赤丸米のふるさとから 越中のささやき ぬぬぬ!!!

「勧進帳」の真実、富山県高岡市福岡町赤丸村の消された歴史⇒「越中吉岡庄」から「五位庄」へ

🔷🔹越中国の古代 ⇒ 『藤原種継事件』の 元越中国司「大伴家持」と赤丸浅井神社創建の「石川朝臣広成」 !!

2021-04-19 | 旧町名 富山県西礪波郡福岡町赤丸



赤丸浅井神社前に拡がっていた「庄川」と「小矢部川」の合流地点「阿光ヶ淵」の絵図
(※「赤丸浅井古城」並びに「浅井神社古墟図」石川県立図書館)


■【延喜式内式赤丸浅井神社】の別当「川人山鞍馬寺の縁起」

■「赤丸浅井神社」創建の『石川朝臣広成』の系図。



■越中国『延喜式内社五位庄五十三ケ村総社 赤丸浅井神社』の創建は「赤丸浅井神社三社史」に拠ると「元正天皇の二宮」が創建されたとされ、この人物は文武天皇の二宮で聖武天皇の義弟に当たり、母親は元、文武天皇の嬪で在った「石川刀自娘 イシカワトジノイラツメ」で、名は「石川朝臣広成 イシカワアソンヒロナリ」(※後には高円朝臣広世 タカマドアソンヒロヨ)とされる。越中にはこの時期に石川氏が多く国司等で赴任しており、「石川朝臣広成」は「大伴家持」と同様に恭仁京で「内舎人」を経験しており、万葉集にも三首の歌が掲載されている。
(※石川朝臣は蘇我氏の末裔。)
(※「浅井神社三社」とは「赤丸浅井神社本社」、「末社石堤浅井神社」、「末社舞谷八幡宮」を指している。)


■加賀藩の歴史家の富田景周は、その著作の「越登賀三州志」で「元正天皇は女帝で子供はいない。」として、「赤丸浅井神社三社誌」を否定しているが、惜しいかな、景周は皇統譜しか調査しておらず、文武、元明、元正、聖武天皇と続いた背景を調べていない。「石川刀自娘」は嬪を廃され臣籍に降下されたが(※「続日本紀」)、その子の「広成」は元正天皇の「天皇の子は全て親王とする」と言う宣命に助けられて、聖武天皇の側近の「内舎人」から初めて、その後は官僚として活躍して、後には更に「高円朝臣」と賜姓されている。聖武天皇の母親の宮子は、実は天智天皇(中大兄皇子)の実の子(※「大鏡」)とされた権力者の藤原不比等 [斉明天皇5年(659年)~養老4年8月3日(720年9月9日)]の娘で有り、不比等の陰謀があったとされる。
「高岡市史」はこの加賀藩士富田景周の浅い歴史を100%踏襲して、孫引き、ひ孫引きの資料、創造された資料だけで「高岡市史」を編集しており、基本的な「続日本紀」等の元本を知らずに創作された「低俗な物語集」で有り、「歴史書」としての価値は皆無だ!!
ここでも高岡市史は加賀藩の封建的な歴史観を「無条件」でバイブルとして引き継いでいる事が解る。



■「藤原種継事件が起きた頃の天皇家系図」








■【藤原種継と大伴氏・石川氏との葛藤】

藤原種継は光仁天皇の時に近衛少将・紀伊守・山背守・左京大夫・下総守等を歴任。光仁天皇即位に尽力した藤原式家の政治的な発言力上昇に伴って、宝亀5年(774年)従五位上、宝亀8年(777年)正五位下、宝亀11年(780年)正五位上、天応元年(781年)従四位下と順調に昇進。叔父の藤原良継・百川の死後は、藤原宇合の孫の中の最年長者の種継が式家を代表する立場になる。天応元年(781年)4月桓武天皇の即位に伴い従四位上に昇叙され、桓武天皇の信任が厚かった種継は以降急速に昇進。延暦元年(782年)参議に任ぜられて公卿、延暦2年(783年)従三位、延暦3年(784年)正月には先任の参議4名(藤原家依・神王・石川名足・紀船守)を飛び越えて中納言に叙任され、さらに同年12月には先任の中納言・大伴家持を出し抜いて正三位となった。


