赤丸米のふるさとから 越中のささやき ぬぬぬ!!!

「勧進帳」の真実、富山県高岡市福岡町赤丸村の消された歴史⇒「越中吉岡庄」から「五位庄」へ

🔴🔸越中の「蘇我氏」と「延喜式内社 赤丸浅井神社」の成立 !!

2021-04-13 | 旧町名 富山県西礪波郡福岡町赤丸




■富山県の「礪波郡」は越中の古代氏族「利波臣」(トナミノオミ)から名付けられた。「石黒系図」に拠れば、奈良時代に越中の石黒荘開発の為に派遣された藤原氏の一族「石黒氏」が、越中の古代氏族の「利波臣」と藤原利仁将軍の末裔とされる「加賀の林氏」の名跡を継いで越中に強力な地盤の武力集団を築き、越中国の砺波郡を領有した。「利波臣」は蘇我氏末裔を名乗り、一方、「赤丸浅井神社創建」と伝わる「文武天皇の二宮→石川朝臣広成」も臣籍に降下して母親の実家の「石川」を名乗った。この「石川」は蘇我氏が「乙巳イッシの変」以後、蘇我氏を名乗るのを控えて「石川」と名乗った事に始まる姓で有り、蘇我氏の「利波臣」の勢力圏に、同じく蘇我氏の「石川朝臣」が浅井神社を開設しており、「続日本紀」でも「石川朝臣」と「利波臣」は同じ時代に越中で活躍している事から、この両者は「赤丸浅井神社」を核にして密接な繋がりが在ったものと推定される。「利波臣」の末裔を名乗った「石黒氏」は南北朝の頃、「石川朝臣広成」がかつて居城とした「赤丸浅井城」を再建して「木舟城」「福光城」と共に砺波郡統治の拠点にしていたと言われる。





富山県の礪波郡を西礪波郡と東礪波郡に分けた。(※明治29年3月29日)



■【※当地は、古くは「利波郡」であったが寛文十一年に郡名の改正が有り、越中の「利波郡」を「礪波郡」と改名している。】 








■「藤原氏の系譜」
中大兄皇子と中臣鎌鎌足は蘇我氏の専横を阻む為、大極殿で蘇我入鹿を殺しその父の蝦夷を自決させた。中大兄皇子が天智天皇として即位すると中臣(藤原)鎌足を寵愛して藤原氏の姓を与え、最高の官位を与え、自らの女御を与えた。中臣氏は「新選姓氏録」に拠れば物部氏の一族で石上氏の流れを汲み、曽根連、長谷部造、高橋連、秦忌寸、額田臣、熊野連、阿刀連、宇治宿祢、内田臣、采女朝臣、物部肩野連等111種にものぼる一族が有ったという。
(物部氏は大伴氏と共に雄略天皇の時代には軍事を司る一族で勢力を誇っていたが、その後、蘇我氏の台頭で劣勢に立たされていた。大伴家持はその歌の中で「物部」を「もののふ」と詠んでいる。)

中臣連遠祖は「大鹿島」と呼び、常陸の鹿島大社に祀られて、その後、奈良に勧請されて「春日大明神」となり、更に京都の吉田に勧請されて「吉田神社」になったと云う。(※「大鏡」)

