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秋田史まとめ6

2013年07月30日 | 暇人の無駄知識
湊騒動

領土経営に関しては、従来、湊家が低率の津料を支払うことを条件に認めてきた
雄物川上流域の大名、国人による湊における交易を統制することにより、旧来の
蝦夷地貿易などの外海交易に加え河川交易への統制強化を断行しつつ、十三湊
を改修して北日本最大の港湾都市に育て上げた。
また、近隣国人衆への支配も強化しようとした。
このため1570年(元亀元年)には、豊島玄蕃らによる湊騒動が起こり、豊島氏に
同調した大宝寺氏も由利郡へ進軍してきた。この一連の紛争は、大宝寺義氏の
自壊にも助けられて安東家の優勢に終わり、由利郡の大半は安東愛季の勢力下
となった。このとき安東家の軍勢は、三崎山を越えて酒田まで侵攻したと云われる。

1573年(天正元年)から1582年(天正10年)まで織田信長に毎年の貢物を贈るこ
とで誼を通じ、信長の死後は羽柴秀吉と誼を通じるなど、中央権力とも連絡を密に
しており、1577年8月6日(天正5年7月22日)には従五位下に、1580年9月21日
(天正8年8月13日)には従五位上侍従となるなど、安東氏の最盛期を築き上げた
とも伝えられている。また、晩年には名字を安東から秋田へと改めている。

更に比内地方の浅利則祐の弟勝頼を、蠣崎慶広を使い謀殺。
出羽北部の沿岸部をほぼ統一し、内陸部に進出し雄物川流域の支配権を巡り
戸沢氏との戦いに向かったが、1587年(天正15年)、角館城主戸沢盛安と戦った
際、仙北淀川の陣中で病死した。

安東愛季(あんどうちかすえ)天正15年9月1日(1587年10月2日)歿

湊城は、晩年に秋田姓に改称した愛季の子秋田実季が拡張工事を行ったが、
実季は関が原の戦いの後常陸宍戸に転封となり、かわりに秋田転封となった
佐竹氏の佐竹義宣(さたけ よしのぶ)が入城した。
しかし、安東氏の領地は5万石程度であったが佐竹氏はその約10倍、55万石の
大名であったため、家臣団の屋敷なども構えるとなると湊城は狭く、また拡張の
余地も少なかった。
そこで、義宣は神明山に新たに久保田城を建設して湊城は廃城とされた。
1615年、一国一城令が出されると湊城は取り壊され、1620年には跡地に土崎
神明社が建てられた。

雄物川

江戸時代以前は「仙北河」、「秋田河」と呼ばれていた。
江戸時代に入ると「御物川」、「御物成川」、「御貢川」と呼ばれるようになり、
当時はこの川が米や材木などの献上品を運ぶ物流の川として利用されて
いたためと思われる。
「雄物川」という名称に統一されたのは明治になってからのことである。


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