■【長岡京遷都】

延暦3年(784年)桓武天皇は平城京からの遷都を望み「天皇はなはだこれ(種継)を委任し、中外の事皆決を取る」とされるほど大きく政務を委ねられていた藤原種継は山背国乙訓郡長岡の地への遷都を提唱し、桓武天皇の命を受けて藤原小黒麻呂・佐伯今毛人・紀船守・大中臣子老・坂上苅田麻呂等と共に長岡の地を視察し、同年長岡京の「造宮使」に任命される。遷都先である長岡が母の実家秦氏の根拠地山背国葛野郡に近い事から、造宮使に抜擢された理由の一つには秦氏の協力を得たいという思惑があった事も考えられる。実際、秦足長や大秦宅守など秦氏一族の者は造宮に功があったとして叙爵されている。

■【藤原種継暗殺事件と大伴家持】
桓武天皇が大和国に出かけた留守の間の、遷都直後の延暦4年(785年)9月23日夜、藤原種継は造宮監督中に矢で射られて翌日には死去。暗殺犯として大伴竹良等が捕縛され、取調べの結果、大伴継人・佐伯高成ら十数名が捕縛されて斬首となった。事件直前の8月28日に死去した大伴家持は首謀者として官籍から除名された。事件に連座して流罪となった者も五百井女王の兄弟(能登内親王の子)の五百枝王・藤原雄依・紀白麻呂・大伴永主など複数にのぼった。
その後、事件は桓武天皇の皇太弟であった早良親王の廃嫡、讃岐への配流に発展し、遂には早良親王が憤死される。元々、藤原種継と桓武天皇の弟の早良親王は不仲であったとされているが、実際の早良親王の事件関与有無は定かでない。しかし「大伴家持」は生前に「春宮大夫」であり、佐伯高成や他の逮捕者の中にも皇太子の家政機関である春宮坊の官人が複数いた為に一味とされた。その後、長岡京から平安京へ短期間のうちに遷都する事になったが、早良親王が怨霊として恐れられた為とされる。「大伴家持」は一味として死去した後に財産は没収され、葬儀も許されなかった。しかし、後には家持は名誉を回復されて財産も返却されたと云う。

【註釈】桓武天皇・早良親王の姪で能登内親王の子「春原五百枝王」の姉の「五百井女王」は越中の現在の高岡市国吉に在ったとされる「須加庄」を所有していたが、早良親王が亡くなった二年後に、早良親王が出家されていた東大寺に庄園五町歩を寄進している。⇒『東大寺庄園須加庄図』正倉院所蔵



■『大伴家持と藤原種継事件の記載された古文書』(※「日本紀略」)








