釧路にいます。連日雨が続き放浪旅が足止め中。
花魁シリーズの高尾太夫(その2)を整理したのでアップします。
その1から4ヵ月過ぎてしまいました。
一気に高尾太夫の謎の核心に迫りましょう。
前回はこっち↓
時のいたずらか、彼女は人生の最期をたまたま遊女として迎えただけであり、三浦屋の養女として大切に育てられ、その死後は生家親族へ多くの形見が戻るなど、到底当時の遊女の扱いにあらず。
天心天女と言われた美貌と聖心性、その存在はもはや神の所作、人々への恵みであり、慈しみであったのかもしれません。
彼女の特異な運命を、遊郭の女として括るのはあまりにも残念。
彼女が残した痕跡を訪ね、皆から愛された一人の女性として、その内面に迫って行ければと思います。
まず前回の復習から。
前回は高尾を取り巻く多くの謎と、その関係者たちを紹介しました。
・隅田川吊るし切り伝説は妄説
・墓が3カ所あり真墓が不明
・墓毎に没日もそれぞれ異なる
・伊達綱宗の高尾は別人がいた
そして、今回。
各地に残る数々の記憶を訪ね、人間高尾の実像をあぶり出します。
下記の順で進めます。
・現在の吉原
・道哲の周辺
・西方寺の墓
・春慶院の墓
・永源寺の墓
・綱宗の高尾
・生誕地塩原
・そして総括、クライマックスへ
■現在の吉原
高尾が生きた時代(1641~1660年)、吉原には多くの妓楼があり、後の世にも続く名楼も既にいくつか存在していました。
その中でも歴史に残る多くの名妓を輩出したのが、稲本楼、角海老楼、三浦楼。
高尾はこの三浦楼の養女として吉原に入りました。
この3つの妓楼は江戸の頃(新吉原以降)から現在まで立地に変わりなく、若干の区画整理と建替えはあったものの老舗として生き残ってきました。
吉原今昔図を調べ、それぞれ廻って見ました。
まず、見返り柳のある吉原大門を入ります。
↓メインストリート(仲之町通り)
稲本楼の跡地にはその歴史を引く立派な本業店があり、隣にグループのホテルも建設中。
↓稲本楼の現在
角海老楼の跡地には大きなマンションが建設中です。
↓角海老楼の現在
そして、高尾が居た三浦楼なのですが、、
三浦楼の跡地だけは早くから改変が進み、今や名を残すものはありません(吉原今昔図によれば現在の交番の裏路地に存在した)。
吉原の生き字引、カストリ書房の店主や、長年続く大黒屋のお婆ちゃんに聞いても、三浦楼の痕跡だけは見つかりませんでした。
この界隈隅々歩く。やはり人が多いのは吉原神社。
ここも歴史無視のお花畑系種族やレイヤー族の浸食が始まっていました。
そして真昼間なのに街の随所に、東横キッズ風おっ立ち娘が客漁りしています。
変わりゆく吉原。大人から子供の遊び場へ・・。
吉原から日本堤を抜け小塚原まで歩く。
道哲道人が土手の道哲として、投込み寺に捨てられる遊女の躯や、小塚原刑場で死罪となる罪人達に念仏を上げた場所です。
このルートは今でも分厚い情調が感じられ、重い気に満ちています。
ゴールは首きり地蔵のある回向院(えこういん)。一帯は斬首刑、火炙り刑含む極刑場として江戸三大刑場の一つでした。
高尾の居た吉原は、そんな生と死が最短距離で背合わせする、死海の中の極楽だったのです。
■道哲の周辺
道哲は、元は仏僧ではなく、仏道に帰依する道人でした。
土手横に掘っ立て小屋程度の小さな庵を立て、土手を運ばれる遊女の屍や極刑となるる罪人、無縁仏に昼夜問わずひたすら念仏を上げていました。
江戸の風物となるほどのもので、その常念仏と木魚音は界隈どこでも聞こえたのだそうです。
後に道哲は西方寺の僧となり、三浦屋の別邸が近くにあったことから高尾との縁が生まれます。