 
■「蘇我氏の系譜」
 武内宿祢を祖とする蘇我氏は長く朝廷に仕えて権力を握り、次第にその専横が目に余るようになった。元々、蘇我氏は百済の官僚の「木満致」が五世紀末に渡来し奈良県橿原市の曽我に住み蘇我氏となったという説があり、この「木満致」から「木氏」=「紀氏」になったのではないかという説がある。後に蘇我氏は「石川氏、礪波氏、射水氏、八代氏、紀氏、江沼氏、三国氏」等の多くの氏族として広がり、越中の砺波郡では東大寺の荘園を開き、東大寺の大仏建立の為に米3000石(✳「東大寺要録」では5000石ーセキと呼ぶ重量の単位で1石=31kg。現在の約1000石ゴク。当時の価値として3億円強。)、庄園100町歩を寄進した利波臣志留志の末裔の越中の「石黒氏」もその一族である。蘇我氏は後の越中、越前、加賀地方に多くの氏族を生み、富山県の西部の広範囲な地域には最近まで「東砺波郡、西礪波郡」「射水郡」等の地名が残り、加賀では「石川郡」「石川県」「江沼郡」等として、福井では「三国市」等の名が残っている。(※「古事記」掲載の系譜では「利波臣」の方が「蘇我氏」の代よりも古く記載されている。ここでは「利波臣」は「武内宿弥」の末裔の蘇我氏とされるが、「古事記」では、同族では有るが「彦刺肩別命 ヒコサシカタワケノミコト」の子の「高志利波臣」の末裔とされる。「石黒系図」に拠れば、元々藤原氏の一族が加賀の林氏の娘と婚姻し、更に「利波臣」の名跡を継いだ為に、石黒氏の系統は武内宿弥の末裔の「蘇我氏」を名乗ったり、「藤原氏」を名乗ったりしている。「利波臣」は「臣 オミ」が着いている事から皇室の末裔を表し、「藤原氏」は「天智天皇」の子で「中臣鎌足」に与えられた「藤原不比等」の末裔しか勅令で名乗れなかった。《⇒一時期、中臣氏も藤原氏を名乗ったが元明天皇は神事を司った中臣氏は復姓して、不比等の末裔だけに「藤原」と名乗る事を許した。》しかし、藤原氏は位では元々神事を司った中臣氏の職能集団の「連 ムラジ」で在った事から藤原氏も基本的には「連」を名乗った。)⇒(※「大鏡」)


■「藤原氏と蘇我氏」
藤原不比等は文武天皇に娘の「宮子」を嫁がせ、宮子は聖武天皇(首皇子)を生んだ。又、不比等は聖武天皇を様々な策略を駆使して皇位に就けると、更に娘の「光明子」をその妃とした。この一連の流れの中で、藤原鎌足の子の藤原不比等(実は天智天皇の子供)は、文武天皇の残した蘇我氏系の出自である石川氏と紀氏の二人の嬪を「不義」を理由とした貶黜事件ヘンチュツジケン(貶める事)を起こして朝廷から追放し、首皇子の即位に妨げとなる石川刀自娘の子の「石川朝臣広成」も同時に臣籍に降下させた。文武天皇の後は、首皇子が幼少であった為、祖母の元明天皇、続いて文武の妹の元正天皇が即位し、元正天皇の時に詔を発して「聖武天皇」を皇位に就けている。
 ※元正天皇は「天皇の子は全て親王とする」と勅令を出し、この追放された子にも「石川朝臣」と賜姓して聖武天皇の側近の「内舎人」とした。「続日本紀」によると、この「石川朝臣広成」は後に各地に転勤して「高円朝臣広世」と更に賜姓されている。



