つ」などと語られることが多い。そんな学校の教育システムに埋め込まれた学校図書館に、この矛盾から抜け出す道はあるのだろうか。
少し前の話題だが、内田樹さんが、8月18日(木)に静岡県の高等学校図書館研究大会で「子供たちが本を読むことの意味」について講演されると知って、私の問題意識にたいする手がかりが得られるのではないかと注目していた。後日、ネット上で探したら、内田さん自身が講演の前後にTwitterに書き込んだつぶやきと、この大会に一般枠で参加された(つまり高等学校の図書館担当の先生ではない)人のブログ記事がみつかった。
まず、一般参加された方のブログ「草の実・草だより」から、内田さんの発言を転載させていただく。
・リアルタイムの価値観ではいけない。「今」しか見ていてはいけない。利益誘導、市場原理に組み込まれては本当の学力はつかない。
・学校は墓地や病院と同じように異界と現世界の境界にある特殊なところ。境界線の向こうに落ちないように、また、向こうから侵入する危険物をストップするよう大人(特に教育に携わる)は見張り手となる役割がある。
・とはいえ、異界との接触から子どもは成長する。大人は適度なさじ加減をしながら見守りたい。
・教育が今歪んでしまったのは、勉強することが個人の利益につながるという考えだからだ。勉強することが共同体の利益になるという視点が抜け落ちている
文脈がつかめないので、いささか分かりにくいが、私にとって、2番目と3番目の引用(注)は、きわめて示唆的である。学校図書館は、まさに「異界と現世界の境界」にあって子どもの成長を促す「ゆとり」の部分、日本家屋でいえば、屋内と屋外の境目にある縁側のような役割を果たすところだと考えられないだろうか。
(注) この部分について、ブログ「内田樹の研究室」を探していたら、8月6日の記事「学校の制度性について、など」で、その数日後に福岡県高等学校国語部会で行う予定の講演の構想をつづっておられるところが手掛かりになりそうだ。
この後に転載させていただくが、内田さんは、ご自身のTwitterでの発言の中で、学校図書館が背理的な存在だと指摘しておられる。だが、学校図書館を担当する立場から考えれば、「それでいいんです」と開きなおっているわけにはいかない。自らの限界と矛盾を自覚することから、変化が始まるのではないかという希望は捨てたくない。学校図書館は「子供が反秩序的になるために読む本」は提供できなくても、成長の過程で、今、自分が読むべき本を知って、それを自ら手に入れて読むことのできる子どもを育てることはできる。そのためには、まず、学校図書館の再定義が必要である。学校図書館が、「学校の教育課程の展開に寄与する」だけでなく、独自の立場から、たとえば「民主主義社会を担う、自立した市民を育てる」といった観点から、「図書館の自由」をどこまで実現できるかを問い続けることによって、公教育としての学校教育の在り方を問い直すことができないだろうか。現場における教師と学校図書館職員との協働を生み、学校の教育力を高めることができないだろうか。だが、成熟した大人になりえていない教育行政には、それを受け止めるだけの度量は期待できないかもしれない。内田さんは、そんな悩ましい問題を提起しておられる。
9月24日から立教大学で行われる公開連続講座「情報を評価し、判断する力を育てる」(詳細PDF)では、この問題についても考えてみることにしたい。
以下は、内田樹さんのつぶやき(8月18日のTwitterより)
・子供たちはどうして本を読むべきか。それは自分たちの住む世界とは違う世界があることを知るためです。違う仕方で世界を分節し、違う度量衡で価値を考量し、違う身体で生きている他者と想像的に同期すること。ですから子供の読書は本質的に反社会的、反秩序的なものと見なされます。それでいいんです。
・ですから、学校図書館というのはそれ自体背理的な存在なのです。子供が反秩序的になるために読む本はたいていの場合そこには置かれないからです。それでいいんです。反秩序的になるために秩序を当てにしちゃだめです。子供のうちから横着はいかんです。
・読書を「それによって読み手が知識や情報を獲得できる自己利益増大のための行為」と見なすと、学校図書館の存在理由は崩れます。そこを利用する生徒だけが選択的に受益する制度を公費で維持することに「受益者負担」の原則で反対する保護者に反論することができないからです。
・「そんなに本が読みたきゃ自分で買え。公費を使うな」という主張に反論できない。現にいくつかの高校では司書が補充されず、図書館が機能停止し始めているそうです。教育行政が「教育の受益者は教育を受ける本人である」と考えているなら、いずれ公教育という制度そのものが瓦解するでしょう。
・教育の受益者は共同体そのものである。子供たちを知性的・情緒的・身体的に成熟させないと社会制度そのものが存立しなくなるという理路がわかっていない「子供たち」が今教育行政を支配しています。彼らを成熟させることが可能なのでしょうか。僕はいささか悲観的です。
この日の内田さんの講演を学校図書館の人たちが、どう受け止めたのか? ぜひとも知りたいところだが、残念ながら、今のところ見つかっていない。
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