月下に杯を重ね

日本刀メインの解説サイト?
各項目について、新しい情報を入手するたびに加筆修正し、前に出します。

正宗(相州正宗)

2005-11-12 14:01:02 | 刀工
 相州正宗。嘉歴年間(1326-1328)、相模国の人。
 一般に漠然と正宗と言われた場合は、彼を指すことが多い。
 なお、正宗の名をもつ刀工は、他に文和年間に山城国(入道後「達磨」と切る)に、文明年間に備後に、延文年間と永徳年間に三原にいるので、混同しないように注意が必要である。
 
 新藤五国光の門下で、行光の子といわれている(養子説もあり)。
 五郎入道と号す。
 在銘は短刀に限られ、大磨上げの物が多い。
 その作風から正宗の理想は古い伯耆物や古備前物であったとされ、彼独自の特色が配され相州伝という新しい作風を創始することとなった。
 
 正宗の弟子のうち名工十名をあげて正宗十哲と称すると言われるが、年代的に見て正宗の弟子となるには難しい刀工も含まれており、後年の世人による創作と見るのが妥当であろう。中には相州伝とは全く異なる備前兼光(二代? 延文兼光)なども含まれている。
 
 村正の師という俗説があるが、村正(村正は数代にわたり、一人一人の区分に定説がない)は延徳から天正年間(1489-1591)の人々であるため、嘉歴年間(1326-1328)の正宗とは師弟関係にはなりえない。諸説ある村正であるが、最も古い説である応仁(1466-1468)をとっても、正宗とは生きた時代に100年以上の開きがあるのである。


コラム:
 在銘の物で確認されている物が、短刀に限られているので、太刀で在銘の物はまず偽物と疑った方がいいと言えるだろう。

村正の作った槍

2005-11-12 00:01:01 | コラム
 妖刀村正、徳川家にたたる太刀と言われる村正ですが、今回は槍についてです。
 時は天下分け目の関ヶ原の合戦。
 織田信長の甥織田長孝は、西軍の将戸田重政を討ち取りました。
 長孝は、重政を討ち取った名槍と首級を徳川家康に差し出し、検分に供していました。
 そのとき、事故が起きました。
 かの名槍が、家康の指を傷つけたのです。
 その名槍の作者が村正だと知った家康は、席を蹴立てて立ち去ったといいます。
 
 関ヶ原直後という最も政治情勢が不安定な時に、信長の甥に対して取った態度としては、究めて危険な行動でした。(注.)
 そんなリスクを忘れての行動に、村正に対する家康の嫌忌の念が現れているようで興味深いエピソードです。

注.
 関ヶ原の戦いでの家康のスタンスは、秀頼を傀儡にして政権を奪おうとした石田三成を討ち果たすといったものでした。
 大坂城には毛利輝元が入っており、もし毛利軍が秀頼を立てて出陣していたら、家康はおそらく進退窮まっていたでしょう。
 また、旧主筋の織田信長(表向きは同盟者でしたが、実質は家来待遇)の甥の面子をつぶすと言うことは今の主筋である秀頼(実力では家康が上であるのは周知の事実であったが……)に対する今後の態度もこのようになるのではないかと、世間に受け取られかねない事件だったのです。