月下に杯を重ね

日本刀メインの解説サイト?
各項目について、新しい情報を入手するたびに加筆修正し、前に出します。

長曾禰虎徹(興里)

2005-11-16 02:23:03 | 刀工
 興里は元越前福井の鎧師であったが、世が太平を迎えるにつれ、鎧・鉄砲はやがて廃れていくのを見越し、刀鍛冶に転身したといわれている。
 明暦二年頃、齢五十を過ぎての転身であるから、その成功はまさに驚嘆の一言であろう。
 なお、この時江戸に連れてきた興正、興久、興直等のうちで、興正は技量優れ後に興里の養子となり二代目虎徹となった。
 興正もまた最上大業物の評価を得るに至るが、興正も興里が鎧鍛冶時代からの弟子であることから、やはりその偉業には見るべき物があるといえよう。
 また、興里の刀鍛冶としての師といわれる和泉守兼重もまた鏃鍛冶から刀鍛冶に転身した変わり種の刀鍛冶である。
 兼重から数えれば、師弟三代にわたる転身組の刀鍛冶というのは、なかなかにおもしろいと言えよう。
 
 興里は、鎧鍛冶時代の鉄の処理方法を応用して刀を鍛えたと言われ、その切れ味はまさに絶品といえる。初期の「長曾根興里入道古鉄」銘の脇差には、「二ツ胴切落」 の金象嵌銘がいれられた物がある。これは、試し切りに於いて人間の死体2体の胴部を一太刀で断ち割った証である。刃長わずかに48.5センチの脇差で二ツ胴を成し遂げるのは、まさに驚嘆すべき偉業である。
 また、越前の鎧鍛冶という出身から、越前康継の創始した越前彫りを巧みに掘る。鎧鍛冶の余技とも言うべきか。その切れ味とともに虎徹の声望を大いに助けた。なお、この時代は作刀に彫り物を施す刀工はまれである。

 さらに、当時の試し切りの大家「山家」一家とタイアップしたために、忽ちのうちに名声を馳せるに至った。商品の売り込み技術も当代随一だったといえよう。
 
 最上大業物。

S&W M29(スミスアンドウェッソン M29)

2005-11-16 01:38:41 | リボルバー
 .44マグナム弾を使用。
 映画『ダーティーハリー』で一躍有名になったリボルバー。
 本来はハンティング用として開発された物で、鹿やイノシシを相手の場合のメインウェポン、クマなどの大型獣を相手にする場合のサイドアームとして活躍している。
 また、アメリカの警察官の中には対自動車用として使用しているものもいるとか。

正宗(相州正宗)

2005-11-12 14:01:02 | 刀工
 相州正宗。嘉歴年間(1326-1328)、相模国の人。
 一般に漠然と正宗と言われた場合は、彼を指すことが多い。
 なお、正宗の名をもつ刀工は、他に文和年間に山城国(入道後「達磨」と切る)に、文明年間に備後に、延文年間と永徳年間に三原にいるので、混同しないように注意が必要である。
 
 新藤五国光の門下で、行光の子といわれている(養子説もあり)。
 五郎入道と号す。
 在銘は短刀に限られ、大磨上げの物が多い。
 その作風から正宗の理想は古い伯耆物や古備前物であったとされ、彼独自の特色が配され相州伝という新しい作風を創始することとなった。
 
 正宗の弟子のうち名工十名をあげて正宗十哲と称すると言われるが、年代的に見て正宗の弟子となるには難しい刀工も含まれており、後年の世人による創作と見るのが妥当であろう。中には相州伝とは全く異なる備前兼光(二代? 延文兼光)なども含まれている。
 
 村正の師という俗説があるが、村正(村正は数代にわたり、一人一人の区分に定説がない)は延徳から天正年間(1489-1591)の人々であるため、嘉歴年間(1326-1328)の正宗とは師弟関係にはなりえない。諸説ある村正であるが、最も古い説である応仁(1466-1468)をとっても、正宗とは生きた時代に100年以上の開きがあるのである。