■【藤原種継事件の石川一族と大伴家持】

《蘇我氏から石川氏への関係略図》
 蘇我馬子━(略)━石川難波麻呂━豊人(※越中国司)━継人




■【石川豊人】;(?~790年)奈良~長岡京時代。蘇我氏。父は石川難波麻呂。
従四位上。大蔵卿兼武蔵守。「朝臣」姓。石川難波麻呂の子。子に、石川継人。
天平20年(748年)2月に従五位下。
天平勝宝6年(754年)には主税頭、越中守を歴任。越中守を務めた後不遇の時代が長く続く。
(※従五位下になって以来、天武天皇皇統天皇の朝廷下では20年以上もの間不遇で在った。)
天平宝字7年(763年)造宮少輔、造宮大夫。
宝亀元年(770年)8月称徳天皇の崩御に際して高松笠麻呂等と共に作路司となる。
宝亀元(770年)10月1日光仁天皇が即位。光仁天皇に重用され次々と昇進。同月23日に右少弁、従五位上。
(※石川豊人は天智天皇皇統の光仁天皇が登場して以降に活躍。藤原仲麻呂と近かったが仲麻呂以外の執政者の橘諸兄、道鏡等とは対立。)
宝亀2年(771年)下総介。宝亀7年(776年)従四位下。宝亀7年右大弁。
宝亀9年(778年)2月。
宝亀10年(779年)12月に藤原縄麻呂が死去した際に、藤原刷雄等と共に勅使を務め縄麻呂邸を弔問している。
天応元年(781年)2月、能登内親王の薨去に際して大伴家持等と共に葬儀の監督に当たる。この時、刑部卿の職にある。
大和守。天応元年(781年)4月3日、桓武天皇が即位。5月出雲守。
延暦3年(784年)11月11日に平城京から長岡京へ遷都。右京大夫、中宮大夫等。
延暦4年(785年)7月右京大夫。8月従四位上。長岡京建設に関わる
延暦4年(785年)9月23日桓武天皇の留守を狙って大伴竹良派が長岡京建設の中心人物である藤原種継を襲撃して『藤原種継暗殺事件』が勃発。種継死去。
延暦5年(786年)4月中宮大夫に転じる。光仁天皇皇后、桓武天皇・早良親王の母親の高野新笠側近官司である事から、先の長岡京入りでの出迎え等で石川豊人は高野新笠からの信頼が熱かった。
延暦7年(788年)正月、桓武天皇の皇子で皇太子の安殿親王が元服すると高野新笠の下を訪問し拝謁。この一連の行事も豊人が整えたものと思われる。2月6日、中宮大夫と兼任で武蔵守となる。同月28日に和気清麻呂が中宮大夫に任じられ、豊人は武蔵国へ下向したものと見られる。3月には武蔵守と兼任で大蔵卿に任じられる。豊人が武蔵に滞在したのは実質数ヶ月程度だったか。大蔵卿との兼任は武蔵守として実務を担当し、桓武天皇が豊人に対して予算権限を与えたもの。当時の武蔵国は、桓武天皇の宿願である「蝦夷征伐」の為の東日本における策源地として重要な位置を占める国であった。しかし、京畿に比べて未開の辺鄙な土地で有り、大軍の動員、及び、移動の為の基盤整備が急務とされていた。豊人の大蔵卿と武蔵守の兼任は、
蝦夷征伐事業の一環として武蔵国を急ぎ整備する為の人事であったと見られる。即ち、長岡京建設の決済は桓武天皇が直々に監督し、武蔵国整備の決済は桓武天皇の信任厚い石川豊人に託されたものか。石川氏から武蔵守となった者も多く武蔵国での人脈も期待された。
延暦9年(790年)5月 大蔵卿兼武蔵守として在職中に死去。



■【石川豊人】の縁者

※「石川豊成」;石川豊人の甥。最終は「正三位中納言兼宮内卿右京大夫」に迄昇進し、越中射水郡の「東大寺庄園鹿田庄」(高岡市と大門町の間)の隣地に自分の庄園を所有していた事が東大寺庄園図に記載されている。

※石川真守;宝亀3年(772年)4月27日:【越中守】。奈良時代中期から平安時代初期にかけての貴族。大臣蘇我馬子の後裔で、中納言・石川豊成の子。

※「石川名足」;桓武天皇の近臣として参議従三位。左大弁(光仁天皇の側近)。

※「石川河主」;中納言・「石川豊成」の十男。 延暦25年(806年)3月の桓武天皇崩御に際して御装束司を務め、翌月の平城天皇の即位に伴い正五位下に昇叙された。


※「石川継人」;[天平13年(741年)~ 天長3年1月3日(826年2月12日)]。右大臣の蘇我連子の曾孫で石川豊人の子。官位は従四位上・玄蕃頭。

※「石川年足」;「持統天皇2年(688年)~天平宝字6年9月30日」。壬申の乱以降蘇我氏の嫡流となった少納言・蘇我安麻呂の孫で権参議石川石足の長男。官位は正三位・御史大夫。勲等は勲十二等。天平宝字6年(762年)9月30日薨去。享年75歳。最終官位は御史大夫正三位兼文部卿神祇伯。薨去の際に淳仁天皇から佐伯今毛人・大伴家持が弔いの為に遣わされた。


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