■「赤丸浅井神社由緒」
赤丸浅井神社の由緒には「越中川人山三社記」の中に
「元正帝時有王子二人不知何帝子名一宮二宮分五畿七道為二省西三十三國者一宮治之東三十三國者二宮有之 中畧 親王亦奇之養老元年某月日下令郡縣立社旦營奉祠七宇 中畧 春秋之釋菜 俗云千石百貫祭籍其村落之税餘以時勿怠祭祀之禮也 下畧」と有り、「元正天皇が二人の皇子にそれぞれ東西33か国づつを治めさせた」と記載されている。
加賀藩士富田景周著の「三州誌故墟考」の中には 
「元正帝養老元年同帝ノ二宮御下向此ニ在城シ川人山鞍馬寺ヲ建立ス 加茂 山王 八幡ノ三社ヲ勸請シ別ニ又毘沙門天ノ一社ヲ安置アリ 今ノ赤丸ノ鞍馬寺即チ其旧地ト云フ」と記載されている。つ
この記載から、元正天皇は女帝で子供は無く、聖武天皇(首皇子)の母代りでも有った事から、「元正帝二宮」は明らかに石川刀自娘の子の「石川朝臣広成」の事を指している。元正天皇は美濃(岐阜県)に行宮を持ち、著名な「養老の滝」も元正天皇の命名と伝わる。美濃は飛騨を越えれば越中であり、中部地区に元正天皇の足跡も残っている。赤丸浅井神社には白山を開いた泰澄大師が庵を結び、天皇の御健康を祈ったとも伝わり、伝わる所に拠れば、赤丸浅井城を居城とされた石川朝臣広成親王が赤丸浅井神社で天皇の御健康の回復を泰澄に祈願させられたと云う事らしい。「石川朝臣広成」が実際に越中の浅井に赴任したかは記録が無いが、大伴家持と同時に万葉集に3首の和歌が掲載されており、大伴家持も石川広成親王も若い頃に京都と奈良の間に在った「恭仁京」で「内舎人」として勤務している事から二人は知人で在ったと思われる。一族の石川豊成は高岡市郊外に荘園を持ち、石川豊人等の国司が越中に赴任している所から越中は石川一族の勢力範囲であったと思われる。越中の名族の利波氏、射水氏は竹内宿彌を祖とする蘇我氏同族と云われ、正に赤丸浅井神社は蘇我氏のエリアに蘇我氏の氏神として祭られたものと見られる。蘇我氏と琵琶湖の周辺に展開していた古代氏族の和珥氏は密接であり、赤丸浅井神社の祭神として和珥氏の一族の「行基」により琵琶湖に縁が有る「八河江比賈神」が祀られたのもこの辺の理由が考えられる。琵琶湖の周辺は古代氏族の浅井氏が繁栄していた事から「琵琶湖に縁の有る浅井氏の神」を祀った事から「浅井神社」と呼ばれたものか?石黒氏(利波臣志留志)の祖の武内宿祢は応神天皇に仕え、北陸方面を巡幸したと伝える。応神天皇が即位前に「ホムタワケ」と呼ばれた時には近江と若狭をめぐり、敦賀に仮宮を造って滞在し、気比神宮に参篭したと伝え、琵琶湖方面にも関係の深い人物だったようだ。 赤丸浅井神社のすぐ山裾をその当時は小矢部川が流れ、すぐ前で庄川と合流して「阿古ガ淵」と呼ばれる広大な葦原と深みが広がっていたと伝える。その為に、水神の「八河江比賈神」(名義は「多くの川の江の巫女」)(別名 葦那陀迦神 と呼び、葦原の神を意味する)を祀ったものと考えられ、又、行基の一族の和珥氏には、応神天皇の妻となった「宮主矢河枝比売」という人物が現実に存在していたと言う。その後、皇室の重要な神である「高皇産霊神」(タカミウブスナノカミ)が勧請されたが、この神は大伴氏の氏神でも有るという。この神は天照大神の下で地上に諸々の神を下した神であり、天地創造の根幹に関わる重要な神とみられる。「続日本記」に拠れば、この「高皇産霊神」は「岩」に降霊するとされ、赤丸浅井神社の御神体は「阿古ケ淵」から上がった「岩」で有ると言われている。又、越中に縁が深い「佐伯氏」も大伴氏の一族であり、その所以から、佐伯氏から出た空海の「真言宗」を奉じる両部神道の川人山鞍馬寺と赤丸浅井神社がこの地域に立地したのかも知れない。