西方寺は、1926年浅草聖天町から豊島区巣鴨へ移寺されましたが、同時に多くの墓も移され、そこには高尾の墓に寄りそうように道哲の座像があります。
移寺前も同様の風景だったそうで、仏僧と遊女のロマンス、その裏には何があったのでしょう。
■西方寺の墓
高尾の墓と称されるる3カ所(西方寺、春慶院、永源寺)のうち、まず、現在の西方寺を訪ねてみました。
↓表札
高尾墓を探してると、寺の宗徒の方が現れ、あ、高尾ですか、昨年から入場禁止にしました。撮影もできません。と。
何やら昨年NHKで特集された後から、にわか客が押し寄せるようになり問題となってる様子。
あれこれ嘆願し何とか墓前でお参りはできましたが、撮影は許されませんでした。もはや伝えを聞く間もないピリピリ感。
これから参拝する方は、事前に住職さんに筋を通すのが良いと思います。
規制前に撮影されたネット資料を引用します。(
歴史を留める東京の風景webより)
屋根下にあるのが高尾の立像墓、隣に小さく道哲の座像があります。
■春慶院の墓
吉原大門から土手通りを渡った先にあります。古くからから寺の密集する場所。
墓の成りは高尾の墓の中では最もそれらしく威厳すら感じる美しさがあります。
綱宗の命により建てられたとされていますが、没日が西方寺の墓より約1年早く、その謎を解く歴史資料が皆無。
その1で紹介した通り、被災により戒名の完全な形が確認できず、本墓ではなく供養塔と見るのが妥当。
■永源寺の墓
永源寺は、高尾と相思相愛となった島田権三郎の菩提寺で埼玉県坂戸市にあります。
本堂の裏、島田一族の囲い墓の隣に孤立するように建立されてます。
↓島田一族の囲い墓
住職に聞くも高尾の遺物や縁を記すものが何もなく、高尾死後、権三郎が彼女を供養するために建てた墓標とするのが妥当。
■綱宗の高尾
仙台藩主・伊達綱宗の中には2人の高尾が居ました。
一人はリアル高尾太夫、もう一人は側室のお品で、仙台藩に名を残す高尾はお品です。
綱宗がどれだけリアル高尾に惚れていたとしても、仙台藩の名誉を考えれば、藩主の系譜に遊女が入ることは避けたかったでしょう。
お品の立場は、綱宗のリアル高尾への想いと藩の面目を両立させる、丁度よい存在だったのだと思います。
綱宗を取り巻く高尾は更に複雑な説があります。
- 綱宗が身請けを迫ったのは日本橋の遊女でありこれを高尾と呼んだ
- 側室筆頭の「お初」を高尾と称するも、お初は若くして他界
- お初亡き後、侍女であった「お品」を側室に上げこれを高尾とした
もはや綱宗の中で高尾とは、美麗な女性に対するブランド名であったのでしょう。それを知るお品は、綱宗死後、尼となり77歳で亡くなるまで長年高尾として綱宗の供養を続けたわけです。
目黒正覚寺にあるお初像を訪ねました。
↓正覚寺
↓お初像
高尾の美貌とお初の献身を兼ね備え、神々しくも豊かで、綱宗の両者への想いが見えてなりませんでした。
こちらは麻布、仙台坂上。元仙台藩屋敷に隣接する氷川神社で、この中にも高尾稲荷があります。元は、屋敷内にあったものがここに移設されたよう。
綱宗の跡には必ず高尾の跡があり。入れ込みようが分かります。
↓麻布氷川神社
↓本殿横にある高尾稲荷
江戸に残る高尾の旧跡や記録は、彼女の死後創作されたものも多く、時の世情や庶民文化の中で幾つもの伝説を生みました。
墓にしても供養にしても、周辺の関係者を含め、整合しない空白域のパズルを探すより、すべてを受け入れ情調文化遺産として価値を置くべきなのかもしれません。
真実の彼女は何処にいるのか??