コラム:
 在銘の物で確認されている物が、短刀に限られているので、太刀で在銘の物はまず偽物と疑った方がいいと言えるだろう。

村正の作った槍

2005-11-12 00:01:01 | コラム
 妖刀村正、徳川家にたたる太刀と言われる村正ですが、今回は槍についてです。
 時は天下分け目の関ヶ原の合戦。
 織田信長の甥織田長孝は、西軍の将戸田重政を討ち取りました。
 長孝は、重政を討ち取った名槍と首級を徳川家康に差し出し、検分に供していました。
 そのとき、事故が起きました。
 かの名槍が、家康の指を傷つけたのです。
 その名槍の作者が村正だと知った家康は、席を蹴立てて立ち去ったといいます。
 
 関ヶ原直後という最も政治情勢が不安定な時に、信長の甥に対して取った態度としては、究めて危険な行動でした。(注.)
 そんなリスクを忘れての行動に、村正に対する家康の嫌忌の念が現れているようで興味深いエピソードです。

注.
 関ヶ原の戦いでの家康のスタンスは、秀頼を傀儡にして政権を奪おうとした石田三成を討ち果たすといったものでした。
 大坂城には毛利輝元が入っており、もし毛利軍が秀頼を立てて出陣していたら、家康はおそらく進退窮まっていたでしょう。
 また、旧主筋の織田信長(表向きは同盟者でしたが、実質は家来待遇)の甥の面子をつぶすと言うことは今の主筋である秀頼(実力では家康が上であるのは周知の事実であったが……)に対する今後の態度もこのようになるのではないかと、世間に受け取られかねない事件だったのです。
  

兼元(孫六)

2005-11-11 23:32:30 | 刀工
 刀工の中でも、刀にさほど興味のない一般の人々の間でも一度くらいは名前をきいたことがあると思われる孫六(孫六は兼元家代々の通称)である。
 室町時代、美濃の鍛冶は備前鍛冶に次いで繁栄を誇り、関の和泉守兼定(之定)・赤坂の兼元はその代表とも言える刀工である。
 兼元は同名数代にわたり、その名跡は新刀まで及んでおり、各代の区別は困難である。

 初代兼元は、嘉吉明応年間の人で通称は太郎左衛門。初代孫六の養父にあたる。
 銘は「兼元」。
 業物。
 
 二代兼元は、明応年間の人で有名な孫六はこの人である。
 兼並の子で初代兼元の養子となった。
 初代兼定(親兼定)の門人とも言う。
 銘は「兼元」「濃州赤坂住兼元作」「兼元作」。
 最上大業物。
 
 三代兼元は、大永年間の人。
 孫六二代目、刃文の揃った三本杉が特徴である。
 銘は初銘が「兼茂」次いで「兼元」と切る。
 大業物。
 
 四代兼元は、天文年間の人。
 孫六三代目、刃文は揃った三本杉が特徴。
 銘は「兼元」「濃州不破郡住兼元」、山田住と切る物もある。
 大業物。

なお、「まこ六兼元」と銘を切った刀もあるが、これは初代の作ではないと言われている。
 
 兼元の特長は、「関孫六三本杉」と呼ばれる独特の刃文にある。


コラム
 関の孫六という表現をよく見かけるが、実際はどうなのでしょうか?
 関市は孫六は、関の人というように言っているようですが、わたしの手持ちの資料ですと、関ではなく赤坂の人のように見受けられます。
 この当時、美濃鍛冶の中心地は関で、その他に赤坂・蜂屋・西群等にも刀工は分布していたようです。
 一般には関身・関鍛冶といえば、当時の美濃物の代名詞的な物になっているようなので、その関係なのでしょうか。
 私自身はこの地にはあまり詳しくなく、赤坂がどこにあるのかすら実はよく知らないのですが……。
 資料によっては赤坂の兼元という表現をするもののもあり、私の手元の資料でも赤坂住や山田住の銘は見つかるのですが、関住というものは未だ未見です。
 一般に浸透していることが必ずしも正しくないことは、「村正、正宗の弟子説」などでも明らかですので、どうも一抹引っかかる物があるのです。


