土崎港まつりの曳山運行において、掛け声として伝えられてるのが
「ジョヤサ」という声。
「除夜叉」だという説が強いようで。
調べてみると秋田県内の祭りと岩手の一部の祭りで「ジョヤサ」が
使われてるようで。
岩手県奥州市水沢区の妙見山黒石寺で毎年旧正月7日夜から翌朝にかけて
行われる、千年以上の歴史を誇る裸祭り「黒石寺 蘇民祭(こくせきじ そみんさい)」。
災厄を払い、五穀豊穣を願う、裸参りに始まり、柴燈木登り(ひたきのぼり)、
別当登り(べっとうのぼり)、鬼子登り(おにごのぼり)、蘇民袋争奪戦の五つの
行事から成り、夜を徹して行われ、翌日未明からは男たちが東西に分かれ、裸で
押し合いながら蘇民袋を奪い合う。これを最後につかんだ者の住む方角がその年、
豊穰多福になると伝えられている。
裸のポスターがグロくて卑猥だとして問題になったあの祭りだな。
旅人が、巨旦 (こたん) 将来という男に一夜の宿を願ったところ、金持ちである
にもかかわらず断られた。巨旦の弟である蘇民将来の家に行ったら、貧乏である
にもかかわらず快く泊めてもらえ歓待を受けた。そこで旅人は、巨旦の一族を滅ぼし、
蘇民将来とその子孫には加護を与える、と約束した。
というのが言い伝えのようで。
「永遠の住まいを作る」という意味で「常屋作」として「ジョヤサ」と言うんだそうな。
正式な掛け声は「ジャッソー・ジョヤサ」だそうで、「ジャッソー」は「邪正」だと。
そこで土崎はなぜ「除夜叉」なのか。
秋田県内の祭りの掛け声の発祥はもしかすると土崎港祭りなのかもしれない。
とすれば土崎でなぜ「ジョヤサ」なのか。
八郎潟町に夜叉袋という地名がある。
男鹿半島の付け根の八郎潟の対岸の八郎潟町。
その湖岸の辺りだ。
文治5年(1189年)、源頼朝の奥州征伐で、平泉藤原氏は滅んだが、冬になると、
八郎潟東岸の大河次郎兼任(おおかわじろうかねとう)が反乱を起こした。
文治6年1月6日、7000人の兼任軍は、鎌倉に進攻する前に、源頼朝の御家人
橘公業(たちばなきみなり)を討つため、夜叉袋より北の鹿渡(かど)から男鹿へ、
凍った八郎潟を渡っていた。そして、夜叉袋沖で、急に氷が溶け初め、5000人が
水死した。馬場目川(ばばめがわ)が八郎潟に流れ込んで、氷が薄くなっているため、
ふつう近寄らない場所である。雪がやむと、暗い湖面に無数の人魂が漂い始めた。
変わった地名、夜叉袋はこの事件に由来しているという。
夜叉というより武者か?
武者の亡霊を夜叉と?
まぁなにはともあれ、土崎港祭りにおける曳山の掛け声は「ジョヤサ」だと言われる。
これは伝統であり決まりごとにされている。
規定として決めてるわけではないが、参加者にとっては常識。
それでは昔やっていたという、穀保町で御神輿を担ぐように復活させた行事。
そのときの掛け声が「わっしょい」なのはなぜか。
昔の資料に載ってるとか?
