4月の下旬、新緑を楽しみながら竹原へ行きました。疲れると、生まれ育った大崎上島を思い出し、竹原港へ足を運びたくなるのです。車椅子生活になると、広島に住んでいながら大崎上島はより遠いいなあ…。でも、ここから見える大崎上島や海を見ていると、心が和らいで来る…。
鯉のぼり。海風が気持ちよさそう。
竹原といえば竹の町。タケノコがあるかな?と、道の駅に寄ってみました。平日とあって、いつもの人の出はなく、ゆっくり出来ました。タケノコ、ありました!しかも採れたてだしお安い。わらびやふきもあり春ですね。嬉しい!
道の駅の鯉のぼりも、元気に泳いでいました。
外のベンチで休んでいると、道の駅に出店されている80才前後位?のご夫婦から、お花をいただきました。「明日は休館日じゃけえ、持って帰って。」と膝の上にそっと置いてにっこり。人の温かさに触れた嬉しい出来事でした。
こどもの日らしいお花ですね。鯉のぼりの置物と一緒に、玄関へ飾りました🎏
翌日、あく抜きをしたタケノコとわらびをいただきました。hideさんの男前なタケノコの煮物。
わらびは鰹節とポン酢で。食べ始めたところなので、ちょっと…。
でもでもどちらもおいしかったですよ、hideさん。ごちそうさま!
後日、新緑を楽しみながら三次市にある『奥田玄宗・小由女美術館』へ行きました。hideさんが楽しみにしていた『田中一村展』。開催が始まったときまだまだあると思っていたけど、もう4月が終わる、早いなあ。最終日のGWが来る前に来館。
中国道の一番好きな景色。安芸高田市高宮ICが近くなるトンネル手前、上下線の間にメタセコイア”プチ”並木があります。
見えてきました!ワクワク。
わあ~、鮮やかな新緑嬉しくなる~
秋はオレンジに紅葉し、冬は葉っぱの落ちた枝に雪が積もり、四季折々の美しさが楽しめる。数秒間の楽しみだけに、より一層美しく思えるのでしょう…。
奥田玄宗・小由女美術館は、外観から美しい。
緑に囲まれた空気のいい穏やかな場所にある美術館。向には緑がいっぱいの広い公園があり、楽しそうに遊具や走り回ったりキャッチボールをする親子、ジョギングをする人とか、美術館と自然の中での生活感が一体となり、和やかでどこか落ち着く。
館内ロビーでは、満月の恒例演奏会が開かれていました。
『田中一村展 奄美へとつづく道』。チラシの紹介です。
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1908(明治41)年、現在の栃木県栃木市に生まれた田中一村(本名:田中孝)は若い頃から南画(水墨画)に才を発揮し、東京美術学校(現在の東京藝術大学)日本画科に学ぶも中退、自らの画風を模索する日々が続きます。青龍社展や日展、院展などに発表の場を求め出品と落選を続ける中で、ついには1958(昭和33)年に奄美大島へと住まいを移し、中央画壇と距離を置き独自の画境を極めていきました。
本展では栃木、東京における南画家としての初期から、模索を続けた千葉時代、そして南海の自然や動植物を大胆に構成した鮮烈な作風が花開く奄美時代と3つの章によって、稀代の画家が歩んだ〈奄美へとつづく道〉を辿ります。
プロフィール

明治41年 栃木県下都賀群栃木町(現在の栃木市)に生まれる。本名は孝。
大正15年 東京美術学校(現在の東京藝術大学)日本画科に入学するも6月に退学。
昭和22年 第19回青龍社展に「白い花」を出品し、初入選。
昭和33年 奄美大島へ移住。紬工場で染色工として働くなどしながら画業を追求。昭和40年頃から特に制作に専念する。
昭和52年 心不全により倒れ、69歳の生涯を終える。
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とても精密で、一つ一つがとても丁寧に描かれている作品からは、葉っぱの揺れる音や風、光、鳥の声などが伝わって来るようで、奄美を愛する心が伝わってきます。染色工として働き、その収益で生計を立て絵を描く。住まいも質素なもので、私生活の写真はどれも下着1枚。でもいつも笑顔です。展示されていた画材道具の絵の具、パレット、筆は、カメラは、どう見ても高価なものではなさそうですが、あの素晴らしい作品が出来上がる。物にあふれ贅沢になり、いい物を揃え形から入って行きがちな今、もう一度あの頃に帰ってみなさいと言われているようでした。人も外観というかうわべだけではなく、中身なのだと。だから一村の絵からは、息が聞こえるような温もりがあるのかなあ。奄美へ行ってみたくなりました…。
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