●【行基】; 六六八年(天智七年)生れ
赤丸浅井神社は行基が開き、白山を開いた泰澄大師が寺内に草庵を結んだと云う伝承が有る。
行基は百済系渡来人の和珥(わに、王仁:千字文で漢字を伝えたという)の子孫。父の高志氏はもと越氏(越史)と称し越後の出身という。東大寺大仏の造営に尽力し、四十九カ所の寺社を建て、各地で資金の勧進を行う。和珥氏には一族に十五代応仁天皇の后の宮主矢河枝比賣(古事記)がおり、その長女は仁徳天皇の后。和珥氏が社家を務める神田神社は滋賀県大津市真野町にある。和珥氏の同族に春日、物部、柿本、小野、山上、栗田、大宅、高橋等の一族在り。大国主神の孫、国忍富神の妻に「八河江比売神」がおり近江国浅井郡には古くから矢合神社、矢川神社で水辺の神として祀られている。海神の神使いである和珥氏が「ワニ」を名にしている水神としての性格があり、一族の宮主矢河枝比賣と八河江比賣命の関連も考えられる。両者は共に近江浅井郷に関係しており、近江浅井郷の神が祀られている事から赤丸の浅井神社は浅井の神というのか。[※「神明帳考証」度合延経(高岡市史参照)]

●日本武尊(ヤマトタケル)と浅井神社
和珥氏の一族の熱田神宮の尾張氏と日本武尊(ヤマトタケル)とは縁が深い。和珥臣の始祖は観松彦香殖稲天皇(孝昭天皇)の長男の天足彦国押人命で天足彦国押人命の母は孝昭天皇の皇后の世襲足媛(尾張連の遠祖瀛津世襲の妹)という繋がりが有る。日本武尊(ヤマトタケル)はクマソタケル、イズモタケルを倒し、さらに東国を平定した帰途に尾張の熱田神宮に「草薙の剣」を預けている。行基の祖の和珥氏は、応神天皇の祖母の系統にも当たり、応神天皇は「八幡神」と同一とされる。神仏習合時代には「八幡大菩薩」とも呼ばれた。赤丸浅井神社の三社権現の一社に「舞谷村八幡宮」が有り、応神天皇が祭神で有る。「日本武尊」の像が赤丸浅井神社の境内の赤丸公園に築造されたのも応神天皇-日本武尊の繋がりを示している。武内宿禰は孝元天皇の曾孫に当たり、日本武尊は孝元天皇の後の5代目、応神天皇は7代目となり、武内宿祢、日本武尊、応神天皇は同族という事になる。これらの関係から武内宿祢の子孫の石黒氏と応神天皇(八幡神)、日本武尊は繋がりを持っている。石黒氏の祖の礪波臣志留志が盛んに東大寺の荘園を開発していた砺波郡にその縁者の行基が応神天皇とも縁の強い琵琶湖の神「八河江比賈神」と応神天皇(八幡神)を祀り、後の世に日本武尊の銅像が建立されたものだろう。

尚、「加賀」という名前にも「日本武尊」との関係が有り、石川県神社庁の説明では石川県河北郡津幡町加賀爪(カガツメ)にある白鳥神社には「(白鳥神社縁起)加賀国加賀爪村本居白鳥大明神は尾張国熱田神宮同神にして日本武尊の神霊也、越の地より白鳥を獲献る故に詔して其地において彼皇子の神霊を祭祀し白鳥の神と號す 此即加賀国加賀郡加賀爪村の本居と斎祀奉る白鳥大明神なり」と有り、伝承では、「日本武尊東夷征討の後この国に到り 国人 尊の軍に馳せ加り東夷征討の偉業を賀す 加賀の名義ここに始まった」とも伝える様だ。 (※加賀郡は後に河北郡と呼ばれた。)

