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「この国が平和だと誰が決めたの?」(復帰40年の沖縄から日本を見つめる)

2012年05月21日 | マミム・メモ

  

 日本の安全保障やエネルギー供給を守るために、危険と隣り合わせに生きることを強いられてきた沖縄と福島(に代表される原発立地地域)。一部の地域に負担を負わせ、その代償として巨額のお金を投じることで、結果的に地元の自立を阻んできた。水俣の問題も終わっていない。もののいえない企業城下町。国策によって生み出される差別の構造。オキナワ、ミナマタ、そしてフクシマ。その根っこにあるものは変わっていない。

 一週間前の5月15日、沖縄で政府と県の主催による沖縄復帰40年式典が開かれた。ほぼ予想された型どおりの挨拶がつづくなかで「沖縄が余儀なくされてきた苦難の歴史」を語る上原康助・元沖縄開発庁長官の挨拶は型破りだった。沖縄戦で本土防衛のとりでとして犠牲を強いられたうえ、日米講和条約締結後も日本から分断され、米軍が「銃剣とブルドーザー」で肥沃な田畑を強制接収して広大な米軍基地が構築されたこと、そして、復帰後40年たった現在もなお、沖縄の人々が切望してきた返還とはほど遠い現状にあることを訴える上原さんのことばの一つひとつが胸に深く突き刺さる。

(この、沖縄の多くの人々の率直な気持ちを代弁していたとして喝采を浴びた挨拶の全文をブログ「西表島から、日々のつぶやき・・・」が載せてくださっているので、下に転載させていただく。Ustreamの映像「沖縄復帰40周年記念式典」と合わせて、繰り返し噛みしめたい。(上原さんの挨拶は、40:30頃からです。)

 また、この日の「フォークソング・クロニクル」は、ネーネーズが唄う「平和の琉歌」を取り上げてくださっていたが、「この国が平和だと誰が決めたの?」ではじまる桑田佳祐さんの詩と曲が身に沁みる。以下に「平和の琉歌」の詩と上原康助さんの挨拶の書き起しを合わせて転載させていただきます。

 

【平和の琉歌】 詩・曲:桑田佳祐/、歌:ネーネーズ

この国が平和だと誰が決めたの?

  人の涙も渇かぬうちに

  アメリカの傘の下 夢も見ました

  民を見捨てた戦争(いくさ)の果てに

  蒼いお月様が泣いております

  忘れられないこともあります

  愛を植えましょう この島へ

  傷の癒えない人々へ

  語り継がれてゆくために

 

この国が平和だと誰が決めたの?

  汚れ我が身の罪ほろぼしに

  人として生きるのを何故に拒むの?

  隣り合わせの軍人さんよ

  蒼いお月様が泣いております

  未だ終わらぬ過去があります

  愛を植えましょう この島へ

  歌を忘れぬ人々へ

  いつか花咲くその日まで

 

【上原康助さんの挨拶】 40:30頃からです

 本日は内閣総理大臣、衆参両院議長、最高裁長官、駐日米国大使をはじめ、多数のご来賓ご列席の下に、日本政府と沖縄県による復帰40周年記念式典が盛大に挙行されるにあたり、ごあいさつの機会を与えていただき感慨深いものがあります。

 厳粛な式典にはふさわしくないあいさつになるかもしれませんが、ご容赦願いたいと存じます。

 まず、沖縄が余儀なくされてきた苦難の歴史です。その最たるものは、悲惨な沖縄戦でした。沖縄は戦時中から本土防衛のとりでにされ、捨て石扱いで、常に苦難と犠牲を強いられてきました。67年前の沖縄戦で、一般住民をも巻き込んで地上戦が繰り広げられ、県土は焦土と化し、20万人余の尊い命が失われました。生き延びた住民は虚脱状態の中で米軍の捕虜収容所に放り込まれ、塗炭の苦しみを味わいながら耐え忍んできました。

 その間に日本も敗戦から立ち直って、1952年4月28日、日米講和条約を締結し、独立国としての歩みを踏み出しました。しかし沖縄は日本から分断され、27年の長期にわたって米軍の占領支配下で呻吟(しんぎん)させられてきました。広大な米軍基地が構築されましたが、その主要部は50年代前半に米軍が「銃剣とブルドーザー」で強制接収した肥沃(ひよく)な田畑だったのです。

