赤丸米のふるさとから 越中のささやき ぬぬぬ!!!

「勧進帳」の真実、富山県高岡市福岡町赤丸村の消された歴史⇒「越中吉岡庄」から「五位庄」へ

🔴【佐々成政】の馬印「三階菅笠」と宮中祭祀にも使われる越中五位庄に伝わる「菅笠」文化 !!

2021-04-17 | 富山県高岡市福岡町赤丸村
■「菅笠」は古来から「宮中祭祀」や「神事」でも用いられ、天皇の「菅の御笠」は天皇祭祀の時に古くから用いられており、織田信長や戦国武将も戦場で用いている。

■《越中に関わる戦国武将》
 (※「織田信長肖像に見られる菅笠」)



■「宮中祭祀に使用される菅蓋(菅笠)」


■江戸時代に盛んに成った「伊勢神宮」への「お蔭参り」に、「菅笠スゲカサ」は「柄杓ヒシャク」(※道中で御布施を貰う為)、「草鞋ワラジ」と共に必需品だった。



■元々、越中の歴史の中で織田信長の家臣の佐々成政が領主の時代が有ったが、佐々成政は有名な「三階菅笠」を馬印にした武将で有った。加賀藩の歴史の中では前田家と争った佐々成政の業績は徹底的に削除され、「小百合伝説」等で佐々成政は悪逆非道の領主として言い伝えられる事になった。当時の社会では、不義密通、もしくは立証できなくても「ウワサ」でも「女敵討ち」というルールが有り、「二つに重ねて叩き切る」というルールが有り、成政はこの「法」に従った迄であった。佐々成政は有能な政治家で有り、佐々堤等の護岸工事等で民生にも力を尽くした君主であったが、占領軍の加賀藩は佐々成政の業績を徹底して消し去り、越中を「越中さ」として蔑む文化を根付かせ、加賀は長い間越中に重税を課して、加賀の華麗な文化とは違う貧しい文化を越中に強いてきた歴史が有る。越中菅笠はあたかも加賀藩の政策で広がった様に喧伝されているが、実は「佐々成政」は「馬印」に著名な「三階菅笠」を使っており、「佐々成政」の時代に既に越中にもたらされた文化なのかも知れない。では、何故、越中西部に菅笠文化が栄えたのか?
越中の小矢部川は古くから洪水の度に流れを変えた暴れ川で在り、古地図によれば川の流域は至る所に沼が在り、その流域には「菅」が自生し、その菅笠の「骨」になる「破竹」と言う節間が長く、肉薄のこの地方独特の竹が小矢部川土手に豊富に自生していた為、早くから菅笠は生産されていたものと見られる。現に、五箇山や城端等の民謡には菅笠が使用されており、これ等の民間は平家伝承も在る古い文化だ。

■絵図に見られる佐々成政と馬印 
※成政の前にいる武将は前田利家



(※「越中史料」には慶長十三年の伝来と伝えるが、古来から菅笠は消耗品として民間で生産されており、前田利家死後、前田利長の殖産政策の成果を強調する為の加賀藩の宣伝と見られる。)

■金沢では越中の菅笠を取り扱った地域の名残の「笠舞」、「笠市町」等の「笠」を冠した地名が残り、加賀商人は越中の産物を独占して販売して利益を得ていた。加賀藩の占領地としての越中西部では金沢の商人によって米、笠等の商品が取り扱われ、越中では過酷な下請け作業と重税に苦しめられ、わずかな隠田によって情け容赦なく罪人とされた。赤丸村の住民を移動させて開いた高岡市和田新村の「和田佐助」も「隠田の罪」で処刑されたと云う。

■ちなみに、「佐々成政」が生まれた名古屋市の「比良城」は、「赤丸浅井城」を居城とした「越中石黒氏」が南北朝の戦いで敗れた後、各地を放浪した後に尾張に開いた「如意城」の近所で有り、佐々氏と石黒氏(如意城では長谷川と名乗っていた。)とは尾張時代から親交があった可能性が有る。特に石黒氏が拠点としていた越中の西部に菅笠文化が広がっていたのは、加賀藩直轄地という事も有るが、佐々氏と石黒氏の関係が有ったからではないだろうか? 





■「尾張如意城」;如意城[別名長谷川城]は現在の名古屋市西区の「瑞応寺」の辺り在ったとされる。城の遺構は無いが、瑞応寺の山門前に石碑が建てられている。 「如意城」は、築城年代は明らかです無いが、越中石黒氏の末葉の長谷川重行が築いたと云う。長谷川重行は、越中木舟城主石黒重之の子で、南朝方に与して足利氏と戦って敗れ、一時奥州に逃れたが、やがて、奥州の塩釜神社の神霊を伴って、 明徳4年にこの地に住み「長谷川重行」と称し、その後斯波氏に仕えて味鋺ミワン如意郷の如意城の領主となったと云う。
※越中石黒氏の子孫は、織田信長に臣従する姿勢を示したものの、一族の中に依然として抵抗する者が居たため、信長に呼び出されて向かう道中で一族の殆どが信長の命で誅殺されている。


