数学教師の書斎

自分が一番落ち着く時間、それは書斎の椅子に座って、机に向かう一時です。

タイトルが印象的

2021-11-02 04:45:54 | 読書
タイトルが印象的で、久しぶりの丸善で手に取って買いました。普段は田舎暮らしなので、本はアマゾンで買うので、必然的に目にすることがない本があります。大型書店では、何気なく目に入ってくる本があるので、それが楽しみの一つです。そして手に取ったら買うという、立花隆の言葉を思い出し、今回これを買いました。

著者の加藤典洋に関しては、今まで一冊も読んだことがなく、どういう人かも知らないくらいでしたが、今回この本を読みながら著者の人となりを理解できたように思います。私より6歳年上の全共闘世代です。私は安田講堂の攻防を床屋さんのテレビで見ていました。大人も子供も黙ってみているという感じでした。大学生のエネルギーが伝わってきました。多感な思春期の自分には大学生とは日本を変えていくエネルギーがあるのだと、連合赤軍のあさま山荘事件とは異質な何かを感じました。大人の方も、俺たちはできないけど、あいつら大学生はよくやるよなあみたいな、ある意味同情的な指示目線も感じました。また、せっかく東大生になったのに、こんなことしたら将来就職できへんやろとか、それが庶民感覚でした。それを覚悟に、こんな運動する背景には何か重要なことがあるのでは、という疑問もみな感じていたと思われる。それが田舎の中学2年生の素朴な印象だった。


 1969年の東大入試はこの影響で中止になりましたが、12月の時点でそのことは決定されたのですが、東大入試が中止になって、あの数学者森重文が京大に入学した。この秋、彼は文化勲章を受章します。確か広中平祐はフィールズ賞をもらってすぐに文化勲章をもらった記憶がある。親の紋付き袴で、ひとりだけ長髪の青年が文化勲章をもらったみたいな写真が目に浮かびます。森重文はフィールズ賞をもらってから30年後に文化勲章ですか。ノーベル賞とフィールズ賞は同同等のイメージがあったのですが、今回の真鍋祝郎のノーベル賞受賞と同時の文化勲章受章を目の当たりにして、森重文の30年後の文化勲章には違和感がある。ノーベル賞には数学賞はないが、それに匹敵するのがフィールズ賞であるというのは、当時広中平祐が文化勲章を受章した時に、我々の国民の共通認識があった。今回の森重文の文化勲章は、かつての技術大国の日本の退廃を感じざるを得ない。フィールズ賞の重みを国が認識できてないという証左である。国が森重文に文化勲章を渡す時機を失して今に至ったと考えたい。知への憧憬、認識を失ってしまった、情けない国になってしまった。



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