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『原子力の腹の中で』私たちはどう生きるか(中尾ハジメさん)

2011年10月20日 | メディア

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立教大学の情報リテラシーに関する連続講座に第一回目の講師としてお招きした中尾ハジメさんが『原子力の腹のなかで 福島第一原発事故のあとを、私たちはどう生きるか』(編集グループSURE、2011年10月)を出版された。ハジメさんは原子力の専門家ではないが、いまから30年前にスリーマイル島で原発事故が起きたとき、現地を歩いて、さまざまな人と出会い、生活者の視点で見聞したことをもとに『スリーマイル島』(野草社、1981年)を書いておられる。そのハジメさんが、いま、福島第一原発の事故を目の当たりにして何を語ってくれるのか。『スリーマイル島』の読者なら誰もが抱いていただろう思いに編集グループSUREの皆さんが応えてくださった。

5月22日、SUREの事務所に仲間が集い、ハジメさんを囲んで交わされた対話は11時間以上におよんだ。この本は、そのときの記録である。専門的知識や脱原発の論理を伝えるために整理され、推敲を重ねた本ではない。そのおかげで、対話の流れに読者も加わって一緒に考えをめぐらすことができる。複雑に入り組んだこの国の社会システムの中で、さまざまな矛盾を抱えながら生きている一人の生活者として私たちは、日々、報道される情報から福島第一原発の事故とその影響をどのように認識し、何を選択し、決断しながら暮らしていけばいいのか。それは、けっして単一の視点から理路整然と語れるような問題ではない。そんな私たちに、ハジメさんは、多様な情報源を駆使して原子力の腹のなかを垣間見せてくれる。 

『スリーマイル島』の冒頭でハジメさんは、原発事故の初期報道におけるかたよりを「原子力発電という、まるで巨大な機械装置のような社会制度に最初から組み込まれているかたよりではないのか」と看破している。その構造は今も変わっていない。そのことを福島第一原発事故後の報道のかたよりが見せてくれた。この状況をハジメさんと編集グループSUREの人たちは、まるで「原子力という巨大な魚の腹にのみ込まれた」(SUREのHPより)ようだと考えて、書名を『原子力の腹の中で』とした。「大きな魚に飲み込まれる」というメタファーは、旧約聖書(ヨナ記、第1章―第2章)の話が下敷きになっているのだろう。神に背いたヨナが罰として大きな魚に飲み込まれて、その腹のなかで3日間暮らしたという話だが、英語国では、「大きな魚」がいつのまにか「鯨」になって、ピノキオやガリバー旅行記にも鯨の腹の中に飲み込まれる話が出てくる。

ジョージ・オーウェルも、ヘンリー・ミラーの小説『北回帰線』について「鯨の腹の中で」(1940年)という評論を書いている(『新装版オーウェル評論集3鯨の腹のなかで』所収、川端康雄編、平凡社691、2009)。あらためてオーウェルの「鯨の腹のなかで」とハジメさんの『原子力の腹の中で』を読み比べてみると、時代を隔てて重なり合う問題が浮き彫りになってくる。ヨナは「大きな魚の腹のなか」から逃げ出したいと思っていたにちがいないが、オーウェルによれば、第2次世界大戦前の恐怖と専制と統制の時代にあってミラーは、いわば鯨の腹のなかに閉じ込められている状態を自ら受け入れたというのである。そうすることで、外界の変化に翻弄されることなく、気楽に楽しく、ぬくぬくと生きられる。オーウェルは、そんなミラーを「完全に否定的な、非建設的な、非道徳的な作家であり、ただのヨナ、悪を受動的に受け入れる人、しかばねの間に置かれたホイットマンみたいな人物である」と評している。だが、その一方で、だからといって、じっとしてないで積極的で建設的な行動を起こすべきだという流れに無批判に乗っていくことにたいしても警戒心を募らせている。社会改革を謳う理論や運動のなかにも全体主義が入り込み、思想の自由が奪われて無意味な抽象概念となり、自律的な個人が抹殺されていく歴史的事実をオーウェルは目の当たりにしているのだ。(そのことを題材にしてオーウェルは『動物農場』や『1984年』といった小説を書いている)。いま、原子力の腹の中に閉じ込められている私たちもまさに、このジレンマのなかにあって、自らの生き方が問われているといえないだろうか。

私たちは、重大な局面に立たされている。今回の福島第一原発の事故をとおして、私たちは、原子力発電の構造や放射線が人体に及ぼす影響に関する知識ばかりでなく、核兵器の開発や人類の未来とむすびつく社会的、政治的な意味についても、いかに無知であったかを思い知らされた。東電や政府の情報開示、メディアの報道ばかりでなく、原発を選択する意思決定の過程においても、隠ぺいというかたちで民主主義の精神が無視されていることも明らかになった。では、どうすれば、この原子力の腹の中から脱出できるのか。まずは、沈黙しないで、地球や市民社会が壊されていくことへの危機感を共有するところからはじめようと思う。そのために『原子力の腹の中で』は、ひとつの手掛かりになるだろう。 

だが、残念ながら、この本もまた一般の書店やアマゾンなどのネット書店などでは買えない。ISBNも付されていないし、電子出版でもない。だが、ただ売ることを目的としないのなら、口コミやネットで、求める人には、たやすく手に入るのだから、とくに不都合はない。出版の多様化の時代にあって私たちに求められるのは、安易に流行や権威に依存したり、商業的な宣伝によって選択肢が与えられるのを待つのではなく、いま自分が必要とする本や情報を自ら探し出すことのできるセンスと技術を身につけておくことであり、信頼できる人々とのつながりをもっておくことであろう。

 

なお、左右社のサイトに中川六平さんが、この本についてエッセイ風の書評を書いておられるので、こちらもご覧ください。中川さんは、べ平連から岩国の喫茶店「ほびっと」の店主、その後、晶文社の編集者という経歴をもつ方で、『ほびっと戦争をとめた喫茶店』(講談社、2009)などの著書があります。

中川六平「ぶらぶらと東京にたたずむ」

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