改稿予定
平成18年5月3日現在、様々な指摘と新しい資料の入手がありましたので、近いうちに大幅改稿いたします。
コメントをくださった方々、大変参考になりました。
ありがとうございます。

村正(初代・二代・三代・(四代))

2005-11-10 03:12:24 | 刀工
 桑名在住。
 和泉守兼定(之定)と作風が相似するため、両者の間で技術的交流があった物と考えられている。
 また、関の兼永と合作の短刀があり、その短刀には「於関」と切っていることからも伊勢・美濃両国は一つの大きな鍛冶圏を形成したようである。
 一般に古刀期の作は、表裏の刃文が揃わないのが普通だが、村正は逆に良く揃うのが特徴である。
 茎の形状も独特で「たなご腹」と呼ばれている。ただし、初代はさほど顕著ではなく、茎先も栗尻で尖らない。
 また日蓮宗の信者であったとみられ、「妙法蓮華経」のような題目を切った物、同宗の僧侶のための作刀が現存する。
 
 村正は徳川家にとって不吉な道具とされ、譜代大名や家臣の間ではこれをタブーとした。そのため、銘を削り取ったり「正宗」「正広」「村忠」などと改竄した例もみられる。
 
 村正の現物は最も古い物が文亀元年(1501)であり、ついで永正10年(1513)のものになる。
 村正は同名で数代あるとされてきたが、その各代の区別については諸説ある。
 初代は「美濃国関鍛冶系図」に関兼春の門との記載あり。
 ここでは、初代(延徳~永正)・二代(天文)・三代(天正)説を採りたい。

 他に、初代(応仁)・二代(文亀)・三代(天文)・四代(天正)説がある。
 こちらの説では、初代は濃州赤坂兼村の子で桑名に移住。互の目乱れ、皆焼。銘「村正」。
 二代は、箱乱風の互の目乱、谷けわしく表裏の刃文がそろう。銘は「勢州桑名住右衛門尉藤原村正」「村正」。
 三代は、作柄が二代に同じ。銘は「勢州桑名郡益田庄藤原村正作」「勢州桑名藤原村正作」。
 四代は、互の目湾れ・箱乱。刃文に険しさが無くなる。銘は「村正」。
 
 兼春・兼村に関する手持ちの資料がないため、年代や代に関する検証は資料が十分に揃ってからにしたい。今回、三代説をとっているのは、応仁(1467-1468)では現存最古の文亀元年(1501)と開きがありすぎるからである。また、村正の特徴である表裏の刃文のそろいが出てくるのが文亀以降の作刀となるため、こちらの方が説得力があると感じたためである。これらの考えは、これ以降の資料の収集によって容易に覆る物であり、あくまで仮説としておく。

 コラム:村正の作った槍


 最近、週刊少年マガジン連載の「Kyo」というマンガで村正が登場している。年代的にみれば三代(異説をもとにすれば四代)と見られるが、村正が数代存在したとこの作者が知っているようにはとうてい見受けられない。
 また、日蓮宗の信者であると見られるなど、一般的に流布しているイメージとはだいぶ異なる実像をもっているようだ。

政宗の指料は正宗か

2005-11-09 19:37:51 | コラム
 こんな話があります。
 江戸城中である大名が、
「陸奥守殿の御指料はさだめし正宗でござろうの」
と政宗に尋ねました。
 これを受けて政宗は、
「如何にも、正宗を帯刀いたしてござる」
と返しました。
 しかし、実際は正宗の脇差しではなかったのです。
 屋敷に戻った正宗は、さっそく倉の中から正宗の脇差しを探させましたがありません。
 そこでやむなく、正宗の太刀をすりあげて脇差しにしました。
 