続いて、高尾の生まれた栃木県塩原へ向かいました。
ここで様々な旧跡、遺品に出会うことになります。
全てに生々しい臨場があり、人間高尾に一気に近づくことができました。
それではクライマックスへと向かいます。
■生誕地塩原
まず、高尾(幼名:アキ)が三浦屋の養女となる8歳まで、家計を助けるため湯治客向けに、山の幸や化石を拾い売っていた明賀屋本館を訪ねました。
明賀屋本館は、塩原温泉でも奥座敷的な山深い場所、塩の湯温泉郷にありました。
↓塩の湯から見える風景
↓入口の道脇には古い碑が立っていました
アキもこの碑に手を合わせる日があったのでしょうか。
5歳で元湯から塩釜に越したアキは8歳になるまで、小さな幼女がこの深い山中を行き来していたのです。
↓明賀屋本館へ
↓明賀屋本館。アキ8歳の時、湯治客に見初められた場所
↓塩の湯。アキの家はその下流の塩釜にあった
↓幼いアキは母が採取する山の幸の他、自分で拾い集める化石類も売っていました。
↓二千万年前、ここは海だったんですね
↓木の葉化石館に行くと化石発掘体験ができます。
アキになったつもりで岩石を割ると、落ち葉化石がこんなに出てきました。
高尾が紅葉を愛したのは、生活を支えてくれた塩原の美しい自然への深い想いからでした。
↓化石館に並ぶ木の葉化石(販売用:数百円~数千円)
■塩原から江戸へ
アキの母(はる)は、男運に恵まれず3度結婚しています。
最初の夫(角兵衛)に先立たれ、村人たちの勧めで旅人を婿養子に取りこれに同じ角兵衛を名乗らせ2人目の夫とします。アキはこの2人目の夫との間に生まれました。しかし、この角兵衛は村々を廻る薬の行商と共に消息を絶ち行方不明になってしまいます。男手が無くては暮らしが立ちません。再び近隣の計らいで上塩原部落より、はるより年の若い長助を3人目の夫として迎えます。
しかし長助は病身でした。
不運の続くはる、貧困が続き、家計は苦しむばかりでした。
春の季節になると、湯治客が増え、はるが夜も明けぬうちから川や山で採取してくる水菜や山椒を幼年のアキが売り歩きます。はるも売りますが、なんとアキの方が稼ぎが多く家計を助けました。
その頃、明賀屋に水戸からの最上級な湯治客があり、アキの天性の才美を見抜きます。そして、縁のある江戸吉原の三浦屋へ紹介することに。(その1では通説となっている三浦屋が湯治、三浦屋主人が直接見初めたとしましたが、吉原を長く不在にすることは考え難く、今回地元取材で得た水戸説が有力)
早飛脚が塩原と江戸三浦屋を往復します。
この時、アキの親を説得した立会人(明賀屋、妙雲寺和尚、和泉屋)と三浦屋との間に、アキは養女であり、三浦屋の娘として育てる。決して遊女にはしないとの約束が交わされます。
聡明で親思いのアキは、家を助ける一心、父の薬代にもなると、金7両(現在の約70万円)で実質身売りとなりました。
こうして、アキは水戸の客に連れられ江戸へ旅立ったのです。
↓別れの際、母はるがアキの苦からの救済を願い与えた襟かけ地蔵
↓妙雲寺
↓本堂左を入り墓地へ向かいます
↓著名人の墓を過ぎると奥にひっそりと高尾の墓標がありました。
この位置から奥は入れないよう参拝者規制があります。
↓高尾の有名な辞世の句が記してあります(望遠撮影)
「寒風に もろくもくつる 紅葉かな 」
塩原には、もう一つ、高尾塚があります。
↓高尾塚
塩釜地区にある明賀屋ホテル(現在閉館)前の駐車場にあります。
↓若干史実と異なる部分もあるようですが大筋OK
毎年12月、高尾の没日にここで供養が行われるとのことで、親族の末裔と関係者数十人が集まり祈りを捧げます。取材中、今度是非いらしてくださいとお招きを受けました。光栄なり、同席させて頂きます。
■ありし日の塩原
アキの育った空気を肌身で感じたく、情調豊かな塩原の今昔を訪ねてみました。
モノクロは塩原温泉ものしり館にあった資料です。許可を得て撮影。
↓芸者衆
↓芸者さんの羽織。高尾が愛した紅葉紋様です
↓川向こうの旅館は渡し船で
↓これ!やっぱり塩原娘はみんな美人!
