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●『職原抄』は中世の「有職故実書」で全2巻。(※「職原鈔」)
鎌倉時代後期から南北朝時代の公卿の北畠親房が常陸国小田城に居た時に南朝の「後村上天皇」の為に書いたもの。
(※興国元年/暦応3年(1340年)の完成)
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■「内舎人」
「大伴家持」や聖武天皇の義弟「石川朝臣広成」は「恭仁京」で「内舎人」に就任した。その時に石川広成が歌った歌が「万葉集」に掲載される。「内舎人」は良家の子弟が任命され、摂政、関白の随臣や皇室の警備に当たり、「帯剣」した。総員は90名で、武人として将来を約束されて、後には「賜姓」され、「位階」を授けられている。「石川朝臣広成」は後に「高円朝臣」と「賜姓」されて伊賀国に赴任している。
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■「延喜式内社赤丸浅井神社」は「元正天皇二宮(※実は文武天皇二宮)の石川朝臣広成」が創建されたと伝わる。
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■「石川朝臣広成」と「養老律令 継嗣令」
(※「令義解リョウノギゲ」→養老令の公定注釈書。参照)
⇒「赤丸浅井神社」の前に在った「阿光ケ淵」
「元正天皇」は勅令を発し、臣籍に降下した「文武天皇」の二宮「石川朝臣広成」についても「天皇の子は全て親王と為せ」と命じられた。「延喜式内社赤丸浅井神社」の前には「阿光ケ淵」(※「吾子ケ淵」)と呼ばれた小矢部川と庄川の合流地点が在ったと云う。
「元正天皇」は弟の「文武天皇」が夭折された為にその子「首皇子オビトオウジ(※後の聖武天皇)」達の母親代わりとして女帝に就かれ、聖武天皇が天皇になる時の宣命で「聖武天皇」を「吾子美麻斯王 アコミマシオウ」(※我が子の美麻斯王ミマシオウー聖武天皇の事) と呼ばれている。
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