 民主主義を標榜(ひょうぼう)する米国が理不尽に県民の生存権まで踏みにじるのかと、米軍に対する県民の怒りと不信が激しく燃え広がりました。

 そして次第に、基本的人権が保障される平和憲法下への復帰を目指さねばならない、と県民の意識は高揚していくようになります。

 いま一つ県民の強い願望は、主席公選を実現することでした。米側も県民総体の大きな盛り上がりをこれ以上抑圧できないと見て、68年11月に主席公選が実現しました。

 戦後の教育復興や復帰運動などに指導的役割を果たしてこられた屋良朝苗氏が初の公選主席に当選され、これを契機に日本復帰が具体化します。そして日本政府は70年11月に沖縄の代表を国政に参加させる特別措置を講じました。

 国会では沖縄返還協定や復帰に向けた諸法案が審議されました。私が絶対に忘れられず屈辱的だったのは、71年11月17日午後3時過ぎ、まだ審議半ばの沖縄返還協定を自民党が抜き打ち的に強行採決したことでした。しかもその時刻は、屋良主席が復帰にかかわる重要事項をまとめた「建議書」を政府と国会に提出するため上京され、羽田空港に着いたそのときでした。衆議院の第一委員会のあの怒号と混乱に満ちた議場の雰囲気をいまだに忘れることはできません。

 その後も国会は沖縄問題をめぐって緊迫した状況が続きましたが、ついに72年5月15日を迎え、日本復帰が実現したのです。

 しかし、県民が求め続けてきた「核ぬき本土並み、平和憲法下」への復帰どころか、米軍基地に関わる密約や基地の自由使用を米国に担保したものでしかないことが明らかになり、このような欺瞞(ぎまん)に満ちた復帰は到底容認できない、と多くの県民は、72年5月15日の晩、那覇市の与儀公園で大規模な県民大会を持ちました。土砂降りの中での大会だったが、県民の不満と怒りの気持ちは内外に強く訴えることができました。

 沖縄の復帰は復帰時点から県民の熱い思いとは大きくかけ離れたものでしかなかった。沖縄が余儀なくされてきた「戦前・戦中・戦後」の苦難の歴史を決して忘れてはなりません。その根源は残念ながら今も続いているのです。これからの沖縄を背負っていく若い世代の皆さんが、先人たちの幾多の苦労をも参考にがんばってもらいたい。

 さて、復帰40年の節目に沖縄振興特措法も、軍用地転用特措法もかなりよい内容に改定され、双方ともその内容をどう活用していくかです。特に一括交付金などを今後の沖縄の振興発展、離島などへの配慮、人材育成などにどう役立てていくかが注目されます。まさに、沖縄側の「行政的、政治的」知恵と力量も問われることになりましょう。 また、多年の懸案となってきた鉄軌道敷設も、復帰50年までにぜひともメドづけて、県土のバランスある振興発展、交通渋滞の緩和、北部やんばるの特性と活性化に役立ててもらいたいものです。

 最後に野田総理、駐日米大使、両閣下に強く申し上げたい。民主主義社会は世論を尊重することが基本です。なぜ、両政府とも沖縄県民の切実な声をもっと尊重しないのですか。

 米軍普天間飛行場の移設計画が日米間で合意されてから16年余りが経過しました。10年余り経っても実現できないことは、最初からその日米合意に無理があったことを実証しているのです。周知の通り普天間移設計画はますます、混迷をきたしております。今や沖縄県民の立場は、普天間飛行場の県内移設はNOだと、ますます強く大きな広がりを見せております。

 国土のわずか、0.6%しかない沖縄に米軍専用施設の74%も強要されているのです。これは誰が考えても異常です。この沖縄にこれ以上、新しい米軍基地を陸にも海にも、造ることはおやめください。世界一危険と言われている普天間飛行場を一日も早く閉鎖するか、県外移設することです。にもかかわらず、欠陥機と言われているMV22オスプレイを7月にも普天間飛行場に配備されると報道されています。あまりの沖縄蔑視であり、到底容認できるものではありません。

 どうか両政府とも、沖縄県民の切実な声をまともに受け入れてもらいたいのです。また、嘉手納空軍基地以南の五つの基地返還内容、その時期などについて早くも多くの疑問が噴出しております。加えて、日米両政府が去る4月27日に発表した在日米軍再編見直しの共同文書も実現性に乏しく、「目に見える形の沖縄の基地負担軽減」にはほど遠い内容で、またもや、県民を失望させております。

 今こそ日米両政府とも「政治、外交、安全保障」などに対する旧態依然の思考から脱却のため、「真剣かつ英断」を持って発想を大転換して、沖縄の米軍基地の過重負担軽減を断行すべきだと考えます。復帰40周年がその一大転機になることを心底から願って私のあいさつとさせていただきます。ありがとうございました。

2012年5月15日 上原康助

 

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