

◆富山県高岡市福岡町赤丸の「中山氏」の居城の【中山国松の赤丸浅井城】と【中山次郎兵衛の赤丸城】
天正の頃、「赤丸浅井城」には兄の「中山国松」が、「赤丸城」には弟の「中山次郎兵衛」が拠ったとされる。「中山国松」の子孫とされる「中山直治」は敦賀に逃れた時に持参した大量の古文書に、「中山国松の「赤丸長善寺」への米貸付証文」等の文書が見られる。「長善寺の開基は源氏の武将」で、「僧道正」と言う。(※「長善寺の開基」は真言宗の僧で「源氏」と言うが、長善寺住職は代々、「旭」を名乗っている所から「木曽義仲の四男」が「木曽義仲の事を指す旭将軍」の【旭】を名乗っており、近くの「倶梨伽羅山」で平家と戦った「木曽義仲」の末裔と見ても良いと思われる。石川県加賀市にも「木曽義仲」の子供が創建した寺院が在る。)





🔻【赤丸浅井城の中山氏の由緒】≪敦賀市博物館に残る赤丸城中山正弥家文書の由緒!!≫
「中山一庵由緒」では、赤丸浅井城の中山次左衛門尉直治は十三歳で前田利家との越中末森の戦いに初陣して伯父寺嶋牛之助と共に強敵を討ち、その後、佐々成政に従い越前女郎浦に移る。慶長六年、大谷浦向山次郎右衛門の計らいで今井の氏族を継ぎ、元は甚九郎と称したが一庵入道と称す。明歴六年酒井公、越前に入られ戦功を尋ねられ、お褒めの言葉を賜り褒美に羽織を賜った。
中山一庵は八十七歳で亡く成った。
・・・・とされる。



(#豊臣秀吉が天正十八年、八王子城を攻めたおりには、「中山家範」と共に「狩野一庵」が「前田利家」と戦った事が「徳川家康家臣改正選諸家系譜」に載っている。狩野氏は越中にも栄え、「赤丸城」の「中山直治」の近くには、鎌倉時代からの「狩野一族」が栄えて室町時代には高岡市の「守山城」には「狩野氏」の在城が見られる。➡「中山一庵」と「狩野一庵」は別人か?
🔽《八王子城の戦い》前田利家軍と対峙した、北条軍の城方にて討死の面々は 近藤出羽之介 津戸半右衛門 上久保助兵衛 同兵衛 中山勘ヶ由 松本豊後 狩野一庵 馬場対馬守 同与八郎 高橋雅楽之助 同宇三良 中嶌豊前守 同主計 同五良 安田善左(右)衛門・・・・・・・)

