赤丸米のふるさとから 越中のささやき ぬぬぬ!!!

「勧進帳」の真実、富山県高岡市福岡町赤丸村の消された歴史⇒「越中吉岡庄」から「五位庄」へ

🔴📖 終戦勅書にサインした【農商大臣石黒忠篤】は越中石黒氏系!! ⇒『越中石黒氏の記録』

2021-02-14 | 旧町名 富山県西礪波郡福岡町赤丸
「終戦勅書に見られる石黒忠篤」









■昭和20年の終戦勅書に「農商大臣」として「石黒忠篤」のサインがある。Wikipediaに拠れば、この先祖は越後上杉家家臣であったが、帰農した一族の子孫とされる。

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■「石黒忠篤伝」(※「岩波書店」昭和44年)に拠れば、『「源平盛衰記」に登場する木曽義仲の軍団に属した越中石黒一族の一部は、木曽義仲勢力の衰退した時に義仲を見限り関東へ落ちて上杉家に仕官し、その後、上杉と共に越後に移った一族で、上杉謙信の死亡の後、越後で帰農した』と云う。


「源平盛衰記」「平家物語」に登場する「木曽義仲軍団」の中に、著名な「石黒光弘」 の姿が見える。
(※「木曽義仲諸将絵図」喜多川歌麿 作、東京都立中央図書館蔵※使用許可済み)


■越中の石黒氏は、織田、豊臣、朝倉、徳川等の家臣として幅広く全国に広がっていたが、石黒氏は藤原利仁将軍の末裔として「藤原氏」を名乗り、又、東大寺大仏造営のは時に【米五千碩(石)】を寄進して越中国司となった名門の「利波氏」の末裔と名乗り、更には加賀の藤原氏の名門の林氏と縁組して林一族として振る舞った事もある一族である。この一族は「源平盛衰記」「平家物語」にも登場し、後鳥羽上皇の起した「承久の乱」でもその名を残している。
(※「承久記」)
石黒氏は越中の福光に各支城を持ち、高岡市福岡町の木舟城、赤丸浅井城を拠点とし、高岡市の大合併前迄、「東砺波郡」「西砺波郡」として富山県西部には地名としても残っていた富山県の歴史では最も長く栄えた一族で、現代にも日本全国に「石黒氏」が広がって、活躍されている方が多い。その先祖の「射水氏」の名を残した「射水郡」と合わせると、富山県西部がほぼこの一族の勢力圏になるくらいである。

■『文久年間 加賀藩組分侍帳』に拠る「石黒氏」の名簿を調べて見ると、越中石黒氏の代表的な家紋と聞く「丸ノ内に石ノ字」の家は二軒しか無く、石黒家菩提寺の金沢の本長寺を菩提寺とする家は二軒である。しかも、菩提寺は同じでも家紋が異なる等、同じく「石黒」を名乗っていても、その家系の変容が推察される。「浪合記」に天野民部の説明中に、富樫一族の林一族について説明しているが、「林の紋三巴に一引両なり」と記載しており、石黒春次郎の「三巴紋」に近い説明がある。この中には加賀の林一族や富樫一族、更には石浦氏等の一族の系統も入っているのかも知れない。

■越中国内では越中西部の砺波郡を拠点として、かつて、「二上庄」と呼ばれた現在の高岡市から新湊にかけての射水郡でも各所の地頭をした歴史を持つ名門一族である。射水郡でも南北朝の頃、大袋庄(※射水市北高木から大島町高木)には「高木城」を構え、後醍醐天皇の第八皇子の宗良親王を迎えたとされる「南朝の忠臣」とされる一族である。
「越中勤王史」には石黒氏について「倶利伽羅の合戦に驍名を馳せた福光城主石黒太郎光弘の後裔たる石黒左近大夫将監盛行(重之の事か?)、今の西礪波郡の木舟城に 籠り同じく後裔たる石黒次郎光景、延元以来同郡浅井城により両士共……………」と有り、又、「群書類従」に納められた「花営三代記」では、南北朝の戦いのシーンで南朝の桃井直常の味方をした武将の項で、「応安四年八月十三日に楠正成が打たれた時、越中左近大夫将監殿、飛州国司舎弟二人以下百余人、或は降参し、或は生け捕りになった旨伝えられた。」とされており、この時(応安四年七月二十八日)、南朝の武将として越中諸将を率いた「桃井直常」は「越中後い庄」(※「後醍醐天皇庄園の後院領、五位庄」の事)で合戦したが、敗れてこの後、消息が途絶えている。ここに登場する石黒左近重之の子の「長谷川大炊助重行」は東北に逃れ、後に「尾張の春日井郡如意に如意郷を開き、如意城に住す」(※「浪合記」)とされ、この系統が尾張石黒家の系統だと伝える。

🔻南朝方の【桃井直常】は足利一門であり、当初は「足利尊氏」側で戦ったが、尊氏が弟の直義と敵対した為に、「桃井直常」は直義に付き、越中では、南朝の後醍醐天皇の庄園で在った「越中後い庄(後院領吉岡庄)」で尊氏側と戦った。「桃井直常」は当初、越中守護として尊氏側で在ったが、その後、「越中石黒氏」と共に戦い、南朝側に移った。足利尊氏が富山県井波の「高瀬庄」を「東大寺」の庄園として寄進した記録があり、地域にも相当深く入り込むんでいた様だ。




◆東京大学資料編纂所の報告では、越中の東大寺庄園の中では比較的新しく、【足利尊氏】が寄進した庄園で在るとしている。
(※「東京大学資料編纂所」h.p)

