幹事さんのひとりごと

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土崎港祭りのルーツ考察

2016年06月17日 | 土崎港祭り
新明社が言うには音頭揚げが伊勢神宮のまねだと。
そういうのなら現在の曳山のルーツはなんだ?
伊勢神宮の指導のもとに始まった曳山ならば全国に数万ともいわれる
新明社関連の神社の祭りに同じような曳山祭りがあるはずで。
それが存在しない現状ならば土崎の曳山は独自の発展進化したものだろうね。

明治の初期にイザベラ・バードが秋田を訪れ旅行記を残している。
それには曳山が40台とも書かれており、手のひらのような黒い岩に人形が
飾られ、お囃子が30人も乗り、舞台で能を踊ってたようだし、曳き子は
200人とも。
今より曳山の土台は倍の大きさがあり、車輪が8個だと。

そんなでかい曳山が砂利道を運行してたのならば、おそらく本町通りだけの
運行で、新明社に参拝には来なかったんじゃないかと。
だから現在でも新明社の祭りとされてるのに新明社の境内に出店もない。
新明社でも曳山は新明社の例祭の付属のように言ってたよなと。
確かに、曳山を奉納するもしないも町内の勝手。
新明社に言われて奉納してるわけじゃないし。

そんでさっきのイザベラの話なんだけど、秋田に来たのは明治元年の
7月23日のようで。
26日には青森に旅立ってる。
とすれば曳山を見たのが23日から26日までの間ってことになる。
新明社の例祭が7月20日の宵宮に始まり、21日の本宮となるのなら、23日以降の
曳山はどういうことだ?
もしかして新明社の例祭と港祭りの曳山は全く別の行事だったのではなかろうか。

しかも曳山のルーツは北海道の姥神神社の祭り。
なぜかというと、土崎の住民は時期になると北海道の江差のニシン漁に出稼ぎに
行ってたようで。
江差の姥神神社の祭典の「切り声」というのが港祭りの音頭揚げとほぼ同じ。
そこから習ってきたというのが音振会の意見。
「かすべ祭り」と言われてるのもそもそもは戦後の食糧難のころのことだろうし。
明治のころは土崎の繁栄はすさまじく、祭りでは道行く人を呼びとめて酒や鯛の
お頭付きでもてなしたと。
そもそも「かずべ」とはアイヌ語でエイの料理のこと。
北海道のエイ料理を秋田の夏の祭りのための保存食として取り入れたと考えるのが
妥当じゃないかとね。

ちなみに北海道江差の姥神神社は1000年の歴史があり、京都の祇園祭の山車を
造ってもらって持ち込んだようだ。
そこまでやるなら伊勢の音頭を習ってきたのかもしれないし。

伝統・歴史と言ってもどこかで誰かがやり始めたことが伝わってるだけ。
続ければそれが伝統と呼ばれるんだ。


いずれにしても個人的な持論にすぎないけどね。


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2 コメント

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今年は祭りに帰るよ (壱騎町のまっこ)
2016-06-18 14:55:08
四年振りに祭りに帰ります。幹事さん、入退院を繰り返してたようで。身体大丈夫?祭り楽しみにしています。
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おぅ (幹事)
2016-06-19 07:28:21
待ってるよ
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