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花の散る場所(高尾太夫)その1

2023-05-04 22:46:48 | その他
花魁シリーズ第4弾:

第2回 生まれては苦海 死しては浄閑寺(花魁若紫の悲劇)
第3回 純愛とは何か(花魁小紫の場合)
第4回 花の散る場所(高尾太夫)その1  ←今回

高尾太夫、11代続いた(諸説あり)といわれる三浦屋の名妓の中で、今回は最も有名な2代目高尾大夫にフォーカスします。

数回に分けアップしますが、今回の初回は基礎編です。

全貌を知るべく既に取材に2ヵ月費し、未だ進行中です。
立体的な情報収集により、人間高尾の憂いと心情に迫ろうと思います。
約360年後の今、高尾をどこまで蘇らせることができるか、それがテーマです。
どうか、懲りずにお付き合い頂ければ幸いなり。

高尾は没後、その高名ゆえ、後世の名だたる文芸者たちの興味を引き「高尾考」なるジャンルを生みました。しかしその研究は全て迷路へと結ぶことになります。正に、触るな危険!アンタッチャブルなヒロイン、それが三浦屋2代目高尾太夫です。
気づくのが遅かった、とんでもないものに手を付けてしまった。沼にはまって抜けらません。
江戸時代・萬治年間に生きたため萬治高尾ともいう。(仙台藩主との関わりで仙台高尾、出身地塩原との関わりで塩原高尾ともいう)
↑いろは紅葉の文様が2代目高尾の紋所。
故郷、塩原の紅葉を愛し、打ちかけや身辺道具にも文様が多く残ります。

一般に世間に知られる逸話は以下の通り。

◆高尾の逸話:

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吉原絶世の美女とうたわれた高尾。陸奥仙台藩領主、伊達綱宗に側室目的で3000両で身請けされるも、本命の想い人への心が離れず、激高した綱宗に隅田川の船上で吊るし斬りにされた。
遺体が北新堀河岸に漂着し、日本橋箱崎の高尾稲荷に祀られ、その頭蓋骨は今でも祭神として宝物となっている。
2代目高尾が有名なのは、この凄惨な運命からです。
また、綱宗が身請けまでに使う祝儀や揚代を含めると、総費用は約6000両、現在の5億円を超えたと言われています。
=====

でも、調べ始めて直ぐわかった。
これはフィクション混じりの妄説なのだ。
高尾の死因は、吊るし斬りなどでなく、持病の肺病によるものです。

高尾は、その人気ゆえ、墓と称するものが複数あり、其々の伝説を残す。
供養塔なら縁ある場所に複数あっても良いが、亡骸を埋葬した墓が幾つもあるのは尋常ではない。
歴史家の解釈や能書きを鵜吞みにせず、彼女が生き、散った場所を巡り、当時の情景を想い浮かべながら、自分の肌身で感じれば、きっと何かが見えてくるだろう。

高尾を探す旅は、東京、埼玉、栃木、宮城に及んだ。
(宮城は10/21、北海道からの帰路仙台に寄り仙台高尾を取材しました)

