赤丸米のふるさとから 越中のささやき ぬぬぬ!!!

「勧進帳」の真実、富山県高岡市福岡町赤丸村の消された歴史⇒「越中吉岡庄」から「五位庄」へ

🔴赤丸城ケ平古墳群出土の「頭椎カブツチの太刀」と埼玉県行田市の出土品ー大彦、豊生彦、五十嵐小豊次

2021-04-19 | 旧町名 富山県西礪波郡福岡町赤丸
■神武天皇像に見られる「頭椎の太刀」












■赤丸城ケ平古墳出土の「椎頭の太刀」の「銀象嵌の椎頭部分」(※赤丸城ケ平山の一部で地目は馬場村地内)







■埼玉県稲荷山古墳出土の刀剣 (※「古代びと野望のあと」集英社)







■赤丸城ケ平山の古墳群出土の「頭椎の太刀」は兵庫県村岡町(兵庫県北部の但馬地方 )の出土品と形状が同じである。 「頭椎の太刀 (カブツチノタチ)」については兵庫県村岡町教育委員会の調査に拠る。

この太刀は西暦100年頃のものと推定され、 頭椎の太刀は、「天忍日命・天津久米命」の二人が天孫降臨の時に腰につけて仕えたと記されている。「天忍日命」は「大伴氏の祖」で、「天津久米命」は「久米氏の祖」で、両者は大和朝廷の軍事を担当した。「続日本紀」では、「天忍日命」は「大伴氏の祖先神」で、瓊瓊杵尊(ニニギノミコト)を先導したとされる。『古語拾遺』では、「高皇産霊神(タカミウブスナノカミ)の娘・栲幡千千姫(タクハタチヂヒメ)の子で、大伴宿禰の祖。また、太玉命、瓊瓊杵尊と同母兄弟」とある。「赤丸村浅井神社の祭神」は「高皇産霊神 (タカミウブスナノカミ)」 であり、その創建の由緒に出てくる元正天皇の二宮「石川朝臣広成」は大伴家持と共に恭仁京で内舎人として聖武天皇に仕えていた事から、赤丸城ケ平古墳群の被葬者は大伴氏の一人であろうか? 大伴氏は大和朝廷で軍事を統轄した氏族であり、北陸を始め、東北の蝦夷対策の責任者で在った。この「頭椎の太刀」は豪華な金・銀の装飾があり、軍事の指揮者か、地域の統治に当たった「指揮者の刀」と推定できる。
又、この「頭椎の太刀」が高貴な人の指揮者の軍刀であるとすれば、赤丸城ケ平古墳近くに「親王塚」とされる史跡が在り、城ケ平横穴古墳群に大和朝廷の指揮者が埋葬されていた可能性が高まる。しかし、この場所は横穴古墳のある傾斜地の下にあり、その場所には現在、大杉が植えられて、鎌倉、室町期に多く造られた小さい五輪塔が祀られている。この五輪塔は小矢部市の義経が宿泊したと伝わる「五位堂」に多く祀られていたものとソックリである。
この古い塚は由緒がはっきりせず、古来、「親王塚」と言い伝えて保存されてきた。「肯搆泉達録」に拠れば、赤丸浅井神社を創建され、浅井城に居城されたと伝わる「元正天皇二宮=石川朝臣広成」は、後に「高円朝臣広世」と賜姓され、この後も生存している。この塚はその「元正天皇の二宮」の墓ではないかとする意見もある。
しかし、この「親王塚」は地元では「赤丸浅井城に在城された後醍醐天皇皇子の宗良親王の塚」と言い伝えられてきた。この五輪塔が造られた時代から推測されたものだろう。
この二人の親王の足跡を見ると、後に「高円朝臣広世」と賜姓された親王はその後も各地へ官僚として赴任しており、越中に来た記録は無いが、赤丸浅井神社の神域には「石川一族」と神官の家系の墓だけが遺されている。状況から考えると、この石川一族は「赤丸浅井神社」とは特別の関係の一族と推定できる。元正天皇の時に初めて「皇室で生まれた子は全て《親王》とする」と云う勅令が出されて、臣籍に降下した天皇の子も《親王》として扱われている。この親王が赤丸村で亡くなった記録は無い。 しかし、石川朝臣広成を慕ってその遺品を埋葬したものか、或いは、赤丸の地に遺された石川朝臣広成の子孫を「親王」として祀った可能性も残る。「元正天皇」は聖武天皇の即位に際して宣命を出し、その中で首皇子(聖武天皇の幼名)の事を「吾子美麻斯王 (アコミマシオウ)」と呼んでいる。元正天皇は、早くして亡くなった兄の文武天皇の子を親代わりとして育て上げて、皇統譜上は文武天皇の妻と擬されて女系天皇になったと云う。古い時代に赤丸浅井神社前で小矢部川と庄川が合流して、その合流地点には「阿古ケ淵」と言う広大な淵となり、赤丸浅井神社にはびわ湖に祀られている「河の江の神、八河江比売神」が祀られて、この淵は「阿古ケ淵」と呼ばれて水神の龍が住むと恐れられたらしく、この地には「龍神伝説」も残る。又、「赤丸浅井神社」の神霊はこの「阿古ケ淵」から上がったと伝えられ、創建以来1700年余りの間、奥の院に秘匿され、神官も開ける事は赦されないと云う。この「阿古ケ淵」に因んで、この辺りには現在も「阿古下」と言う一族が残っている。

