赤丸米のふるさとから 越中のささやき ぬぬぬ!!!

「勧進帳」の真実、富山県高岡市福岡町赤丸村の消された歴史⇒「越中吉岡庄」から「五位庄」へ

🔴🅾 「越中吉岡庄(赤丸村)」と後醍醐天皇の皇子「宗良親王」⇒加賀藩が捏造した「越中の歴史」 !!

2021-02-03 | 旧町名 富山県西礪波郡福岡町赤丸
■「後醍醐天皇像」






■昭和十三年、南北朝時代の後醍醐天皇の第八皇子「宗良親王」研究についての第一人者「川田順氏」は「宗良親王」を著された。川田氏は「宗良親王」が著された「李花集」について「吉野朝の哀歌」を発刊されて、その詳細を解説された。







■赤丸浅井神社の川人貞良神官(昭和16年没)は高岡総持寺の千手観音像が昭和12年に国宝になった時に、宮内省や歴史学者が赤丸村を調査した時に、資料調査、現地調査に中心的に協力された方で、南朝の長慶天皇(後醍醐→後村上→長慶天皇)の史跡調査も御手伝いされた。その著作「長慶天皇の御事跡」で、宗良親王が著された「李花集」の研究もされているが、通説とされている「牧野の御遺跡」や、親王の歌とされている次の歌については、
【「思ひきやいかに越路の牧野なる 草のいほりに宿からんとは」との御歌は射水通覧をはじめ諸書に見えているが、新葉集にも李花集にも載っていないもので、実は宗良親王の御歌ではないのである。そればかりではない。射水通覧をはじめ諸書に載する牧野における親王の御遺跡というは何れも徳川時代末期に虚構されたものである。】と記載されている。親王の歌で、牧野で詠まれた歌があり、牧野を経由されたとしても、牧野で宿舎が創建された証拠はない。親王の住まいを埋めたと伝わる「樸館塚」なる遺跡も、せ当時の習慣として果して建物を埋めたと云う事は信じられない。当時は木材が貴重で、古い文化財の建物は殆どが旧い建物部材を使用している。しかも、伝えられる様に「荒削りの黒木の舘」が建てられたとしても、「黒木の舘」自体は上皇や天皇が島流しになった時の粗末な屋敷の事で、後醍醐天皇の皇子がワザワザ粗末な掘っ立て小屋を宿舎とされるよりも、後醍醐天皇の庄園「越中吉岡庄」の赤丸村には石黒氏の居城「赤丸浅井城」や「赤丸浅井神社」周辺には「川人山鞍馬寺」の7つの塔頭寺院や「総持寺」、48坊も在ったと言う寺院群が集積していた事から、どれかの施設に宿舎を設けられた可能性の方が高い。むしろ、親王の住まいとされた施設の部材を転用して極楽寺を創建されたと言うのなら信憑性がある。 とすれば、「越中宮極楽寺由緒」にある様に、住まいの近くに極楽寺を創建されたとすれば、寧ろ、石黒氏が父君後醍醐天皇の庄園「吉岡庄」に屋敷を建てて御迎えし、その近くの極楽谷に仮住まいの建物を移設して「極楽寺」とされたとすれば、理解しやすい。総持寺の背後の赤丸城ケ平山には「親王屋敷跡」と伝えられる場所も残されている。親王が数度に亘り信州との往復の際に吉岡庄に立ち寄られたとすれば、その時にこの「親王屋敷」が利用されたのかも知れない。親王は南朝の支援を求める為に精力的に転戦されており、「吉岡庄」以外の牧野や佐野の宿舎はその巡行の際に使用された宿舎とも考えられる。高岡市の「越中宮極楽寺由緒」には、「極楽寺は五位庄に在った」事と「高岡の曳き山祭りの車は宗良親王が巡行の時に使用された車を転用したもの」と記載される。後醍醐天皇の庄園「吉岡庄」(※赤丸浅井神社は吉岡庄の郷社)には越中石黒氏の居城「赤丸浅井城」が在り、常に赤丸村は戦闘体制に在った。従って、親王が滞在されるとすれば警備も完全な吉岡庄に宿舎を設けられたとする方が筋が通る。何しろ親王は興国三年に寺泊から突然、海路越中に入られて、興国五年迄の短期間の在留であれば、工期的にもその短期間に寺院は建たなかったとする方が筋は通るだろう。この辺りの伝承も、何とか赤丸村に在った事を伏せる為に加賀藩が考えたとも考えられるのだ。現に「高岡市史」等でも「越中宮極楽寺由緒」の詳細には触れていない。この由緒自体が高岡市博物館が近年購入する迄、存在認識すら無かった様だ。

●興国三年(1342年)宗良親王が後醍醐天皇の庄園越中吉岡庄に入られる。

●正平八年(1353年)河内金剛寺から吉岡庄(赤丸村)の総持寺に「木造千手観音座像」が伝来する。(※後醍醐天皇、東寺長者文観が胎内に東寺の仏舎利5粒を施入)





