赤丸米のふるさとから 越中のささやき ぬぬぬ!!!

「勧進帳」の真実、富山県高岡市福岡町赤丸村の消された歴史⇒「越中吉岡庄」から「五位庄」へ

🔴🌸 【義経記】の「二位の渡し」の検証⇒権威まみれの歴史家に消された本当の「義経記」!!

2021-04-12 | 旧町名 富山県西礪波郡福岡町赤丸
🔻【義経記】は作文で在って、「歴史の検証には役に立たない」と嘘ぶく一部の歴史学者は、表面の薄っぺらな推測でこの判定を下している。中には、元々の、或いは「和本」で刊行されていた「義経記」を全く、或いは一部分しか読まずに判定を下しているケースも在る様だ。これらの学者は「学会」や「学歴の」の権威に隠れて、「定説」を持ち出し、貧相な「著作本」を根拠にして「偽の学説」を作り上げている。これらの学者は未熟な調査で「義経記は作文だ」と結論づけて民衆を惑わせている。まず、その時代の「歴史的な、政治的な背景」や「その地域に関係する人物達の人脈」等も知らずに「歴史を論ずる」等は最も歴史学者のやってはならない事だ。

■「源平盛衰記」の「倶利伽羅山(利波山)の戦い」、「安宅川の戦い」に参戦した「赤丸浅井城城主石黒光景」と長男で「越中木船城城城主石黒光弘」




■「義経記」に登場する倶利伽羅山の「五位堂」を発見!!
⇒改めて検証する「義経記」の世界。




■「義経記」では「倶利伽羅山の手向神に祈りして‥‥五位堂に一泊して五位庄の「二位の渡し」から舟に乗らんとして」関所の役人に怪しまれた為に、弁慶は義経を扇子で打擲したとされる。これが、「勧進帳」の原点だが、実際には弁慶は一人で加賀の富樫屋敷に東大寺復興の勧進と称して出向いており、この二つの話が「勧進帳」の場面を構成している。
「義経記」では「五位庄」と成っている所から、室町時代に記されたものとされ、時代背景も室町時代の背景が混ざり混んでいる為に、「義経記」自体が「偽物」と評価されて歴史の検証には役立たないとする学者もいる。しかし、そのルートは実に正確で、実際に旅をした者で無いと分からない事が含まれている。
現在、倶利伽羅山の「手向神」は山頂に在る「倶利伽羅不動尊」の境内に鎮座しているが、「五位堂」については地元でも知る人は少ない。地元の古老に訪ね歩いた所、農作業をしていた90才位の老人から「昔は五位堂と言う古い社が在ったが、現在は跡形が無くなり、その旧地の小山は土も取られて農地に成っている。」と云う。その場所は、倶利伽羅山を小矢部市蓮沼に向けて下りる途中の山林の間道の途中に当たり、普段は人も通らないと云う。当時は御堂も在ったと言うから、間道とは言え地元民が使用していた脇道で在ったと思われる。その辺りを調査していると老女に会い、聞けば、「昔、この辺りの小山の上に在った御堂は取り壊されて麓の神社に移設されたと聞いている。」と云う。その神社は分からないが、兎も角、近くの神社を当たって見た。しかし、どの神社にも「五位堂」の看板や記載は無かった。改めて古い「富山県神社誌」を調べると、倶利伽羅山の麓の「日枝社」に合祀されたらしい記載が在り、現地を確認した所、鎌倉から室町時代にかけての「五輪塔」の部品が多数、裏山に打ち捨てて在り、中には土に埋まっているものもある。追って、小矢部市教育委員会やこの神社関係者にも確認したが、誰もこの事を知った人は居なかった。「木曽義仲」で歴史を売り物にしている「小矢部市」ですらこの有り様だ。

■「越中川人山鞍馬寺三社誌」(※「部分」福岡町史)




■「延喜式内社赤丸浅井神社由緒」






■「二位の渡し」が在ったと見られる「阿光ケ淵」で小矢部川と庄川が合流していた。
「赤丸浅井神社古墟図」(※「森田柿園文庫」石川県立図書館)


「六渡寺の渡し」(※「如意の渡し」)が記載される古図(※「福岡町史」南砺市庄川町に伝えられた古い小矢部川河川図)