まず、高尾の歴史を見ておこう。

1641年 栃木県塩原湯本村に生まれる。幼名:アキ
1646年 アキ5歳、塩原の塩釜地区へ移る
1649年 アキ8歳、宿泊客に石(化石)を売りに来ている子どもだった。
    アキの家は貧しく、明賀屋の主人と妙雲寺住職の計らいで、
    明賀屋に湯治に来ていた三浦屋が養女として引き取る事になる。
    ー詳細ー
    湯治のため塩の湯の明賀屋に吉原三浦屋夫婦が宿泊。
    アキが天心天女の再来かと疑われるほどであることに気づく。
    夫婦はアキを部屋に招いて石を買う。
    その後も石を買い続け、学問と遊芸を身につければ、
    小野小町や楊貴妃に匹敵、いやそれ以上になるだろうと確信。
    親との交渉はすんなりまとまり、やがて江戸に連れ帰る。 
    身売り代金7両。アキの親は病身でこれを薬代とし命をつなぐ。
1655年 道哲、西方寺(旧浅草聖天町)にて念仏開始
1657年 1月、明暦大火で三浦屋含め旧吉原全焼(日本橋人形町)
1657年 6月、新吉原へ移転完了(旧浅草日本堤、現在の千束)
1657年 アキ16歳、三浦屋を再興するため自ら遊女となり二代目高尾を襲名
1659年 高尾、陸奥仙台藩主・伊達綱宗と馴染みになる。
    客の島田権三郎(江戸北町奉行島田忠正の5男)と相思相愛となる。
    権三郎は四代将軍家綱に仕え親衛隊に相当する御小姓を勤めていた。
    高尾は西方寺近く三浦屋別邸にて道哲の念仏を知る。
    道哲の仏心に触れ自分の死の際は道哲に送ってもらいたいと願う。
    肺病を患い三浦屋別邸にて病床に伏す。
1659年 12月、高尾没説(春慶院に墓)
1660年 2月、高尾没説(永源寺に墓)
1660年 6月綱宗、出府
1660年 7月綱宗、隠居
1660年 12月、高尾19歳で病没(西方寺に墓)、同12月道哲没
ーーーーー
1683年 道哲没説
1718年 高尾1660年落籍後、仏門に入り77歳で没説

上記の通り高尾の晩年には諸説あるが、有力なのが以下の2つだ。

【西方寺伝説】
西方寺は元々吉原遊郭の近く旧浅草聖天町にあり、浄閑寺に次ぐ、遊女の投げ込み寺として有名。遊郭が日本橋から浅草の新吉原に移転する1657年までは、道哲は小塚原刑場(現在の千住駅周辺)で絶命する罪人達を念仏で弔っていた。新吉原開始後、道哲は、土手沿いに運ばれ、寺に捨てられた遊女たちを無縁仏として哀れみ、昼夜問わずひたすら念仏を上げたことから「土手の道哲」の異名を得る。高尾も道哲の熱心な仏心を知るに至り、遊女苦海の最期の希望として、自身の死のよりどころとする。1926年、豊島区巣鴨へ移寺す際、道哲の墓を掘ると骨壺が2つあり、一つは道哲、一つは高尾だった。またこの時、高尾の持仏(4cm程の木彫り襟かけ地蔵)と銅鏡も同時に発見された。
【永源寺伝説】
島田権三郎に想いを寄せる高尾は、綱宗の金と権力で身請けを迫る手から逃れ、二人は島田家領地の坂戸へ逃げ延びるも、病の身であった高尾は萬治3年(1660年)2月生涯を閉じ、坂戸の永源寺に葬られた。
高尾の死後、権三郎は自らを道哲と名乗った仏僧となり、高尾の菩提を弔って一生を過ごしたという。

さあ困った。まるで二律相反だ。
  • 高尾は、いつ、どこで亡くなったのだ?
  • 西方寺の道哲は、いつ亡くなったのだ?だれが高尾と道哲を同葬した?
  • 永源寺の権三郎は、何故道哲を名乗ったのだ?
◆謎の1660年:

1659年までは、高尾の伝説は一貫している。
それは、身請け先として伊達綱宗と島田権三郎が競った結果、大金を積んだ綱宗を見切り、相思相愛の権三郎を選んだこと。同時に、道哲に寄せる心は、持仏(襟かけ地蔵)を形見のように大事にしていたことから、仏に求める慈悲を道哲に被せていたこと。ここまでは、異説は見当たらない。