過去からのいわれの通り、秀麗な山河は美人を生む!!ですね。
↓過去
↓現在
↓過去
↓現在
↓この場所は資料館の方と探すも特定できなかった
■高尾の遺品
高尾は7両で身売りされた身。しかしその身は養女。
遊女・高尾は、江戸大火で消失した三浦屋を再興するためにアキ自らが選んだ道でした。
大火では吉原遊女も大勢が焼け死に、どの妓楼も太夫格が失われた状況の中、16歳になったアキは、三浦屋のひっ迫を何とかしたく、遊女になりたいと申し出ます。
三浦屋主人は仰天します。
アキは芸百般、大事に育てた三浦屋の箱入り娘なのです。
主人が遊女の苦海や辛さを語るもアキは聞く耳持たず。そもそも養子縁組のとき断じて遊女にはせんと、親元と郷里の立会人3人で決めた約束と主張するも、アキは聞かぬばかりか飯も食わなくなってしまいます。
アキの覚悟は動かず、3人はワシら3人が責を負う、として三浦屋にアキの願いを聞き入れてもらうことになります。
アキの孝心は、幼少の頃から変わらず、身を投げて親に尽くすことでした。
その後は公知の通り、高尾太夫として一世を風靡します。
しかし、高尾の身は既に労咳の病に冒されていて、郭入りして年余ならず病床の人となり、三浦屋別邸にて病を養うも悲運の最期を迎えます。
三浦屋は礼を立て、高尾死後、多くの遺品を塩原のご遺族へ戻しました。
塩原を出て約10年、彼女が大切にした数々の品、その抜け殻に少女時代の面影は無くも、郷里の空気に触れることでアキが生き返るような生々しい息遣いを感じました。
連日高尾探しに通う私を見て、特別な配慮を頂き、今年撮影された彼女の遺品類の記録写真を見ることができました。
厳重非公開の念を押されているため、ここに掲載することはできませんが、過去にその一部がwebで紹介されています。
ここの女将さんは、高尾の生き字引、彼女の親や弟、親族のその後に至るまで、貴重な情報の語り部となっています。高尾塚の保存にも尽力されていて頭が下がります。
上記webからいくつか写真を拝借します。
↓高尾の位牌
高尾の墓論争の決め手として重要な手掛かりになるものです。
位牌には、西方寺とあり、その没日と出自も明確に刻まれています。
- 萬治3年12月25日、浅草聖天腸町の西方寺にて葬った。
- 戒名:転誉妙身信女 。
- 新吉原、三浦屋四郎座衛門内の遊女で、高尾の事である。
- 本国は下野国(現栃木県)塩原の渡辺忠左衛門の元に生まれる。
これからすれば、高尾の真の墓は、西方寺にある墓。とするのが妥当である。しかし、複数の公式資料では墓は春慶院にありとする。だが、どこを調べてもその根拠となる記録や遺物が全く無いのだ。
唯一考えられるのは、春慶院の墓が一番立派であり、それが本墓に相応しいという後付けの想いのみである。
ここでは、西方寺の墓こそが本墓としたい。
↓自筆の遺書
実に麗しい!
高尾の晩年は持病の肺病が悪化し次第に衰弱して行きます。
女性として最も輝ける時に死を悟る高尾。現世への様々な想いがあったでしょう。
ここには恋人へあてた言葉も淡々と書かれているそうです。
たとえ妓楼という狭い檻の中にあっても、豊かで美しく、乱れることもなく、、それがこの筆運びに滲み出ているように見えます。
若干19歳にしてこの愁いの書!比する言葉が見つかりません。
下部の説明には次のように記されています。
「その家に高尾の遺書一巻あり。書法妙麗であり、想うにあまりにうるわしく、まさしくそのとおりである・・・」
他にも高尾の遺品は複数残されていますが、これらは渡辺家子孫と縁ある福島県在住の方が代々大切に保管されてきたものです。現在の保有者の方はご高齢となり、後の伝承に不安があるとのことで、最近その全ての遺品が郷里の妙雲寺に移管されたとのことでした。
約400年の時を経て、アキは高尾の名で故郷に戻ったわけです。
彼女が愛していた塩原の紅葉、幼少期に見たその色あいの中で、高尾は再びアキに戻り、静かに心を休め、いつまでもいろは紅葉と共に輝くことでしょう。
高尾、その短すぎる生涯に消えた光と哀愁、決して忘れてはなりません。
ここまでお読みいただいた方、、高尾の吊るし切り伝説なんて絶対信じちゃだめですよ。罰が当たります。
アキちゃん、お帰りなさい。
晩秋は、君が化石を集めた塩原の山川より、同じ紅葉を見上げ、毎年君に会いに行く!(^^)/
ミッション完了!
第5回 花の散る場所(高尾太夫)その2・・・今回
(^^)y-.。o○