■「宗良親王」では、越中で親王を迎えた「越中石黒氏」について触れられている。親王を迎えた石黒重之は福光城、木舟城、赤丸浅井城を拠点として南朝の支援を行った。親王は興国三年に越中に入られて興国五年には信濃に向かわれ、越後、武蔵、遠江、三河等を転戦し、後村上天皇が崩御されて長慶天皇の御宇、文中三年冬、三十七年目にして漸く賀名生の行宮に入られた。その間、数多くの歌を詠まれて、越中でも多くの歌を残されている。その中で、「名古の浦」で詠んだ歌等が在る中に、「おぼつかな いかなる 山ぞ み吉野の 奥だに人のつてはありしを」と三十一歳の時に越中で詠まれた歌がある。加賀藩の研究者はこれ等全てを「名古の浦」で詠まれたとして、浅井城の近くの城ケ平に在ったとされる「親王屋敷」や「赤丸浅井城」の歴史を否定して来た。この歌は明らかに山中で詠まれたもので、「吉野山」は大木の桜の花が咲き誇った赤丸村の浅井城一帯を指したもので、海沿いの牧野の地では無く、「京の雅を移した後醍醐天皇の庄園の吉岡庄」で詠まれたものに他ならない。浅井城の周辺には一条天皇の勅使が御手植えされたと云う老木の「勅使桜」が咲き誇って居た事を指している。赤丸浅井城は「宗良親王」にも記載される様に、越中石黒氏の塁代の居城で在り、石黒系図に因れば、浅井城城主石黒光景は木舟城を居城とした石黒光弘の父に当たる。牧野を含む旧高岡市内(二上庄)は鎌倉遺文にも記載が在るが越中石黒氏が地頭をしていたのだ。浅井神社神官の川人貞良氏がいみじくも指摘された様に、越中の歴史は全て加賀藩の色眼鏡で脚色されている事を忘れてはならない。全ては南朝の牙城の赤丸村の歴史を消そうとした加賀藩の政策に他ならない。
(※現在の天皇系は北朝の末裔に当たる。)



■【信濃宮伝】と言う書には「興国六年越中へ、翌正平元年信濃へ帰り賜うた。同四年上野国新田庄寺尾城に赴き賜う。」と記載され、その後も「武蔵国、小手指原、碓氷峠、諏訪と転戦して、上野、信濃の間に十余年を送り、尾張犬山、伊勢から吉野に戻り後村上天皇の仏事を済ませて再び信州へ、文中三年興良親王京都にて薨去の時に親王は又、吉野に詣り賜うた。天授三年冬信州へ御下向の時に大和長谷寺にて剃髪。信濃宮の味方が皆背き頼みとする味方が居なく成った為に五年には吉野に逃れ、それからは河内国山田庄に御閑居あらせられた。弘和元年十二月、新葉集を撰びて後、重て遠江に下り、終に井伊谷に薨去、御年七十三と承る。方廣寺の無文和尚御葬儀の事執行せられ、冷湛寺殿と申上ぐ。」と記載されると紹介して、宗良親王が終生、全国を転戦された事を示されている。
従って、吉野と信州の途中の越中には一度限りでは無く、再三に亘り立ち寄られた可能性が有り、長期間に亘り、越中の諸将は宗良親王を支えて居たものと見られる。
越中の郷土史家はこの事も知らずに、興国三年に一度だけ越中に入られたとする観点から歴史を紡いだ為に、様々な矛盾に充ちた歴史を主張している。

(※高岡市博労町に在る「越中宮極楽寺」は、極楽寺由緒によると五位庄(赤丸村)に在ったと記載されているが、「高岡市史」等は旧高岡市内の守山に創建されたとしている。恐らく、「極楽寺」は南北朝時代に「後醍醐天皇」の皇子「宗良親王」によって赤丸村極楽谷に創建されたが、室町時代に「足利義満」が「五位庄」を臨済宗「相国寺」へ寄進した為に「守護畠山持国の館」の「赤丸浅井城」付近から全ての他宗派が追放された事を指していると見られる。「畠山文書」に拠れば、室町時代には「五位庄」の範囲が現在の「守山、六渡寺村」迄含んでいた。高岡市の歴史は加賀藩時代以前の歴史が全て欠落して、「1600年以前に高岡市の歴史は無い」と高岡市幹部が公言している事から、現在、高岡市域に入っている【「高岡市守山」に初めて創建された】と捏造したものだ。「高岡市史」は全ての「赤丸村」にの歴史を抹殺して赤丸村から移転した「総持寺」や「極楽寺」等の創設が全て「高岡市域で創建された」と捏造している。
又、「高岡市」の名称は【富山県大百科辞典】(※富山新聞社版)に拠ると、「高岡は元々、赤丸村に在った総持寺の山号であったが加賀藩に取り上げられ瑞龍寺の山号として付けられた」とされている。高岡市の「曳き山祭り」の由緒についても「極楽寺由緒」とは全く異なるデタラメが書かれている。)




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