1660年、綱宗は幕命により御茶ノ水の開墾作業の監督として仙台から江戸新橋の仙台藩上屋敷(旧新橋停車場、現在の日テレタワー辺)に入る。しかし綱宗の遊興放蕩三昧は幕府の知るところとなり、「無作法の儀が上聞に達したため、逼塞を命じる」 と、同年7月18日、僅か21歳で強制隠居させられてしまう。(綱宗は天皇と従兄弟の関係だったため幕府が朝廷の政治干渉を恐れ失脚させたという説もあり)高尾に端を発したいわれるこの隠居事件は、有名な江戸の三大お家騒動の一つ「仙台騒動」の原因にもなった。
つまり、高尾はこの年まで存命していたわけで、上記タイムライン春慶院の1659年12月5日没説は消える。はずなのだが、江戸後期に記された「山東京伝」高尾考によれば、それを正とする。問題は墓石の刻印が戦火混乱により一部崩れ落ちており戒名の体をなしてないことである(後述)。
また、江戸の花街・鳶魚江戸文庫13 によれば、綱宗が落籍(身請け)したのは高尾ではなく、京町高島屋の「かおる」としている。
更に綱宗には側室が7人居たと伝わり(正室はおらず)、その内、側室筆頭で同郷仙台の陸奥三沢氏出の「三沢初子」を実質正室として待遇するほか、江戸屋敷にはもう一人の側室が居た。綱宗に侍女として仕えた「椙原品=すぎはらしな」(通称お品)である。綱宗はこの2人のどちらかを高尾と呼んだとする高尾複数説がある。仙台藩下屋敷のあった麻布と綱宗が幽閉された品川大井にも高尾を印した旧跡が存在するのは、当時一世を風靡した三浦屋高尾に比し、初子、またはお品の容姿端麗・天性聡明性を、リアル高尾に掛けたものと見られる。
もはや高尾は個人ではなく、才色兼備のブランド名と化していたのだろう。
当時の仙台藩は62万石。後に徳川より100万石を約束され隆盛を極めていた時だ。豊富な財力は皆の知るところ。地元仙台に伝わる高尾話は、綱宗が側室に上げたお品であるとする。大金で身請けし吊るし切り説を生んだ三浦屋のリアル高尾は、綱宗の財力と遊行が生んだ世情の華話なのである。
お品は綱宗死後、仙台に戻り尼となり綱宗を弔いながら生涯を閉じた。
これは、上記タイムラインの最後、仏門に入り77歳で没説を裏付ける。
つまり、綱宗の中には2人の高尾が居た。リアル高尾は遊郭で深い交流は有ったものの1660年に病没し、別人である綱宗の高尾は長命であったということだ。

◆高尾の墓はどこにあるのか?

晩年とされる1660年を基に、3つの説(春慶院、西方寺、永源寺)が生まれる。それぞれ見てゆこう。
  1. 浅草春慶院に、高尾の墓と伝わる四面塔があり、高尾の紋所「いろは紅葉」と遺詠と共に没日が萬治2年(1659年)12月5日と刻まれている。しかしこれには戒名が確認できず供養塔と考えるのが世の習い。一方で、何を根拠にしたか「西方寺の地蔵の石碑は、高尾追善のために建てたる碑なるが如し。真の転誉妙身の碑は、春慶院の四面塔の碑こそ、埋骨の碑」と、春慶院こそ墳墓とする説があり。この石碑は、後に綱宗の内命により建立されたと云われ没日が1年早いのは、精度の問題なのか、2人の間の深意なのか事知れず。
  2. 西方寺の墓石には、没日が萬治3年(1660年)12月25日、戒名が轉誉妙身信女と刻まれ、横には道哲の墓とされる道哲座像があり。前述の通り西方寺移転の際掘り起こした墓から、2つの骨壺が発見され、一つは道哲道人、一つは高尾のものだった。但しこれは科学的解析の結果ではなく、高尾の銅鏡と持仏が一緒に発掘されたことによるもの。
  3. 永源寺の墓石には、没日が萬治3年(1660年)2月27日、戒名が月桂円心大姉と刻まれている。高尾は、綱宗の強引な身請けの手を逃れ、病身であったことから権三郎が浅草常福寺で看病にあたるが、ここで生涯を閉じる。権三郎は一族の菩提寺である埼玉坂戸の永源寺に高尾を手厚く葬り、自らは道哲と名乗って仏僧となり、西方寺の前身である道哲庵を建て、高尾の菩提を弔って一生を過ごしたと云われている。(永源寺サイトより)
はてはて困った。これを一体どう解する。