■「大井神社由緒」 【石黒大炊助藤原重行は、後醍醐天皇の皇子宗良親王を木船城に迎え、建武の中興に功績のあった越中国余呉郷貴船城主石黒越中守藤原重之の子で、勤王の志を継ぎ度々兵を挙げたが、遂に越中国を去り、一時奥州へ移る。本殿は、重行の子石黒右馬頭藤原朝房が、嘉吉2年(1442)に再建する。 大井神社御祭神:罔象女命、速秋津彦命、速秋津姫命   相殿神:塩竈六所大明神】
※「越中国余呉郷」は射水市では「名古」としており、「赤丸村浅井神社」では「阿古」と解釈している。「阿古」は、往古「赤丸村浅井神社」の前に広がっていた庄川と小矢部川の合流地点の「阿古ケ淵」に拠るものとし、「阿古」は合流地点に住んだ竜の「悪王」と考えられているが、本来は「赤丸村浅井神社」の御創建の「元正天皇の二宮」の事を、親代わりで有った元正天皇が「我子」と呼んだ事から「吾子」になったものと見られる。(※聖武天皇の即位の際に「吾子」と宣命で読んでいる。「続日本紀」参照)


■「赤丸浅井城」は越中石黒氏が造営し、代々居城としたと伝わる。「罔象女命」は高岡市の「石堤浅井神社」の祭神にも見られ、石黒氏が居城とした「木舟城」の「貴船神社」の祭神も水神であり、奈良時代から墾田を開発し東大寺大仏造営の際に米5000石を寄進していた石黒氏の祖の「利波臣志留志」が信仰した神は「水神」で有った様だ。「赤丸浅井神社」には皇室系の最高神「高皇産霊神」と豊穣の神の大国主神の妻で「水神」である「八河江比賈命」を祀り、「石堤浅井神社」には水路を守る神として「罔象女命」を祀っている。赤丸村舞谷の「八幡社」には表向きは皇祖神の[応神天皇:第一五代天皇誉田別命(ほんだわけのみこと)]が祀られているが、裏には、応神天皇の父で「日本武尊」の第二子である「仲哀天皇」、石黒氏の祖と云われる「武内宿禰」、神皇ウガヤ朝の天皇の「鸕鷀草葺不合尊 ウガヤフキアエズノミコト」の妻となり「神武天皇」を生んだ「玉依姫命」を八幡三神として祀ったものと考えられる。両部神道の赤丸村「川人山鞍馬寺」の三社権現は石黒氏所縁の藤原伊勢人が建立した「京都鞍馬寺」を勧請し、主祭神の「赤丸浅井神社」には皇室系の神を祀り、脇神として八幡社には皇室の神皇時代の神々と石黒氏の祖の武内宿祢、石堤浅井神社には石黒氏が開墾の時に重要な水神を祀り、三社権現としたものと考えられる。又、「藤原伊勢人」が東寺の造営の任に当たっていた時、「藤原伊勢人」の夢に現在の「鞍馬寺」から近い「貴船神社」の神が現れ「鞍馬寺」を建立するよう託宣したと伝えられる事から、高岡市福岡町の赤丸村「川人山鞍馬寺」、「木舟城」や「貴船神社」はこの縁起から名付けられたものと考えられる。(※「今昔物語」参照)






■「福岡町に菅笠の技術を伝えた伊勢の人 大野源作 の子孫、大野次兵衛 が赤丸村の小矢部川沿いの加賀藩御鷹狩場を開拓して向野新村を開く!!」

■福岡町に菅笠技術を伝承したのは、伊勢の人「大野源作」と伝わるが、この子孫の「大野次兵衛」が赤丸村の小矢部川河川敷であり、加賀藩の御鷹狩場だった荒地を開墾して開いたのが「次兵衛島」、後の「赤丸村向野新村」である。加賀藩では参勤交代の途中、「五位庄赤丸の渡し」を渡り、小矢部川の河川敷で在った向野、川原地区でウサギや鳥を鷹を放鳥して捕え、「四日市の渡し」から北陸街道に戻り、一路江戸を目指したと云う。
古くから「向野新村」には小矢部川河川敷の肥沃な沼地を利用して「菅」が栽培され、小矢部川の河川敷の砂利の上は天然の「菅の乾燥場」だった。「菅の乾燥場」は集落で管理され、許可された場所・範囲の中で暑い夏季の日差しの中で乾燥が行われた。夏の日差しで熱した砂利の上に広げて表と裏を交互に乾燥し、夕方には自宅に運ぶ作業の繰り返しであった。「向野新村」では伝統の「大野笠」が制作され、大野一族の人が竹で傘骨を制作し、老人や女性が各戸に集まって「笠を縫う」姿がどの家でも見られた。向野新村の婦人にとってはかけがえのない副収入で有り、子供や老人も菅の乾燥作業や搬送を手伝っていた。ちなみに、向野新村を開いた大野源作の子孫は現在も向野新村に残っており、当代の当主で25代目と聞く。一族の大野一族は9軒が今も向野新村に栄えている事は余り知られていない。
「菅笠」は江戸時代には農作業を含め、戸外の生活には必需品だった。江戸時代に盛んになった伊勢神宮への「御蔭参り」には「菅笠、わらじ、柄杓」を持ってはるばる伊勢に向かったと云う。伊勢神宮には「御蔭参りの図」が残されており、全国から集まった数万人の群衆の頭には出身地を墨書した菅笠が見られる。伊勢の人の大野源作が五位庄に菅笠を伝えたのは、伊勢では「御蔭参り」の帰りに「菅笠」を買い求める人が多く、巨大な消費地で有ったからだろう。現在、「菅」の生産が全国的に減少し、平成25年の伊勢神宮の式年遷宮では神宝の「菅御笠」の「菅」を福岡町の重要無形民族文化財の保全を目的として立ち上げられた「菅笠制作技術保存会」が奉納し、大阪の深江で菅笠が編まれて奉納されている。宮中行事では天皇の上に翳す「菅蓋」という菅笠が用いられ、20年毎の式年遷宮では新たに「菅御笠」という菅笠や、「翳 さしは」(鳥の羽や絹・菅を張ったうちわ形のものに長い柄をつけた道具で貴人の外出時や天皇が即位、朝賀などで高御座に出る時に従者が差し出して顔を隠すのに用いられる大きな団扇の様なものも)も作られるが、今回の式年遷宮でも、この材料の「菅」は福岡町で生産された2メートルにも及ぶ優良品が伊勢神宮に奉納されている。

