“おかいさん”は主食だった。
毎日、朝昼晩、おかいさんは食卓の真ん中にいた。
病気だから食べるのではなく、毎日の主食だ。
食卓の王様や。
標準語で言うと「ほうじ茶を使ったおかゆ」。
単なる“かゆ”に“さん”を付けて、頭に“お”まで付ける。
やっぱり王様や。
サラサラもええけど、ネバネバもええ。
熱いのもええけど、冷えたのもええ。
おかいさんの食べ方は、一般のおかゆの食べ方でもいいが . . . 本文を読む
福井小学校では、1年おきに5年生と6年生で臨海学校が行われた。
田辺の方の海に行ったと思う。
海は綺麗だった。
証拠写真
一学年下に小川和司という好少年がいた。
ガッツがあって、優しそうな笑顔が印象的な好少年だった。
この写真の中にもいるが、彼は間もなく白血病で他界してしまった。
先にあの世に帰ってしまった。
彼の葬式に出たが、非常に悲しかった。
彼の入った棺がみんなに担がれ . . . 本文を読む
福井小学校では、小学校1年生になると白浜旅行に行くのが恒例であった。
白浜は田辺市のさらに南。
目的や細かな出来事は全く覚えていない。
証拠写真
おかあちゃんと白浜で
白いタイツなんか履きやがって・・・。
昭和39年、東京オリンピックの年だった。
その後、恒例の白浜旅行はどうなったか分からない。
白浜は有名な観光地であるが、観光で行ったのは意外と少ない。
1回しか覚えていない。
最 . . . 本文を読む
切荘は百貨店だった。
デパートだった。
かつて田辺市にあった。
切目辻を越えて“街”に出るのは、切荘に行くのが目的だった事しか覚えていない。
昭和40年に切荘はできている。
この頃は田辺市も栄えて輝いていたようだ。
ネットで切荘を調べると、一つだけ記事が見つかった。
『昭和7年の紀勢西線紀伊田辺駅開業と共に商業中心地は徐々に駅前に移行している。
特に高度成長期昭和33年から51 . . . 本文を読む
龍神村から切目辻を抜けて街へ出る。
街とは田辺市。
その途中に南部町(みなべまち)がある。
今ではとなりの南部川村と合併してみなべ町となっている。
村から切目辻を越えて山の中を走る。
1時間以上走り南部川村をすぎると山は少なくなり徐々に開けて来て、南部高校の近くでついに海に出る。
ここが南部町。
海に出るととにかく“明るい”と感じた。
南部がすごく明るくてあこがれの街のように感じた。
と . . . 本文を読む