各種古文書や資料から得られる、断片的な史実がどれにも一様に含まれているため、正に諸説なり、決定打が得られません。
道哲は元々仏僧ではなく、道心(仏道に帰依する仁義礼智の人)であったことから、道哲の正体は、権三郎だったのか!?
と考えたいところですが、道哲庵が建てられたのは新吉原開始2年前の1655年であり、権三郎が道哲と名乗ったのは高尾を永源寺に葬った1660年以降になるため整合しない。
更に、高尾の没日は各資料の多数決的に12月が有力なのですが、もし、永源寺説の通り2月に亡くなったのだとすれば、後に分骨でもして、道哲が亡くなった12月に合わせ、西方寺に墓標が建てられた、のか?
はたまた、権三郎は、高尾が道哲に信心していることは承知、西方寺の道哲亡き後、その名を借り永源寺で弔い続けたのか?
道哲は更に20年程生き延びたという説もあり、迷宮に輪を掛けます。

◆亡骸はどこで焼かれ誰が葬った:

当時、江戸には浄土真宗(旧一向宗)が広がり庶民にも火葬が増える時代でした。
江戸の焼場は刑場にあり、北は小塚原、南は鈴ヶ森、西は八王子でした。浅草には19カ所の焼場があったと云われ、それを集結したのが小塚原。高尾も道哲も在居近くの小塚原で焼かれたはずです。そして、その遺骨を受け取った誰かがいるはずです。
道哲道心は仏道の身、高尾は俗世の遊女、この間に色恋ロマンスなどありえないとする当時の記録があります。ならば2人の死後、その関係を憂う何者かが、両者の遺骨を個々に回収し西方寺に同葬又は分骨納した可能性も強く、個人的には三浦屋あたりの隠れた配慮があったのではと思うところです。

◆三浦屋の立場:

女性が妓楼に売られる際は、それを仲介する専業者(女衒=ぜげんという)が居るのが常でした。女衒は女を安く仕入れ、経費利益を上乗せして妓楼に売ります。
妓楼の買い取り相場は、慶長小判で5両から50両程(現在の約50万から500万円)、容姿はもとより適齢の即戦力なのか、養育に年数が必要なのか等で変わります。
文化13年の「世事見聞録」にはこうあります。「女はみな親の艱難によって出るなり。国々のうちにも越中・越後・出羽辺りより多く出るなり。わずか3両や5両の金子に詰まりて売るという」。仕入れ値は30から50万円。これを妓楼に売る際は最大10倍近く跳ね上がるのです。
貧しい地方では、女衒が村を巡り5人まとめて10両などという売買も行われていました。
高尾(アキ)は8歳の時、7両で身売りされましたが、女衒仲介による妓楼落としではなく、湯治中の三浦屋主人が直接見初めて「養女」として引き取ったわけで、他の少女たちとは別の未来を考えていたのかもしれません。高尾はその恩義から焼失再建後の三浦屋再興のためにと、16歳で自ら遊女を志願したと云われています。
主人からすれば縁ある自分の娘、他の遊女同様、寺に投げ込み無縁仏とするなど到底できるわけもなく、想い人があれば結ばれることを祝福するだろうし、死すればできる限りの礼を尽すでしょう。
高尾の遺品が三浦屋から塩原の身内へ送られたのも、当時の遊女の扱いとしてはありえず、養女として受けた主人の想いの証左だと思います。
高尾の墓に三浦屋がどう関わったのか、記録は見つかりません。

こうなるともはや全てを受け入れ、当時を想い各所を巡るしかありません。
長いシリーズになるかもしれませんが、「その1」はこれで終わりです。
ここまでお読みいただいた方、無限の光とも思える高尾の愛徳とは何か?に興味ある方、「その2」切符ゲットです(^^)
暇人の執念、現場取材進行中、次回からは画像てんこ盛りで彼女の真実に迫って行きます。

高尾の生地、那須塩原本湯にて記す。

次回はこちら↓

(^^)/


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