 さて、この正宗。政宗が名付けて「振りわけ髪」。
 終戦までは伊達家に所蔵され、しかも「正宗」の二字銘が残る切った茎があったそうです。もっとも、その銘は偽物のようで、そんなわけで「振りわけ髪正宗」のほうもどうやら真作とは言えないようです。
  
 ところで、振りわけ髪の異名をとる脇差しは今一振りありまして、こちらは吉川家の所蔵となっているそうです。
 こちらは、太閤秀吉から吉川元春が拝領した物で、異名の名付け親は細川幽齋であったとか。
 この脇差しは、銘の茎こそ残っていませんが相州上位の作で正宗といわれても頷いてしまうような作であるとか。

 関連:正宗(相州正宗)

天国(あまくに)

2005-11-09 01:26:51 | 刀工
 大和国の人。
 平家重代の名物小烏丸(こがらすまる)の作者と伝えられている。
 しかし所伝によれば、天国は大宝年間の人であるため、日本刀史上では直刀時代の刀工にあたる。一方小烏丸は、その形状から直刀から湾刀への過渡期の作と考えるのが妥当であり、年代としては平安初期の作と見られる。ゆえに、現在ではその説は否定的である。

切れ味と業物位列

2005-11-07 22:44:43 | コラム
 日本刀の切れ味をランク付けするものに、業物位列があります。
 これは、「懐宝剣尺」「古今鍛冶備考」によってランクづけされた物で、切れ味上位の物から、最上大業物(14人)・大業物(84人)・良業物(210人)・業物(803人)の4段階に分けられます。
 ただし、これは切れ味の絶対的上下関係を示す物ではないようです。
 この位階の算定の基準は、最上大業物が10振りのうち8振りから9振りが大切れするもの、大業物はうち7振りから8振り、良業物がうち5振りから6振り、業物がうち2振りから4振りまでのものとなっています。
 つまり位階が上の物ほど、はずれが少なく大切れする物が多いというわけで、大切れする物の中での順位付けではないところがおもしろいところです。

 「懐宝剣尺」は、寛政9年(1797)に遠州浜松藩士柘植方理が須藤五太夫・山田朝右衛門の協力により著したもので、当時の一般武士の教書本として出版されました。
 そのためか、当時の武家が入手可能な新刀をおもとした代表刀工を載せている物に過ぎませんでした。
 その33年後の文政13年(1830)に山田朝右衛門吉睦が「古今鍛冶備考」全7巻を著し、「懐宝剣尺」における業物位列を追加再編しました。その刀工数は、実に1111人に及んでいます。
 代々斬首刑の執行にあたる山田家の経験を下に編纂されたこの二編の著作は、やはり世間に与える説得力が大きく当時から現代に至るまで刃味に関する貴重な資料となっているようです。
 当然ながら、文政13年(1830)より後の刀工については業物位列はありません。ゆえに、業物位列がないからといって、切れ味という点で凡工であるというわけではない点に十分注意してください。

 なお、各位列の著名刀工の簡単な表を載せておきましたので、そちらも参照ください。

業物表

日本の槍事情

2005-11-07 00:42:22 | コラム
 日本での槍の登場は、実はかなり遅く南北朝時代になります。
 私が知っている説は二説ありまして、一つは楠木正成が戦いに初めて用いたという説、もう一つが九州の菊池一族が合戦の際に竹竿に短刀を結んで(世に言う菊池槍の原型)闘ったという説です。
 これは、合戦の一つの形式としてゲリラ戦が登場したことと無関係ではないようです。
 これほどに簡便で優秀な武器は中々無く、以後の合戦では主戦武器の座に躍り出てきました。
 この槍の登場に呼応する形で、刀も従来の斬るためのものから、長い刀でなぎ払う面を重視したものへと変化していきました。

 戦国期になると長柄槍が登場します。
 俗に「剣は突く物、槍は叩く物」といわれるように、集団で相手に殴りかかる武器となりました。