誰がそれを指示しているのか。
担ぎ手は各町内から抜粋された若者。
町内では曳山は「ジョヤサ」と言ってるはずで。
関東や他の地域での神輿を「わっしょい」と担ぐのを見習ったというのなら
完全に筋違いなこと。
神輿の掛け声は「わっしょい」だの「わっそー」だの「せいや」だの「そいや」だの
地域によって様々なはずだし。
ロシア義の「ワッソー」が語源とする説や「和一緒」と当て字をする説などのある
「わっしょい」を違う伝統の土崎港祭りで使うのはいかがなものかと。
昔の再現で神輿を相染まで担ぐというイベントでは、まさか「わっしょい」じゃ
なかっただろうなと。
見てないからわかんないけどね。
「ジョヤサ」という声。
「除夜叉」だという説が強いようで。
調べてみると秋田県内の祭りと岩手の一部の祭りで「ジョヤサ」が
使われてるようで。
岩手県奥州市水沢区の妙見山黒石寺で毎年旧正月7日夜から翌朝にかけて
行われる、千年以上の歴史を誇る裸祭り「黒石寺 蘇民祭(こくせきじ そみんさい)」。
災厄を払い、五穀豊穣を願う、裸参りに始まり、柴燈木登り(ひたきのぼり)、
別当登り(べっとうのぼり)、鬼子登り(おにごのぼり)、蘇民袋争奪戦の五つの
行事から成り、夜を徹して行われ、翌日未明からは男たちが東西に分かれ、裸で
押し合いながら蘇民袋を奪い合う。これを最後につかんだ者の住む方角がその年、
豊穰多福になると伝えられている。
裸のポスターがグロくて卑猥だとして問題になったあの祭りだな。
旅人が、巨旦 (こたん) 将来という男に一夜の宿を願ったところ、金持ちである
にもかかわらず断られた。巨旦の弟である蘇民将来の家に行ったら、貧乏である
にもかかわらず快く泊めてもらえ歓待を受けた。そこで旅人は、巨旦の一族を滅ぼし、
蘇民将来とその子孫には加護を与える、と約束した。
というのが言い伝えのようで。
「永遠の住まいを作る」という意味で「常屋作」として「ジョヤサ」と言うんだそうな。
正式な掛け声は「ジャッソー・ジョヤサ」だそうで、「ジャッソー」は「邪正」だと。
そこで土崎はなぜ「除夜叉」なのか。
秋田県内の祭りの掛け声の発祥はもしかすると土崎港祭りなのかもしれない。
とすれば土崎でなぜ「ジョヤサ」なのか。
八郎潟町に夜叉袋という地名がある。
男鹿半島の付け根の八郎潟の対岸の八郎潟町。
その湖岸の辺りだ。
文治5年(1189年)、源頼朝の奥州征伐で、平泉藤原氏は滅んだが、冬になると、
八郎潟東岸の大河次郎兼任(おおかわじろうかねとう)が反乱を起こした。
文治6年1月6日、7000人の兼任軍は、鎌倉に進攻する前に、源頼朝の御家人
橘公業(たちばなきみなり)を討つため、夜叉袋より北の鹿渡(かど)から男鹿へ、
凍った八郎潟を渡っていた。そして、夜叉袋沖で、急に氷が溶け初め、5000人が
水死した。馬場目川(ばばめがわ)が八郎潟に流れ込んで、氷が薄くなっているため、
ふつう近寄らない場所である。雪がやむと、暗い湖面に無数の人魂が漂い始めた。
変わった地名、夜叉袋はこの事件に由来しているという。
夜叉というより武者か?
武者の亡霊を夜叉と?
まぁなにはともあれ、土崎港祭りにおける曳山の掛け声は「ジョヤサ」だと言われる。
これは伝統であり決まりごとにされている。
規定として決めてるわけではないが、参加者にとっては常識。
それでは昔やっていたという、穀保町で御神輿を担ぐように復活させた行事。
そのときの掛け声が「わっしょい」なのはなぜか。
昔の資料に載ってるとか?
誰がそれを指示しているのか。
担ぎ手は各町内から抜粋された若者。
町内では曳山は「ジョヤサ」と言ってるはずで。
関東や他の地域での神輿を「わっしょい」と担ぐのを見習ったというのなら
完全に筋違いなこと。
神輿の掛け声は「わっしょい」だの「わっそー」だの「せいや」だの「そいや」だの
地域によって様々なはずだし。
ロシア義の「ワッソー」が語源とする説や「和一緒」と当て字をする説などのある
「わっしょい」を違う伝統の土崎港祭りで使うのはいかがなものかと。
昔の再現で神輿を相染まで担ぐというイベントでは、まさか「わっしょい」じゃ
なかっただろうなと。
見てないからわかんないけどね。
もちろん『わっしょい』でしたよ(笑)
浦安の舞は、初めて見ましたけど…
この「ワッソ」とは「現代の」朝鮮語で「来た」を意味する とか (Wikipedia)
「ワッソ」が変化して、「ワッショイ」か?
伝統だの昔の曳山の再現だのと自慢してるわりに伝統を無視して「わっしょい」かよと。
神輿だから「わっしょい」じゃなきゃいけないという決まりでもあるまいし。
どうも腑に落ちないことだらけで。
神事しかりだよな。
委員長会議やなんとか祭りという神事にネクタイ着用も納得いかない。
祭りの正装ならゆかたじゃないのかと。
ゆかたを正装としないのならば、委員長は祭り当日はゆかたじゃなくてネクタイ着用か?
騒げばOKってことらしいよ
オラが不思議に思うのは、御神体を御神輿に移す際には、出席者は皆低頭してる
そこを撮影し、DVDにってのが・・・
それにしてもご神体をあんなに隠すことに意味あるのかなと。
1年に一度は氏子にお披露目してもよさそうな気がするけどな。