「桃井直常」の三男は、直常敗戦後に「赤丸村舞谷の高畠地区」に「西大寺」を建立した。「直常」が亡くなった時に幼少だった子供は「奈良」の「西大寺」に匿われた。「西大寺」はこの頃、越中の伏木に在った「国分寺」の親寺でこの地域に西大寺の教線が拡がっていた様だ。(※「大阪府羽曳野市史」)
成人して越中に戻った子供は、父の直常が激戦の結果亡く成った「赤丸村」に戻り、「西大寺」の寺名を許されて、舞谷村に西大寺を建立した。この寺はその後、高岡市佐野の光釜に動き、更に高岡開町時に高岡市木町に動き「光釜山西大寺」と号している。この寺の住職は現在も「桃井」を名乗り、「桃井氏」の「三羽雁紋」を使用されている。




■「越中石黒系図」・「源平盛衰記」には「石黒光景」が記載される。系図では「石黒光景」は、木舟城の「石黒光弘」の父に当たり、「赤丸浅井城」の城主にその名前が見られる。

■しかし、代々、中央から進出してきた平家、源氏の諸将に「有力国人領主」として従う事を止む無くされ、戦国時代には織田、朝倉、武田、上杉の諸将の争いの渦中に置かれ、更には、北陸で猛威を奮った「一向一揆」とも古い宗教の真言宗、天台宗、日蓮宗等の擁護者として戦わざるを得なかった。武田信玄は裏で一向宗と結び、畠山氏や上杉氏と争っていた。ある時期には、能登畠山氏は上杉と結ぶ者、織田と結ぶ者等と家臣が分裂した。この時、上杉謙信は越後から魚津、富山を越えて能登七尾城を攻略して、遂には加賀にも攻め込んだ。この時、謙信の軍門に下った越中の神保、寺島、寺崎等の諸将は、上杉謙信の家臣の「越中衆」として正式に「上杉謙信家臣名簿」にも載せられていた。

■上杉謙信は能登七尾城を攻略し、家臣の裏切りで毒殺された能登畠山氏の子の一人を自分の養子として上杉を名乗らせ、もう一人は越中守山城の神保氏の養子(神保氏張)になっていたがこれを家臣の列に加えた。更に、能登畠山氏未亡人は上杉家臣の北条(キタジョウ)氏の妻として、能登畠山氏に対する処置を行った。
その後の上杉謙信家臣名簿には「越中衆」として「神保氏張」を初めとして、「石黒左近蔵人成綱」等の越中諸将の名前がある。
「越中石黒氏」の系統は、東北や関東、関西、愛知県、福井県等にも広がっていたが、上杉謙信名簿に見られるのは「石黒成綱」だけである。又、系統的には不明だが、上杉謙信と戦った武田信玄に従った石黒将監(イシグロショウゲン)と云う武将は、甲斐国武田氏の家臣の諸角虎定の配下で当時は五郎兵衛と称した。永禄4年(1561年 )の川中島の戦いで諸角虎定が討死すると、その首級を奪還する活躍を見せた。しかし、この石黒将監は、武田信玄亡き後、徳川に仕官して代々、徳川家臣として名簿監に名を残している。従って、徳川の幕臣にも石黒氏は見られるし、愛知県や越中の石黒一族には加賀藩の前田利家の家臣になった者、承久の乱で京都へ攻め登った石黒氏の一部は越前に残り、朝倉家の家臣と成り、福井県では地元の有力者となった人達もいる。東北では角館の石黒家は有名である。石黒以外では、名古屋では如意郷に如意城を構えた長谷川重行や、加賀藩では湯原家等が有り、越中では測量の大家として名を残す「石黒信由」も越中石黒氏の末裔と称しており、北陸では福光、堀等と称している子孫も多い。又、加賀藩で鳥見役を勤めた新川郡の石黒家、石川県の美川周辺の十村役を勤めた石黒家、金沢市では石黒釆女系や十村を勤めた石黒氏等も越中石黒氏の末裔と称している。その系図は全国で多岐に亘り、現在も論争が続いている位の大族である。

■上杉謙信の家臣名簿に見られる「石黒氏」


■加賀藩の「石黒釆女知行状」


■「加賀藩組分侍帳」(※文久年間)に見られる「石黒氏」






■「二上庄」(※高岡市域を含む庄園)の石黒氏の記録が「鎌倉遺文」に残る。
「二上荘」;鎌倉期から見える荘園名で、荘域に「二墓保 フタヅカホ」を含む。(文正元年四月八日付後花園上皇院宣/富山県史中世)
「承久の乱」(82代後鳥羽上皇)の後の「関東御教書」(寛元二年十二月二十四日※87代四条天皇・鎌倉幕府北条氏)に拠ると、当荘雑掌より申し出された問注について鎌倉幕府は当荘預所と石黒氏の傍系の石黒弥三郎との参決を命じている。(※「久能木文書」大日本史料5-18)



※【その後の二上庄】
「室町幕府奉行人連署奉書案」(※寛正六年三月二日付「土御門家文書」富山県史中世)には「土御門三位有季申、越中国二上荘領家職御譲位以下要脚段銭之事」と有り、室町幕府は当荘を管掌している土御門有季の申し入れを受けて当荘の段銭を免除した記録が有る。
(※「角川日本地名大辞典」)




■「二上庄」の高岡古城絵図⇒「石黒信由作成絵図」※「石黒信由」も越中石黒氏であった。






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