■加賀藩士富田景周が書き記したと伝わる「加越能三州地理志稿」に拠れば、江戸時代の「五位庄」は「四日市、柴野、十日市、江道、境、山川、廣谷、勝木原、澤川、淵ケ谷、田名原、小野、六郎谷、花野(花尾)、栃谷、上栃谷、西明寺、上向田(鍛冶町・田ノ子・上野)、下向田、土屋、山岸、鳥倉、西、高畠、加茂、馬場、三日市(荒田町・大野島・大野)、赤丸(谷内・次兵衛島)、舞谷、石堤(谷内・六日市)、麻生谷、東石堤、渡、内島(池田・新屋敷)、蜂ケ島、大源寺、福田六家、六家、樋詰、柴野内島、立野町、中保、駒方、駒方新、小竹、下開発、上開発、今市、宮野腰、三ケ、後正寺、須田、壹歩貮歩(二歩)、下老子、笹川(荒又・出来野)、高田島(荒又・出来野)、福岡、四十萬、稗島、下蓑、荒屋敷、土田新、  以上 五十七村属五位庄」となっており、従来、「福岡町に菅笠が伝わり福岡町の伝承である」と喧伝されてきたが、実は菅笠文化の殆どが「五位庄」由来の文化なのだ!  
菅笠技術が伝来したと伝わる「大野島・大野・立野・下蓑・福岡町」等は全て「五位庄」であり、「浅井城」・「赤丸浅井神社」を核にして栄えた「五位庄」の中心地の赤丸村は福岡町に合併され、今は高岡市と対等合併しているが、役場や教育機関、警察、金融機関等の都市機能を持つ出先が全て閉鎖・統合されて、現在は地域の伝承を繋ぐ組織は壊滅している。正に日本が占領政策の中で固有の文化を失いかけているのと同じ事だ。

(※福岡町の菅笠技術は現在、国の無形重要文化財に指定されている。




■平安時代から皇室庄園で在った「越中吉岡庄(後の五位庄)」は、「後白河上皇」以来の古い「後院領」と呼ばれた庄園で在り、「天皇家」とは密接な地域で在った。この庄園には、あの著名な刀鍛冶集団の「宇多派」が住んでいたと伝わり、現在でも赤丸村の城ケ平の山裾に「加治屋町島」という地名が残る。この地が宇多派の工房の有った場所ではないかとされている。藩政時代には、三日市は「五位庄赤丸村領三日市」で在った。【註】「福岡町の民俗」福岡歴史郷土資料館長地崎淳一著

■南北朝時代に大和国宇陀郡から越中吉岡庄赤丸村領三日市(鍛冶屋町島)に移り住んだと伝わる越中名工「初代 宇多国光」の「太刀」と「小太刀」!!










■赤丸村領高田島(※高岡市高田島):越中山田郷下野村に「高田喜右衛門家」が有り、その過去帳に「木舟之城主石黒左近殿家臣高田孫兵衛由緒」として、『佐々成政に敗れた木舟城主石黒左近は江州(近江)に移り、その後、佐々平左衛門が居城したが、天正十三年には再び石黒左近が木舟城主となった。この時に石黒左近の家臣「高田孫兵衛」は後の赤丸村領高田島の地に居住していた事から現在の「高田島」という地名が残った。』と記されている。「高田喜右衛門」が元和元年(1617年)に開いたのが「下野村」である。【註】「吉江の昔と今」福光町吉江自治振興会

■この伝承からすると、「菅笠文化」は、「越中石黒氏」の所領の「五位庄」に伝わった文化と云える。






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