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喜愛香港-054 北角(パッコック)-1

2004-05-01 16:26:04 | 虚々実々-喜愛香港

北角(パッコッ)の最期の「」は「パッコッ」と聞こえる感じに飲み込むんです、そんな事はどうでもよろしいね・・・。
本来の廣東語の地名は「七姉妹(チャッディムィ、チェッディムィ?)」。
地域の名前としてはもっぱら「北角」が幅を効かせて、「七姉妹」の方は「七姉妹道」に名残を留めているだけです。
「七姉妹」なんてぇのはなにやら曰く因縁ありげな地名やなぁ!と訊きまくったんですがよう判らん。
七月七日の七夕の天女(織姫)には六人の姉妹があって、本人も入れると「七姉妹」。
そやから七に縁が有るんやそうな。
その「七姉妹」から来ているらしいという説を聞いたものの、肝心の「なんで?」という由緒は未解決のまんまですねん。
判らんなりにも「七姉妹」の方がイギリス人がつけた「North Point=北岬」てな味もシャシャリも無い名前より遥かに情緒を感じさせてエエと思うんですがねぇ。

ついでのことに、銅鑼灣(トンローワン)は元々の地名で、イギリス人が後からつけた「East Point=東岬」を廣東語にした「東角(ドンコッ)」は誰も使ってません。
なんで「七姉妹」は「北角」に取って代られたんでしょうか?
香港の地理を知っている人は、おんや?北角より西にある銅鑼灣が「東角」とは?と思うでしょうね。
1900年代初頭までは西営盤から真中の中環(チュングワン)銅鑼灣までが市街地で、銅鑼灣は文字通り東の端っこやったんですなぁ。
太平洋戦争の初期、羅湖で国境を越えた後、九龍半島の西と東の海岸沿いに進んできた日本軍が、1941年12月18日香港島を攻略すべく尖沙咀、ホンハム、牛頭角(ガゥタゥコッ)から海峡を渡って上陸したのは、ここ北角だったんです。
上陸地点に選ぶぐらいですから、ホンマに北角は町の外れやったんですね。
その後、と行っても第二次世界大戦の後、街がドンドン東へ広がって銅鑼灣は殆ど中心辺りに位置する事になってしまいました。

国共内戦で大陸を逃げ出して来た上海人が先ず住みついたのも、まだ町外れだった北角。
そんなわけで、北角に廣東語の通じない上海租界が出現しました。
怜悧で勤勉、商才にたけている事では定評の有る上海人が住み着いた事が、北角発展の切っ掛けになったんです。
ところが成功してお金を握った上海人は、やがて端っこの北角から香港のもっと中心部へと進出、後に住み着いたのが福建人なんです。
小学生時代のアグネス・チャン(陳 美齢)は、北角の主役が上海人から福建人に変わる頃に、北角の銅鑼灣寄りに住んでいたんですね。

福建人といっても、大陸は既に共産党支配が確立していましたので、直接福建省から来たのでは無いんです。
やってきたのはインドネシアから。
アジアで一番歴史が有ると言われているインドネシア共産党(PKI=Partai Komunis Indonesia)は独立戦争で重要な役割を果たし、その後成立した中共の支援を受け勢力を増していたんですね。
丁度香港では中共の工作員に組織された暴動が頻発し、マレー、ボルネオでも毛沢東の中共に後押しされた共産ゲリラが暴れていた頃です。
スカルノが共産党と国軍の両方に片足ずつ懸けて、危うくバランスを取って政権を維持していたのですが、地方で次々に反乱が起き地方革命政府まで樹立される事態になったんです。
軍閥化して分裂しかけていた国軍は、共産主義という共通の敵に対して団結。
米国の援助を受けた軍が反乱を鎮圧すると、大きな力を持つようになりました。

軍の支持を背景にしたスカルノは華人の商業活動を大幅に制限する条例を成立させました。
1959年~1960年にインドネシア華僑250万の10万人以上が国外脱出したと言われています。
この華僑の大部分が福建系で、かなりの人数が香港へやってきたんですね。
その後インドネシアでは共産党がクーデターを起こして失敗、スカルノは失脚してスハルトの時代になります。
このときのドサクサの中でインドネシアの華人は大虐殺に見舞われます。
脱出する先は同朋が居る香港。
そして又もや北角に福建人が増えたんです。
この頃の東南アジアは実に面白かったですなぁ。
歴史を持っていながら、国の気分が若かった。
国をまとめ発展させようとする方法手段には間違いや行き過ぎもあったけれど、目つきに張りがおました。
オット、インドネシアにあんまり深入りすると、香港がやきもちを焼いて拗ねたらいかん。

てな理由(ワケ)で上海人に変わって福建人が北角の主役になりました。
その後、大陸からの生福建人(新移民=サンイーマン)も幾らかは混じりましたが、主力はインドネシア系。
インドネシア独特の調味料や食材が香港で一番揃うのは北角なんですねぇ。
春秧街(チュンヨンガイ)では殆ど福建語の世界です。

春秧街(チュンヨンガイ)はズ~ッと以前は路面電車の折り返し点で、線路がループになってるんです。
折り返し点の名残のループは西の方では上環(シェンワン)の西港城の近くにも有ります。
英皇道を走ってきたトラムが急に北へ曲がって、1本北側の春秧街を通って英皇道へ出るんです。
春秧街の商店は生鮮食料を売る店が主体で、食べ物、衣料品の屋台が道に張り出していて、そこを右往左往する人々を掻き分けるように電車が走ってたんです。
余りヒドイというので屋台が別の場所に移されてすっきりしたんですが、それでもこんな状態。
これは9時半頃ですが、朝が早い町なのでもう2時間くらい早い時間だと道が人で埋まっています。

どうしたわけか、ここにはデッカイ犬がウロウロしてるんですねぇ。
マスティフみたいな面構えの割りにはおとなしいんです、もっとも凶暴やったらエライ事ですがね。
食用犬の末裔やろか?
流れている音楽は殆どが台湾の曲。
台湾語は福建の方言が少し変化したものなんです。
言葉が楽に通じるから台湾からの観光客が多いのもこの町の特徴です。

春秧街を東へ進むと糖水道の東の書局街(シューコッガイ)から先は馬寳街になって、この辺りまで来ると言葉も廣東語に変わります。
この付近は衣料品店が多いですね。
書局街を北へ進むとフェリー乗り場。
活けの海鮮を入れた色とりどりのプラスティックの大タライを道端に並べた魚市が面白いですねぇ。
絶対に安いと思うんですが、残念ながらこれを持ち込んで料理をしてくれるメシ屋が無いんですよ。
その代わりといっては何ですが、大きな公衆トイレが有ります。
下町をウロウロしていると困るのがトイレ。
最近はマクドナルドやピザハットのトイレが使えるのでかなり楽になりました。

春秧街の北側のその名も渣華道(ジャワドゥ)にはインドネシア系に混じって難民つながりかベトナム、カンボジア(クメール)系の店もチラホラと有ります。
渣華道は北角道から西では電気道と名前が変り家具家電を中心に中古品を扱う店が並んでいます。
大強街東側にかって発電所があったからそう言う名前がついたんだそうです。

もう少し、今度は英皇道と山側の北角周辺をうろつきます。

2004/05/01

喜愛香港-055 北角(パッコック)-2

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