米子 西野ピアノ教室 musica felice

米子市のピアノ教室・・日々思うこと徒然なるままに。
幼児から受験生、大人の方いらしてます。
音楽は心の対話ですね。

便利になったがゆえに失うもの・・

2014-01-18 07:18:21 | おもうこと

むかーし聞いた話です。



あれ??



最近の出だしこういうの多いかな・・



でも昔話をしてるんじゃないですけど・・



大根島の野菜売りをしていたおばあさん。



むかーしのことだから、字が書けなかったそうです。



ただ・・このおばあさんはすごかった。



一日中野菜を売って、何十件も・・しかもいろんな野菜の種類を持って行っていて、誰それさんは大根何本、人参何本、きゅうり何本、でいくら・・・つぎは誰それさん・・つぎは・・



と言う風に、全て覚えているのだそうです。



字が読めないなんて・・・



そんなことで、蔑(さげす)んだり、バカにしたり、気の毒がるのはちょっと違う。



人として、この人の力強さ、賢さ・・



そういうことを思わずにいられません。



これは、むかーし父に聞いた話でした。



もうひとつ。。



9歳の時、「今、何年何月何日何時何分・・・この瞬間は、今しかない。」



と、母に言われた時の衝撃。



どんなシチュエーションだったかもはっきり覚えているぐらい衝撃的でした。



9歳の私はそんなこと考えてみたこともなかったのだと思います。



ああ!この一瞬はもうすぐに過去のものになってしまうんだ!



青天の霹靂でした。



「100万回生きたねこ」の、佐野洋子さんの父は東大(帝大?)出のカミソリとあだ名されたような人だったそうです。



佐野さんは自慢たらしいことや教訓めいたことは一切言われない、、いや、むしろそういうことを嫌悪していた人だと思います。



「鋭敏で頭の冴えた家長など、家庭に必要だろうか?天才的な人間など、どこか人格破綻を持っているに決まっている。出来の悪い弟を執拗にいじめたのも私には異常だと思える。  4歳の子供もいる食卓で、「生涯12冊の本しか読まなかったが真の読書家と言われる人がいる」とか「活字を信じてはいけない」「金で買えるものは誰でも買える」「金と命は惜しむな」等と言う父親が有難いものだろうか。 それより頭の一つも撫でてくれた方が、何ぼか父親らしいのではないか。 父が家に帰ってくると、家中に緊張が走った。」(「シズコさん」より・・)





家族って。。



いろいろ考えます。



遠慮がないぶん傷つけあったりもします。





小さな傷をいくつも抱えながら、真珠のようにそこから美しいものが生まれる。



ああ・・なるほど、雑誌やテレビのコマーシャルのように絵空事の家族像なんてないよなぁ・・って・・



阿古屋貝につけた傷の部分から真珠が生まれてくるようなもの・・なのでしょうか?



佐野さんはそういう父には可愛がられていたようですし、そういう父を好きでもあったのですが・・



きっと、もう、「好き」とか「愛」とかいう次元を超えているのだと感じます。



                      



さて、便利なもの。。



活字を手に入れて、記憶する深い世界を失ったのかもしれません。



ただの、記憶する脳のメカニズム・・「海馬」の話だけじゃなくて。。



モンゴルの平原にすむ遊牧民の人たちは、恐るべき視力を持っていると言われていますよね。



私たちのそれは、必要最小限に退化しているのでしょう。



視力以外の気付かぬ目に見えないところも、例外ではないと思います。



辞書を片手に悪戦苦闘していた時代とは違い、インターネットや電子辞書でお手軽に情報を得られる。



ケイタイではなく電話で・・・と言うけど、明治時代に電話が輸入されたとき、電話線に荷物を繋ぎ「○○まで、この荷物、運んどくれ」と言った人がいる・・と言う笑い話がありますが、なんとなくテレビも電話もある生活はフツウ・・と思うところにも、失ったものがあるのでしょうね。