「乙巳イッシの変」で蘇我蝦夷・入鹿の父子が誅殺された後に、中大兄皇子に協力した蘇我石川痲呂の末裔は蘇我氏嫡流となり石川を氏として石川県にその後裔が繁栄している事から、この白鳥神社も蘇我氏の祖の武内宿祢にも連なる日本武尊を祀る蘇我氏の氏神だったのかも知れない。「日本書紀」には日本武尊の「白鳥陵」には遺骸がなかったと記載されている事から、日本武尊と武内宿祢は同一人物ではないかとの説も有る。ちなみに、日本武尊の誕生年は景行紀27年に16歳とあるので景行12年(昔流の数え年換算)生まれと読み取れ、一方、武内宿禰は景行3年条に、父武雄心命(タケオゴコロノミコト)が9年間紀国(きのくに)に留まって生ませた子とあり、単純に足し合わせると景行12年となる---として、同一の年齢、同一の人物ではないかとする意見も有る。実際は日本武尊の東征のルートに北陸は入っていないので、北陸に関係の深い武内宿祢の伝承かもしれない。



■浅井神社
元正天皇の時代、小矢部川が流入していた「阿古ガ淵」で神像を得て当地にこれを祀り養老七年(七一七年)には七堂伽藍が建立されたと云う。  (※「宝永誌」「貞亨二年寺社由緒書上」)

■「浅井郷の神」を祀る神社として「浅井神社」と呼んだと思われる。五位庄一帯を勢力下に置いていた利波臣志留志は琵琶湖近くの角鹿海直ツヌガノウミノアタイ(敦賀の豪族)を祖とすると云われ、角鹿海直の信仰とも一致したのではないか?(※「古事記」に拠れば角鹿海直は高志の利波臣の弟とされている。)
は利波臣志留志は琵琶湖周辺にルーツを持つ和珥氏の一族とも云われる行基に心酔して、琵琶湖周辺の浅井郷の「矢合神社」に祀られている「八河江比売神」を勧請したものか?「矢合神社」には「八」から来たものか「矢合わせの神事」があったと伝え、「矢合わせ」とは古代の戦争では戦闘開始の時に先ず相手に向かって矢を放つのがその合図だったと云う。「八河江比売神」は「矢合わせの神」とも考えられていたものか?後には「戦闘を開始する」事から変じて「農作業を開始する時の神事」とされた様だ。浅井神社が創建された頃、高志の国は原住民の蝦夷と呼ばれた人々との戦闘の最前線で有り、大伴氏とその同族の佐伯氏は蝦夷対策で軍事を掌握していた為、佐伯氏は占領した蝦夷を朝廷から賜って越中の戦闘集団として使役していた事が古書に記されている。赤丸浅井神社の祭神は「水辺の神」であると同時に「戦闘の神」でも有り、浅井神社の周辺に残る「谷内 ヤチ」「寺谷内 テラヤチ」という言葉は元はアイヌ語であったと云う。赤丸浅井神社由緒に有る様に、元正天皇の二宮(文武天皇二宮・聖武天皇の弟)が東国33ヶ国を統治する為に最前線の赤丸浅井城に拠って大伴、佐伯氏の軍事を統括・指令していたなら、赤丸浅井神社の祭神は正に蝦夷対策の最前線基地に祀られた戦闘の神とされていたのかも知れない。



■赤丸村に伝わる二人の「二宮」伝承
赤丸村には浅井神社を創建された元正天皇(正しくは文武天皇)の二宮「石川朝臣広成」と、南北朝の時に後醍醐天皇の庄園「越中吉岡庄 ※赤丸村」に入られた後醍醐天皇の二宮(全体では八宮だが一人の母親の子としては二宮)「宗良親王」の二人である。赤丸村の城ケ平山の中腹には「親王屋敷跡」や「親王塚」と語り継がれている場所が在る。赤丸村ではこの二人の親王の伝承が混在して語り継がれている為、歴史が分かりにい。時代的に検証すると、赤丸村の「親王塚」は石川朝臣広成と推定でき、「親王屋敷跡」は赤丸城の在った城ケ平山の中腹に在り、「城ケ平」と云う名称は宗良親王の「城垣を平らけく……」と言う歌から名付けられたと云う事から宗良親王の事だと推定できる。




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