昨日はデジカメ電池切れなどというドジを踏んで、御堂筋の銀杏並木を撮りそこねですわ。
日が差してないので色に輝きが無いのがも一つですねぇ。
明日はもう12月やというのに、まだ色づかんと緑の葉っぱを付けた木もチラホラありましたなぁ。
今日はちゃんと電池の残量をチェックして、昼食後に再挑戦してきましてん。
御堂筋と長堀通りの交差点まで自転車でタラタラと行って片道約10分、適当な食後の運動ですわ。
この交差点は私の氏神さんの直ぐ近くでもあり、結構因縁のある場所なんですよ。
大阪大空襲の時ヨチヨチ歩きの私は母親に手を引かれ、一人前に煤で顔が真っ黒けになって逃げてたそうです。
この交差点の真下の地下鉄心斎橋の駅に下りる階段が開いてたので、火の海の地上から地下に逃げ込んだんですて。
罹災者を収容する為に駅を開放してたんですねぇ。
その頃大阪の地下鉄といえば天王寺-梅田間の一本だけ。
ホームに溢れた罹災者に混じって、離れ離れになった祖母叔母と姉、火を消そうと残った父も心配やし心細かったんやて。
ほんなら何と、運行時間でもないのに電車が走って来たんやそうな。
それに乗って梅田まで行き、阪急の一番電車を待って千里山の大叔父のところへ避難して助かったんやて。
母親曰くには「普段と同じように電車が来た時は、やれやれこれで助かった、と安心してへたり込みそうになった」そうな。
誰もがオロが来てる時に、臨機応変に適切な処置が取れる胆の坐った人がいてはったんですなぁ。
しかし、一人ではどうにもならん、運転手、送電、司令室とたくさんの人が携わったはずでっせ。
ところが、駅を開放し、時間外に電車を走らせ、罹災者を無料輸送する決定をし、指示したのは誰かいまだに判らんのやそうです。
地下鉄職員も自分の家が家族が心配やったろうに、ホンマの職業意識というのは大したもんです。
大震災の時、先頭に立って救護にあたった消防士、警察、医療関係者等々の皆さんも同じですわねぇ。
職業に貴賎は無いか知らんけど、詐欺まがいの金儲けをしてる連中とは決して同列に出来んと思いますなぁ・・・。
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