■「赤丸浅井神社」が「大伴氏の祖先神」の祭神「高皇産霊神」を祀っている所から、大伴氏との何等かの繋がりが推測できる。「石川朝臣広成」は「内舎人」として「恭仁京」に赴任した時に歌った歌が「万葉集」に掲載されており、この時に大伴家持も「内舎人」として「恭仁京」にいたらしい。「高皇産霊神」は皇室の守神として重要な神でも在った事から、この時の二人の関係から、「大伴家持」が「国司」として越中国国府(高岡市伏木)に赴任していた時に、石川朝臣広成は「赤丸浅井神社」を再建して、古来、祀られていた「八河江比売神」と併せて「高皇産霊神」を祭神とした可能性が高い。大伴家持の後にも石川一族が越中国司として着任しており、位置的にも赤丸村は越中国府の少し小矢部川上流に当たり、国府と赤丸村は密接だったと考えられる。赤丸浅井神社の神域の「國吉名」には「須加山」があり、大伴家持はこの「須加山」を越えて可愛がっていた鷹が飛び去った事を歌っている。
又、「二上射水神社」の祭神は男神の「瓊瓊杵尊(ニニギノミコト)」である。赤丸浅井神社には「八河江比売神(ヤガワエヒメ)」、「高皇産霊神」の二神を主神として、この妻の「木花咲夜比売(コノハナサクヤヒメ)」も祀られている。すぐ近くの延喜式内社のこの二社に、夫婦の神が祀られている事はこの二社の関係性を推測させる。





■元埼玉県立博物館館長金井塚良一氏が「古代びと野望のあと」※集英社 に発表されていた埼玉県行田市の「稲荷山古墳」(五世紀こう)についての著作の中で、この古墳から発掘された「辛亥名鉄剣」について説明されている。その銘文には「辛亥年七月中記乎獲居臣」(※オワケノオミ) から始まる115文字が刻まれている。銘文によれば、「乎獲居臣」は「上祖意富比垝」(※カミオヤオオヒコ) から数えて八代目に当たり、代々「杖刀人首」として大王に近侍した豪族の出身であったと云う。地元ではこの人物を北武蔵の豪族とする説や畿内の豪族かの論争も有ったようであるが、この銘文から「ヤマト政権のワカタケル大王の親衛軍の長」と解釈された人物がこの鉄剣の所有者であったと考えられている。この時代について書かれた物語が越中にも有り、富山藩士野崎伝助とその孫の雅明による江戸時代中期の作と云われる「喚起泉達録」、「肯搆泉達録」が有る。富山県郷土史会からはこの両本を整理して「富山古事記 越の大乱」とタイトルが付けられた本が平成十六年に発行されている。埼玉県の史跡から出土した刀剣の銘と富山県の古書のこの二誌に共通する内容が有り、興味深い。
稲荷山古墳の有る埼玉古墳群は利根川と荒川の間の台地に分布し、九基の前方後円墳が有るが、この中でも六世紀初頭と考えられる稲荷山古墳が最も古いと考えられている。

◎先ず、稲荷山古墳出土の「辛亥名鉄剣」の銘文について調べてみる。(写真参照)
① 「辛亥の七月中、記す。ヲワケの臣。上祖、名はオホヒコ。其の児、(名は)タカリのスクネ。其の児、名はテヨカリワケ。其の児、名はタカヒ(ハ)シワケ。其の児、名はタサキワケ。其の児、名はハチヒ。」
②「其の児、名はカサヒ(ハ)ヨ。其の児、名はヲワケの臣。世々、杖刀人の首と為り、奉事し来たり今に至る。ワカタケ(キ)ル(ロ)の大王の寺、シキの宮に在る時、吾、天下を左治し、此の百練の利刀を作らしめ、吾が奉事の根原を記す也。」