■又、近年出版された「義経記」の解説には、「如意の渡しとは五位の渡し」とか、「如意の城とは五位の城」と解説されており、「如意の渡しとは小矢部川の舟下りルートの事」とも解説しているものも在る。ここで云う「五位の城」とは明らかに「延喜式内社赤丸浅井神社」の隣接地に在った「赤丸浅井城」の事に他ならない。この古城については奈良時代から在った古城で在ると加賀藩の初期の歴史書「肯搆泉達録」にも記載されている。又、加賀藩の歴史家「富田景周」は「赤丸浅井神社」の創建が「養老年間の元正天皇の時代」で在る事にも触れているが、「越中川人山鞍馬寺三社誌」等の古記録を実際には読んで居なかったらしく、この由緒に懸念を示している。しかし、「三社誌」に拠ると、この神社は「文武天皇の二宮」の中興で在り、「養老律令」等を確認すると、文武天皇の姉で親代わりの「元正天皇」がこの人物を「親王とする」と宣言し、「継嗣令」(※「令義解」)を発布された事が分かる。
従って、この「二宮=二位の宮」は系図では、蘇我石川氏の「石川朝臣広成」に該当し、「越中国司大伴家持」と共に若き頃に「恭仁京」で「内舎人」と云う官職に就いていた事が分かる。この人物は「聖武天皇の腹違いの弟」に当たり、浅井神社配下の高岡市高田島の「五位荘神社」は「聖武天皇の勅願所」と言う由緒も持っている。
「義経記」では「二位の渡しより舟に乗らんとして」と「二位の渡し」が登場するが、この渡し場こそ「延喜式内社赤丸浅井神社」の前の渡し場と言う事になる。元々は「藤原摂関家長者藤原頼長」の庄園で在ったが、「保元の乱」以降は「後白河上皇から後醍醐天皇迄、上皇や天皇直轄領で在った事」と、室町時代には「室町幕府第三代将軍足利義満」以来、足利家菩提寺の「相国寺」・「等持院」・「等持寺」の庄園として続いた事から、長く、日本の最高権力者の庄園で在った為に、一般にはその実情が知られて居なかったと見られる。ましてや、「赤丸浅井神社」の別当「川人山鞍馬寺」は、「後白河上皇」の皇子が初代門跡となられて以来、天皇の皇子が門跡と成られた「門跡寺院聖護院派」で在り、その格式は世間から遠い存在で在ったと見られる。従って、外部の者がこの「三社誌」を目にする機会は無く、この「三社誌」の全文が公開されたのは近年、「福岡町史」の編纂に当たられた赤丸浅井神社神官「川人貞現氏」に由ってで在る。この「三社誌」は「秘書」として長く非公開で在り、氏子や総代も目にした事がなかった。加賀藩には「神社由緒」として報告していた様だが、まさか、この地域にその様な歴史が在った事を知らない加賀藩士「富田景周」すらこの「川人山三社誌」を否定して「越登賀三州誌」に発表している。偽書の「高岡市史」では全て加賀藩の資料に基づいて歴史を構成している為に、「高岡市史」では赤丸村の歴史については調査すらせずに否定的で在る。その点で、寧ろ「義経記」の著者の方が地理や寺社の由緒等㊙の資料も調査する等、「赤丸浅井神社」の真実の歴史書である「川人山三社史」に精通していた様だ。「義経記」の著者は不明とされているが、知り得ない史実を知り、この場所が「後白河上皇」の庄園「越中吉岡庄」で在った事も知り、この庄園が「上皇」の直属の「院庁」が直轄していた事や、源頼朝の家臣の「地頭成佐」が配置されていた(※「吾妻鏡」)事等の幕府の情勢も知っていた事、「後白河上皇」の皇子の「守覚法親王」が密かに「源義経」を支援していたと言われる事、「門跡寺院聖護院末寺の三社権現川人山鞍馬寺」、「延喜式内社赤丸浅井神社」が「元正天皇の二位の宮(聖武天皇の弟)」が創建された「赤丸浅井神社」の由緒等知り得た人物➡即ち、京都の事情に明るい「門跡寺院聖護院」の関係者か、現地の事情に明るい「赤丸村」の「川人山鞍馬寺」の「本山派修験者」等がこの「義経記」の著者で在った可能性が高い。