赤丸米のふるさとから 越中のささやき ぬぬぬ!!!

「勧進帳」の真実、富山県高岡市福岡町赤丸村の消された歴史⇒「越中吉岡庄」から「五位庄」へ

🔴📚【信長公記】 「織田信長」による 越中の国人領主「石黒氏」・「寺崎氏」の殺害⇒岡山大学所蔵国指定重要文化財【信長記】(太田牛一自筆本)と江戸中期の歴史書「北陸七国史」(馬場信意 作)の記載!!

2021-04-18 | 旧町名 富山県西礪波郡福岡町赤丸



●【信長公記】
「織田信長」と「上杉謙信」の争いに捲き込まれた「越中木舟城城主 石黒氏」、「越中富山願海寺城城主 寺崎氏」の殺害の記録!!




■【北陸七国史】
畠山氏の居城「能登七尾城」は室町幕府足利一族の管領畠山一族が累代、居城とした。
「能登畠山氏」は越中、能登、河内、紀州等の守護を歴任した。
七尾城は、高岡市守山城城主神保氏張の兄の義則が家臣達に毒殺されてより不安定な状態が続き、温井、三宅、遊佐の各氏は上杉謙信に通じ、古くから能登を知行されていた長九郎左衛門尉連龍は織田信長に通じて激烈な争いに成って数回の戦闘も行ったと云う。神保氏張はこの畠山家から高岡守山城の神保氏に養子と成ったが、その母親は元々、上杉謙信の妹で在ったと言われ、弟も上杉謙信の姪と一緒に成って「上杉」を名乗っており、氏張の母親は父親が死亡すると、上杉謙信の家臣の「北条氏 キタジョウシ」に再嫁しており、神保氏張の家系は正に上杉謙信の一族で在り、一時期は上杉謙信の家臣名簿(※上杉博物館所蔵)にも載っていた。
しかし、織田信長は守山城の内紛で京都に放浪していた神保氏張を呼び出して越中への帰参を約束して、織田信秀の娘(※信長の妹)を妻に迎えさせたと云う。しかし、これを知った上杉謙信は激怒して信長を警戒した為に、信長は太刀や豪華な「洛中洛外図屏風」等を上杉謙信に贈って機嫌を取っている。
しかし、元々、神保氏張と共に動いていた「木舟城」の「石黒氏」は『上杉謙信と内通している』と疑われて、織田信長に呼び出されて、石黒左近以下32名が近江佐和山に来た時に丹羽長秀に襲われて十五名が暗殺されたと云う。次いで、越中の国人寺崎民部左衛門親子も佐和山へ呼ばれて丹羽長秀に預けられていたが、間も無く切腹させられた。
何故、石黒氏や寺崎氏が殺害されたのかは、詳しく説明している歴史書は少ないが、『北陸七国史』は、具体的に歴史的な背景も記している。









■【信長記】
「織田信長」は家臣の「惟住五郎左衛門(丹羽長秀)」に命じて、佐和山城に呼び出し、石黒一族の殺害を命じ、それを知らない石黒一行は七月六日、「木舟城」を出発した。この下りを「信長記」は短く以下の様に記す。
【七月六日、越中国木舟城主石黒左近、家老、石黒与左衛門・伊藤次右衛門・水巻釆女佐・一門三十騎ばかりにて上国。佐和山にて惟住五郎左衛門生害の儀申付けらるべきの処に、長浜迄参り、風をくり(いち早く様子を悟り)罷越さず。然る間長浜へ罷参じ、石黒左近町屋にこれあるを取籠め、屋の内にて歴々十七人生害候。惟住者も、二・三人討死候。 】と記す。
この時に「木舟城」にいた石黒左近の女(娘?)は神保氏張に与えられたと云う。加賀藩士冨田景周の著作「腱嚢余考 巻之八」には「而して信長公其の女を神保安藝守氏春に嫁せしめて、(此の時神保は越中守山の下古国府に移ると云ふ。)越中の守とす。」と記載されており、「神保氏張」が石黒氏殺害に何らかの役割を果たしていた事を窺わせる記述がある。

次いで、【七月十七日、越中の寺崎民部左衛門・子息喜六郎親子生害の儀仰付けられ候。】と有り、息子の「喜六郎」は未だ若干 十七歳で眉目・形尋常に美しく生立つ若衆であったが、最後の挨拶も哀れで、父親「左衛門」は「父親が先に行くのが当然」として腹をかっさばき、若党が介錯をした。その後、息子の「喜六郎」は父親の腹を切って流れる血を手に受けてそれを嘗めて「お供申す」と言って尋常に腹を切った。著者は「比類なき働き目も当てられぬ次第なり。」とその悲惨な状況を表現している。

⇒【越中国人 寺崎氏】
寺崎氏は越中国願海寺城に拠った国人で、能登畠山氏や神保氏に仕えていたという。寺崎盛永は上杉氏の勢力が越中に及んでくるとこれに臣従したが、上杉謙信の急死後、織田方へ寝返った。ところが天正9年(1581年)2月に上杉軍が来襲した際に、上杉軍に内通していたとの疑いをかけられ、5月4日未明、菅屋長頼の織田軍に居城を攻められ、家臣が内応して落城した。盛永と子息の喜六郎は捕らえられて近江佐和山城に送られ、7月17日、織田信長の命により切腹させられた。その様子は『信長公記』に詳しく、特に十七歳の喜六郎は美少年で、その最期は見事であったと太田牛一は書き留めている。なお、「上杉家文書」では5月中に能登で切腹させられたとしている。(※Wikipedia)







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