◎「肯搆泉達録」の記載。
・崇神天皇即位十年癸丑、詔有りて、四道将軍を定め給い、諸州を治めしむ。北陸へは大彦命下向し、先ず若狭へ至り給う。大彦命越中に至り給い、伊豆部山の下、杉野に玉趾を留め給う。------豊生彦 トヨナリヒコ 居し所を三室郷(大山町上滝付近)と云う。---豊生彦の後、寿永年中、侍となり、五十嵐小豊治と云う。(✳「五十嵐小豊治」は「吾妻鑑」に越中国吉名の領主として記載されている。加賀藩政の時代に富山県高岡市立野に住まいした「五十嵐小豊次」は国吉、立野、石堤地域を管轄した「十村役」を勤めており国学者として著名な「五十嵐篤好」の墓は「高岡市東五位小学校」の入口に在る。新潟県に五十嵐神社が有り、この地が五十嵐氏の故地で、承久の乱で手柄をたてて越中国吉名を鎌倉幕府から知行されたが北条氏が横取りした為、裁判が行われて五十嵐氏が勝利した事が記載されている。
✳「吾妻鑑 1239年5月2日」 五十嵐小豊次太郎惟重と北条朝時の家臣小見左衛門尉親家 が五十嵐氏が承久の乱で功名をあげて恩賞として賜った国吉名について争論した事が記載されている。)

・「崇神天皇の御宇、越の国阿彦という者を平らげて罷れ」と大若子命に詔して、標剣を賜ったとされる。

■⇒ここに出てくる「大彦命」は、古事記では「孝霊天皇→孝元天皇→大比古命」となり、弟に「開花天皇」と武内宿禰の祖先の「比古布都押之命」がいる。一方、「孝霊天皇→日古刺肩別命→高志の利波臣」となり、「大彦命」と「高志の利波臣」は従兄弟となる。「高志の利波臣」は越中に領土を賜って、石黒氏の祖先になったとされる。赤丸城ケ平の近くの「赤丸浅井城」については、「富山県西礪波郡役所」が発行した「富山県西礪波紀要」に「利波臣は累世此地方を領して此處に居館せり。」(※「続日本紀中越史料雑纂」)との記載がある。
一方、富山県の古記録の「肯搆泉達録」に記載される「大若子命」は「福井県史」に引用されている「越中石黒系図」では「武内宿彌」の末子とし、「大若子命」は伊勢神宮の外宮の神官の度会(わたらい)氏の祖先神とされる。こう見てくると「高志の国」は「大彦命」と「大若子宿彌」の二回にわたり、一回目は「蝦夷討伐の為に大彦が派遣」され、二回目は「高志の国阿彦の討伐の為に大若子宿彌が派遣」されている。「大若子命」は福井県史の「石黒氏系図」では、「蘇我石川宿彌」の兄弟の「武内宿彌」を祖先とするとされ、「大若子命」の三代後の「波利古臣」を「利波臣」の祖先としている。

この二つの比較では、越中についての記載の裏付けが乏しく、歴史的な検証は難しい。しかし、高岡市の赤丸村や加茂村等にも稲荷山古墳と時を近くする古墳が存在し、発掘により多くの鉄剣、人骨が出土しており、この出土刀剣と比較してみるとほぼ近い時期のものに見える。赤丸では、特に出土品の中に「頭椎太刀」という貴人が持ったと推定される太刀の一部も出土している。肯搆泉達録に記載されている「オホヒコ」について、稲荷山古墳出土の刀剣銘にも「オホヒコ」の名前が実際に刻まれている。高志の国に派遣された「大彦命」の足跡を稲荷山古墳の出土した太刀から垣間見る事ができる。

■ ※偽書とも言われる「肯搆泉達録」に記載の「豊生彦」の末裔が「五十嵐小豊次」で五位庄を長く治めていたとされる事から、この「頭椎太刀」も「豊生彦」所縁の刀剣なのだろうか? 古代のロマンである。「吾妻鏡」に拠ると「五十嵐氏」は新潟県の豪族で「承久の乱」の恩賞として「国吉名」を幕府から与えられたとされる。果たして真実は何処に?

■稲荷山古墳の調査・研究に比べて何と富山県の史跡調査がいい加減なものかを痛感する。赤丸村や加茂村から出土した品は地元民から東京の研究施設に贈られたまま、一部の出土品を除いて現地の人達は見た事も無い状況であり、一級の出土品が有りながら、地元での研究調査も行われないままに放置されてきている。正に無知な人達が貴重な出土品を東京に運び去られるまま「出土した事」だけを自慢にしているだけで、可惜、重要文化財を捨て去ったのである。
※一部の人骨・発掘物は高岡市福岡歴史民俗資料館に保管されている。


応仁天皇」は各地の「八幡社」の祭神であり赤丸浅井神社の末社にも「舞谷八幡宮」がある。







■五十嵐氏の祖先は越後の五十嵐神社に祀られる五十嵐氏とされ、「承久の乱」で戦功あり、鎌倉幕府から越中国国吉名を与えられた事が「吾妻鏡」に記載される。五十嵐氏は加賀藩の時に「十村役」として国吉、立野、石堤等を治めた。五十嵐氏の五十嵐篤好は著名な国学者で、その墓は現在、高岡市立東五位小学校の門前に在る。


最新の画像もっと見る