この時期の「修験者」は、鎌倉、京都、北陸道、奥州等の全国ネットの情報網を持ち、高度なレベルの文字を使いこなしており、相当の知識人で在ったと見られる。「義経記」では、【「五位庄」の「二位の渡し」】が登場する為に、「(室町幕府御粮所の)利波郡五位庄赤丸村」として室町時代に登場する「延喜式内社赤丸浅井神社」や「赤丸浅井城」がある【五位庄】の記載から、歴史家達は「義経記は室町時代の作品である」とし、「守護の館が近ければ(義経主従)を見逃せない」と言う「二位の渡し」での渡し守のセリフから、この「守護」は【南北朝の騒乱後、高岡市の「守護町」に拠点を置いた足利一門の斯波氏の事である】として、この「如意の城」、「二位の渡し」、「如意の渡し」は高岡市二上の「古国府城」の麓に在った「二上の渡し」、「六渡寺村」の舟乗り場の事であると結論づけた。これは加賀藩恩顧の加賀藩士で歴史家の「富田景周」や「森田柿園」等、「前田教」とも言える熱烈な「高岡市」の関係者等がでっちあげた「歴史」で在り、知り得た狭い情報のみから、【「義経記」の「二位の渡し」での事件は、「近くに守護町がある高岡市の古国府城」の麓の「如意の渡し場」の事件で在り、「五位庄」と記載される事から「室町時代の作品」である】と結論づけた。しかし、鎌倉時代の古文書を集めた「鎌倉遺文」に拠れば、この頃は「越中石黒氏」が「二上庄」の守護代として小矢部川河口の地域を統治していたとされ、「義経記」では「平権守」と記載される「渡し守」も、「川人山鞍馬寺」の寺侍に「権守」が居た事が「川人山鞍馬寺三社誌」に遺されている。「義経記」に記載される「五位庄」も後世になってこの文字が使用されたもので、南北朝時代末期の「花営三代記」(※「群書類従」塙保忌一)の「五位庄の戦い」では、実際は「後いのしゃう」と記載されており、これは「後白河上皇」から「後醍醐天皇」迄続いたと言う「後院領越中吉岡庄」の事で在り、「後院領」は室町時代に「足利義満」が「五位庄」を「相国寺」へ寄進する迄は、「後いのしゃう」、「おいのしゃう」、「後いの庄」等と記載されており、「相国考記」(※相国寺の記録「万山編年精要」)では初めて「五位庄」と記載されている様だ。従って、「義経記」の「後いのしゃう」も本当は「後院領」を指している。
これらの事実から、「義経記は南北朝期に記載された」とする根拠は崩れて、「義経記」は遅くとも南北朝時代末期迄に、「聖護院派本山派山伏」によって記載された可能性が高いと言える。
尚、「義経記」に登場する「如意の城を後にして・・・」の記載は、「赤丸浅井神社」の隣接に在った「赤丸浅井城」を指す。奈良時代に聖武天皇の弟(※元正天皇二宮➡実は「文武天皇」の「二宮」で在り、「元正天皇」は育ての親とも言える「文武天皇の姉」の事)が在城されたと言う古城で、南北朝時代には「後醍醐天皇皇子宗良親王」が入られた「越中石黒氏の居城」で在り、室町時代には「越中守護畠山持国」の居城(守護代が在城)で、室町時代末期には「中山氏」が入り、「能登末森城」で「前田利家」と戦っている。(※「続日本紀」、「兵範記」、「川人山三社誌」、「浪合記」、「東寺百合文書」、「福岡町史」、「越中石黒氏の研究」、「肯搆泉達録」、「富山県西礪波郡紀要」、「宗良親王」、「末森記」)

















🔽「大阪府羽曳野市資料叢書」に記載される「畠山文書」の「越中絵図」には、「赤丸浅井城」に「(越中守護)上分畠山持国」の記載がある。この時には、「越中守護畠山持国」は「越中国」には常住しなかったと伝わり、「守護代」が入っていたと言う。「越中国五位庄」は、足利一門の菩提寺の「相国寺(金閣寺)」、「等持院」、「等持寺」の庄園として続いた。





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