月下に杯を重ね

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各項目について、新しい情報を入手するたびに加筆修正し、前に出します。

越前康継

2005-11-17 16:20:01 | 刀工
 慶長年間、武蔵の国の人。生国は江州下坂村。下坂市左衛門。
 越前北荘(今の福井市)に住み、結城氏の抱え工として肥後大掾下坂と銘した。
 慶長11年頃、結城秀康(家康長男)の合力により、大御所家康・将軍秀忠に江戸に招聘される。鍛刀の功により家康から「康」の一字を賜り、以後「康継」を名乗った。また、「葵紋」も賜り刀の茎に切ることを許された。このため、「御紋康継」「葵下坂」とも称された。
 慶長十九年、大坂城落城後は、その際に焼け落ちた名刀の数々を再刃あるいはその写しを作刀している。
 駿府にても作刀あり。
 元和七年没。
 銘は「越前康継」「康継入道作」「以南蛮鉄於武州江戸越前康継」。
 良業物。
 
 南蛮鉄の扱いが極めて巧みで、その作刀に「以南蛮鉄」などと銘が切られた物もある。
 また彫りも巧みで、堀川国広一派、埋忠明寿一派とともに新刀を代表する彫り物の三派を形成した。
 その門下に同郷の大和守安定がいる。



繁慶(はんけい)

2005-11-17 15:45:31 | 刀工
 元の名を小野清堯(おのきよたか)といい、鉄砲鍛冶の出である。
 清堯作の鉄砲も相当数現存している。
 
 大坂城陥落後、天下は太平へと向かったため、鉄砲が今後不要になっていくのを見越し、刀鍛冶に転身した。同様の理由で鎧鍛冶から転身した虎徹(興里および興正)の例もあるが、転身成功者の数少ない一人である。
 繁慶は徳川家康の駿河移住に伴う形で駿河に移住し、その地で刀剣の鍛造法を学んだという。家康没後に江戸へ帰還。鉄砲町において作刀する。
 
 銘は「日本善清堯」「繁慶」「小野繁慶」。鉄砲名も刀銘も彫銘という特殊な銘を切る。彫銘は繁慶一門にのみ見られる特殊なものである。
 良業物。
 
 虎徹入道興里とは異なり、その師が誰であるかは全くわかっていない。
 ひじき肌という独特の鍛えと相州伝の大乱れ刃を焼き特徴的な作風である。おそらくは、相州正宗あたりを目指したものと考えられる。
 巷では、本阿弥某に己の作刀を正宗と鑑定され、「正宗のごとき凡工と間違われるのは無念である」とこぼしたとされるが、信頼出来る話ではない。
 なお繁慶は自作の刀や鉄砲を一宮や大社に奉納している。

埋忠明寿(うめただみょうしゅ)

2005-11-17 15:44:28 | 刀工
 慶長年間、山城の国の人。
 代々金工(金属の彫り師)の技を持って足利家に使えた金工界の名門埋忠家の出。
 埋忠重隆二男、埋忠彦次郎。長子早世により家を継ぐ。
 明寿(みょうしゅ)は初め「重吉」「宗吉」と銘し、自らを三条宗近二十五代孫とした。父埋忠重隆も三条宗近二十四代目を称していたと言われているが、それを継いだものか。
 入道して鶴峰明寿と号す。
 父重隆も刀工のようであるが、当方に資料なし。今後の研究対象としたい。
 西陣に住し金工の他に刀工としても活躍。国広とともに新刀鍛冶の祖といわれる。
 その出身からも彫り物を得意とし、その彫り物も古刀期には見られない「昇り竜」「下り竜」、また以前から見られた題材でも特色が強く、信仰的要素よりも装飾的要素を多分に含む。
 短刀を得意とし、これに一流の刀身彫刻を施し斬新な作品を残している。
 彼の作中で刀(ただし太刀銘)で現存しているのは、重要文化財に指定されている一振りのみである。姿はあまりよくないが、大磨上無銘のものに倣ったからであるといわれている。裏銘に「他江不可渡」とあるところを見ても近親者に与えたものであり、愛着の深かったものであることが偲ばれる。
 銘は「城州埋忠作」「城州埋忠明壽作」「山城國西陣住人埋忠明壽」「埋忠明壽作」。
 寛永八年没、享年七十四歳。
 
 余談ながら、明寿は金工家としての技量も群を抜き、真鍮・鉄・銅などの材料を用い、さらに色がねを組み合わせることで平象嵌を施した鍔が残っているそうである。
 
 この時期に彫り物を得意とした三派が出そろっている。埋忠率いる埋忠彫りの一派のほかに、堀川国広一派の堀川彫り、越前康継一派の越前彫りである。