電話を発明したベルも、自分のオフィスには電話を嫌って、置かなかったそうですし。。



じゃあ、直接話すべき・・・でも、手紙の方が伝わることもある。



じゃあ携帯のメールは・・



手書きじゃないから心が伝わらないか・・でも、活字となった本から、生きる力をもらうことだってありますし。。



心の使い方、の問題なのでしょう。



メール・・・手紙・・・お知らせ・・っていう意味ですもんね。



メールヒェン(メルヘン)・・・お知らせ・・に、○○ちゃん・・の、「ちゃん」がついた形だそうで、さしずめ「おしらせちゃん」・・みたいな意味でしょうか。。たしかドイツ語だったような・・・??





こうして、なんとなく文明の中で、「人」は、むしろ「退化」しているのだろうか??



~~な~んてね~~



「そんなこと言うんだったら、辻斬りがあったような時代に戻れってことですか?」



と言ったヤツがいるけど、そんな馬鹿なことを言ってるのではありません。



それに、昔は昔で秩序もあった。



義理も人情も。



権利だけ主張して、義務を果たしていないという自覚がない・・と言うことはなかった。。のかな。。??。。佐野さんの言葉です。



辻斬りの代わりに「無差別殺傷事件」が起こったり、「通り魔事件」や「酒鬼薔薇聖斗事件」



・・・おもい事件の話になってしまいましたが、ごく普通・・と思っていた日常は、永続的なものではない。。



みたいなね~



マスコミで騒ぎ立てなければ、そのうち風化してしまう。



私たちの思考も、そういうものに大きく左右されている・・・そう感じます。



                      



昨日のレッスンの時、4年生男子K君が、「時間をかけて、苦労してやんなくっちゃいけないんだ」のような発言をしていて、



「おお!そこ気付いた?」と、言う会話があったのですが、本音のところで分かっているやら~



でも、なかなかイイ顔して弾いていましたよ



このところ、佐野洋子さんのエッセイばかり読んでたので、伝染して「辛口」な文になってしまいました



満州で裕福な暮らしをしていた幼少期の佐野さんですが、引き揚げてきてからの苦労(佐野さんは絶対苦労なんて口が裂けても言いませんが・・)は、なかなかのもので、水はそう近くはない水源から日に何度となく炊事場の貯水場に運び、母が兄の手袋を編みながら幼い洋子さんに教え、そのとおりに、自分と2人の弟3人分の手袋を編んだのは8歳の時だったと・・・



もちろん、さっきの「辻斬り」と言ったバカヤロウはいらっしゃらないと思うので、そんな時代に戻れって言ってるんじゃない・・・と分っては頂けると思います。



でも本能や感(カン)のようなものから離れすぎると、手放してゆくものも多いのかな・・と・・



複雑な道具や機械を使いこなせることが、果たして「進歩」「進化」と言っていいのだろうか?



世界中の人を魅了する、スペインのサグラ・ダ・ファミリア(聖家族教会)・・ガウディは、「私の雇主は急いでいません」と言い、ガウディ亡き後も黙々と制作が続けられている、この有名な観光スポット。



この教会は、森の中にでもいるような錯覚さえ覚える、「自然」をモティーフとし、自然の力学に従って構成、設計されています。



もちろん文明の産物から便利さは享受しています。。が、便利なものに甘え過ぎず、「人も自然の一部なんだ」ということをときどきは思い出そう・・・ってことなのかな??



ちなみに、佐野洋子さんの父が語ってたことは、非常に頷けます。。全くもって、本当にその通りだなぁ・・と思います。



佐野さんほどきっぱり辛口を貫き通せない私ですが・・・



ぁ・・・そうそう、佐野洋子原画展、今福山市でやってるそうです。



何とかして行きたいものだと思っているのですが、、ぁぁ広島県立美術館で行われている“クレラー・ミュラー美術館展”、、あと神戸市立博物館で開催中の“ターナー展”・・・行けたらいいなぁ~



こんな情報要らなかったかな~?



では~~























コメント
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