桑名在住。
和泉守兼定(之定)と作風が相似するため、両者の間で技術的交流があった物と考えられている。
また、関の兼永と合作の短刀があり、その短刀には「於関」と切っていることからも伊勢・美濃両国は一つの大きな鍛冶圏を形成したようである。
一般に古刀期の作は、表裏の刃文が揃わないのが普通だが、村正は逆に良く揃うのが特徴である。
茎の形状も独特で「たなご腹」と呼ばれている。ただし、初代はさほど顕著ではなく、茎先も栗尻で尖らない。
また日蓮宗の信者であったとみられ、「妙法蓮華経」のような題目を切った物、同宗の僧侶のための作刀が現存する。
村正は徳川家にとって不吉な道具とされ、譜代大名や家臣の間ではこれをタブーとした。そのため、銘を削り取ったり「正宗」「正広」「村忠」などと改竄した例もみられる。
村正の現物は最も古い物が文亀元年(1501)であり、ついで永正10年(1513)のものになる。
村正は同名で数代あるとされてきたが、その各代の区別については諸説ある。
初代は「美濃国関鍛冶系図」に関兼春の門との記載あり。
ここでは、初代(延徳~永正)・二代(天文)・三代(天正)説を採りたい。
他に、初代(応仁)・二代(文亀)・三代(天文)・四代(天正)説がある。
こちらの説では、初代は濃州赤坂兼村の子で桑名に移住。互の目乱れ、皆焼。銘「村正」。
二代は、箱乱風の互の目乱、谷けわしく表裏の刃文がそろう。銘は「勢州桑名住右衛門尉藤原村正」「村正」。
三代は、作柄が二代に同じ。銘は「勢州桑名郡益田庄藤原村正作」「勢州桑名藤原村正作」。
四代は、互の目湾れ・箱乱。刃文に険しさが無くなる。銘は「村正」。
兼春・兼村に関する手持ちの資料がないため、年代や代に関する検証は資料が十分に揃ってからにしたい。今回、三代説をとっているのは、応仁(1467-1468)では現存最古の文亀元年(1501)と開きがありすぎるからである。また、村正の特徴である表裏の刃文のそろいが出てくるのが文亀以降の作刀となるため、こちらの方が説得力があると感じたためである。これらの考えは、これ以降の資料の収集によって容易に覆る物であり、あくまで仮説としておく。
コラム:村正の作った槍
最近、週刊少年マガジン連載の「Kyo」というマンガで村正が登場している。年代的にみれば三代(異説をもとにすれば四代)と見られるが、村正が数代存在したとこの作者が知っているようにはとうてい見受けられない。
また、日蓮宗の信者であると見られるなど、一般的に流布しているイメージとはだいぶ異なる実像をもっているようだ。
和泉守兼定(之定)と作風が相似するため、両者の間で技術的交流があった物と考えられている。
また、関の兼永と合作の短刀があり、その短刀には「於関」と切っていることからも伊勢・美濃両国は一つの大きな鍛冶圏を形成したようである。
一般に古刀期の作は、表裏の刃文が揃わないのが普通だが、村正は逆に良く揃うのが特徴である。
茎の形状も独特で「たなご腹」と呼ばれている。ただし、初代はさほど顕著ではなく、茎先も栗尻で尖らない。
また日蓮宗の信者であったとみられ、「妙法蓮華経」のような題目を切った物、同宗の僧侶のための作刀が現存する。
村正は徳川家にとって不吉な道具とされ、譜代大名や家臣の間ではこれをタブーとした。そのため、銘を削り取ったり「正宗」「正広」「村忠」などと改竄した例もみられる。
村正の現物は最も古い物が文亀元年(1501)であり、ついで永正10年(1513)のものになる。
村正は同名で数代あるとされてきたが、その各代の区別については諸説ある。
初代は「美濃国関鍛冶系図」に関兼春の門との記載あり。
ここでは、初代(延徳~永正)・二代(天文)・三代(天正)説を採りたい。
他に、初代(応仁)・二代(文亀)・三代(天文)・四代(天正)説がある。
こちらの説では、初代は濃州赤坂兼村の子で桑名に移住。互の目乱れ、皆焼。銘「村正」。
二代は、箱乱風の互の目乱、谷けわしく表裏の刃文がそろう。銘は「勢州桑名住右衛門尉藤原村正」「村正」。
三代は、作柄が二代に同じ。銘は「勢州桑名郡益田庄藤原村正作」「勢州桑名藤原村正作」。
四代は、互の目湾れ・箱乱。刃文に険しさが無くなる。銘は「村正」。
兼春・兼村に関する手持ちの資料がないため、年代や代に関する検証は資料が十分に揃ってからにしたい。今回、三代説をとっているのは、応仁(1467-1468)では現存最古の文亀元年(1501)と開きがありすぎるからである。また、村正の特徴である表裏の刃文のそろいが出てくるのが文亀以降の作刀となるため、こちらの方が説得力があると感じたためである。これらの考えは、これ以降の資料の収集によって容易に覆る物であり、あくまで仮説としておく。
コラム:村正の作った槍
最近、週刊少年マガジン連載の「Kyo」というマンガで村正が登場している。年代的にみれば三代(異説をもとにすれば四代)と見られるが、村正が数代存在したとこの作者が知っているようにはとうてい見受けられない。
また、日蓮宗の信者であると見られるなど、一般的に流布しているイメージとはだいぶ異なる実像をもっているようだ。