赤丸米のふるさとから 越中のささやき ぬぬぬ!!!

「勧進帳」の真実、富山県高岡市福岡町赤丸村の消された歴史⇒「越中吉岡庄」から「五位庄」へ

🔴🎌【保元の乱】 元、「藤原頼長」の庄園で在った越中国「吉岡庄」の中心地「赤丸村」と 加賀国中能登町に在った「一青庄」!!

2021-04-14 | 旧町名 富山県西礪波郡福岡町赤丸



●「保元の乱」では、「崇徳上皇」・「藤原頼長」と「後白河天皇」・「源義朝」・「平清盛」が争ったが、敗れた「崇徳上皇」は隠岐島に流罪にされ、「藤原頼長」は矢を受けて殺害された。保元2年、藤原摂関家長者・左大臣「藤原頼長」の個人庄園29庄は没官されて、「越中吉岡庄」は「後白河上皇」の「後院領」に編入され、「能登一青庄」は「石清水八幡宮」に寄進された。「越中吉岡庄」はその後、「後鳥羽上皇」から南北朝時代の「後醍醐天皇」迄、皇室庄園として伝領した。










■吉岡庄の中心施設で在った「五位庄五十三ケ村総社・五位庄郷社・延喜式内社 赤丸浅井神社」
(※「越中吉岡庄」は南北朝時代末期に「五位庄」と改名された。「吉岡庄」には「赤丸浅井城」・「延喜式内社赤丸浅井神社」が在った。)










■「越中吉岡庄(赤丸村)」に在った「総持寺」の「国指定重要文化財木造千手観音座像」





■高岡市の赤丸村を中心とした「越中吉岡庄」と今の中能登町の「能登一青庄」は「後白河上皇」の時代に没官され、「越中吉岡庄」は「後醍醐天皇」の時代まで「後院領」と呼ばれた天皇直轄領として伝領した。「後白河上皇」の時代には石動山も「後白河上皇」の屋敷内に在ったと云われる「長構堂領」であり、実質的に「後白河上皇」の所領であった。その後、「後鳥羽上皇」の時代には石動山も皇室領で、中能登から「吉岡庄(後の五位庄)」迄含む広大な地域が皇室直轄領で有ったようだ。元赤丸村に在った高岡関町の「総持寺」の国指定重要文化財千手観音像の胎内には「後鳥羽上皇」の法名「金剛位理」が記載されている。「承久の乱」で「後鳥羽上皇」側の総大将になった「藤原秀康」(藤原秀郷の末裔)は元、能登守で有り、上皇は不利とみるや逆に「藤原秀康」を逆賊として院宣を出し、その為「藤原秀康」は捕えられて斬首されたと云う。「赤丸浅井城」の城主石黒氏も「承久の乱」では「後鳥羽上皇」側で戦っており、「藤原秀康」は上皇側の総大将で有ったから、同じ藤原氏である石黒氏の居城のある「越中吉岡庄」にこの観音像が伝えられた背景が有ったのかも知れない。この千手観音は「後鳥羽上皇」の贖罪の為に造られ、後の南北朝時代に「河内金剛寺」から「吉岡庄」の赤丸村に運ばれた可能性がある。「吉岡庄」は「藤原道長」の時代に「一条天皇」が勅使川原左京を「赤丸浅井神社」に遣わされており、その時の勅使お手植えの桜は「勅使桜」・「庚申桜」・「遅桜」と呼び千数百年の後の近年迄「赤丸浅井神社」に残っており、(※神社拝殿に巨大な桜の写真が掲げられている。)それ程、「吉岡庄」は古くから藤原氏との関わりが強かった地域と考えられる。又、「総持寺」は山号を「衆徳山総持寺」と云い、「衆徳」の発音が「崇徳」と酷似しており、この胎内銘の「本願聖人 金剛位理卿」が「後鳥羽上皇」なら、「後鳥羽上皇」の叔父の「崇徳上皇」が「後白河上皇」に謀殺された為、崇徳の怨霊を慰める為の「崇徳山総持寺」が本来の名前だったのかもしれない。しかし、この寺の加賀藩時代以前の古い由緒は何も残されていないと云う。ちなみに現在の総持寺には「讃岐金毘羅山」の石仏が安置されている。崇徳上皇が讃岐で亡くなった為、その霊が金毘羅山に祭られている事から、全国に「崇徳上皇」の怨霊を慰める為に「金毘羅宮」が招致されて、自然の脅威を鎮める為に祈ったとも伝わる。
「衆徳山総持寺」の観音像の胎内には「奉納仏舎利」と2か所に記載されており、「河内金剛寺」には、空海が唐から持ち帰った仏舎利80粒の内5粒が金剛寺住持持仏に「後醍醐天皇」と「東寺長者の文観」によって施入されたと伝わる文書が残されている。



■富山県教育委員会の昭和39年の解体調査報告書によると、総持寺の千手観音像の顔から首にかけての胎内には「奉納仏舎利、仏舎利」と2か所に記載されており、この千手観音像が伝説通り河内金剛寺から伝わった仏なら、後醍醐天皇からの施入と東寺長者文観の施入が重ねて行われ、何と!併せて5粒もの貴重な空海ゆかりの仏舎利が施入されたと云うまさにその千手観音像ということになる。富山県教育委員会の昭和39年の解体調査の時には「白毫の下に埋め木が有った」と報告書に記載されており、実際に文観が長者を務めた東寺の諸仏には金か銀の指先位の容器に仏舎利が納められ、その容器が仏の額の白毫の下に埋め込まれていると云うから、エックス線検査で何かその痕跡が発見されれば間違いなくこの仏は河内金剛寺から伝来した仏であろう。この白毫の下に埋め木以外の埋め物が有ったかどうかはその時には調査されていない様で、通常は一体の仏には一粒しか仏舎利が納められないから、空海が唐から持ち帰った仏舎利がこの仏には何と5粒も施入されたと云われるから、「法皇」で在った後鳥羽上皇の縁の仏で有るという可能性も高くなる。 その仏が「越中吉岡庄」の赤丸村に在った「総持寺」に運ばれて祀られたと云うのは、正に「吉岡庄」が後鳥羽上皇の「後院領」と呼ばれる天皇直轄の庄園だったからではないか? 仏像史の世界ではこの観音像が、「顔が能面に似ているから南北朝時代の作だ!」とか「国が国宝指定した時に1353年の作としたから--」とか云われ詳細の科学的調査もその後は行われていないが、この胎内銘に記載されている「正平八年御入」というのは、製作された年では無く、総持寺にもたらされた年とは考えられないのだろうか?ちなみに、河内金剛寺に残る古文書には、胎内に仏舎利が施入されたのは「建武二年」と記載されている。

■「能登一青庄」





■高岡市の「旧赤丸村」は吉岡庄53ケ村の鎮守の赤丸の浅井神社を中心として京都や奈良を模した都の文化が栄えた場所で、赤丸の「川人山鞍馬寺」に在った巨大な仏像は、今、井波別院瑞泉寺の宝蔵に客仏として祀られている。



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