■加賀藩士が書き残した「加賀藩の詳細記録」の【公譜要略】に記載される【木船城主 前田秀継】は天正十三年二月に死去。
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■総持寺に遺される【貴舟神社の御神体】は天正元年に造られている。
この像には、【「前田家」が、木舟城に入った時に犬の首に縄で縛り木舟城近くの河川に流して「御神徳が在るならば浮かんで見ろ」と嘲り笑ったという】逸話が在る。
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🔻「天正十三年大地震と中世城館」(越中史壇会 高岡徹著)
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🔻「加賀藩記録 公譜要略」
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■その後、天正十三年には「飛越地震」の為に「木舟城」が土中に埋まり、城主、家臣一同が死亡したと云う。正に「貴船神社」の御神徳と云うべきか、おごり高ぶった前田家は巨大な地震に拠って潰滅した。
しかし、この像はその様な災害の後にどうして遺されたものか?
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■この「御神像」が何故、元々赤丸村に在ったと云う「総持寺」に奉られたものか?
「赤丸浅井城」は、「木舟城」と同じく、元々「越中石黒氏の居城」で在り「源平盛衰記」で有名な「木舟城城主石黒光弘」の父親の「石黒光景」の居城で在り、「総持寺」は「延喜式内社赤丸浅井神社」の周辺に在った「浅井神社48坊の一つで在った」と云われる古寺で在る。「延喜式内社赤丸浅井神社」は「越中吉岡庄」と呼ばれた南北朝時代の以前にも、「五位庄」と呼ばれた室町時代以降もこの地域の中心に在った【郷社 惣社】とされる元締の神社で在り、福岡町や大滝地区はこの「吉岡庄」の中に含まれていた。
【京都の鞍馬寺と密接な貴船神社を、赤丸村の浅井城には川人山鞍馬寺、大竹村(大滝村)には貴船神社として勧請したものと見られる。】
■福岡町の中川幸作氏が遺された「蓑のしずく」には、この像は「吉田神道石堤浅井神社の立場で激しく赤丸浅井神社と争った郷土史家の飛見丈繁氏が所有ししていた」事が記されており、又、「飛見丈繁氏」の別の「越中古文抄」という著作には、「赤丸浅井神社の神官を勤めた西宝院(川人家)の法名が総持寺の過去帳に遺されている」とも記載されている。「飛見丈繁氏」は何故、「貴船神社の御神像」と云われるこの石像を縁者の嫁いでいた「総持寺」へ持ち込んで奉られたものか?
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■それにしても、地震で失われたと見られていた「貴船神社の御神像」が、今、忽然として我々の前に姿を現した事は「正に御神徳」と云うべきだろうか?
🔻石像には「大彦命」と刻まれており、「越中石黒氏」の祖先を辿れば「大彦命」の同族になる「高志利波臣」となる。(※「古事記」)
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🔻【歌川国芳作】
「源平盛衰記 安宅川合戦」に記載される「木舟城城主石黒光弘」
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■総持寺に遺される【貴舟神社の御神体】は天正元年に造られている。
この像には、【「前田家」が、木舟城に入った時に犬の首に縄で縛り木舟城近くの河川に流して「御神徳が在るならば浮かんで見ろ」と嘲り笑ったという】逸話が在る。
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🔻「天正十三年大地震と中世城館」(越中史壇会 高岡徹著)
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🔻「加賀藩記録 公譜要略」
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■その後、天正十三年には「飛越地震」の為に「木舟城」が土中に埋まり、城主、家臣一同が死亡したと云う。正に「貴船神社」の御神徳と云うべきか、おごり高ぶった前田家は巨大な地震に拠って潰滅した。
しかし、この像はその様な災害の後にどうして遺されたものか?
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■この「御神像」が何故、元々赤丸村に在ったと云う「総持寺」に奉られたものか?
「赤丸浅井城」は、「木舟城」と同じく、元々「越中石黒氏の居城」で在り「源平盛衰記」で有名な「木舟城城主石黒光弘」の父親の「石黒光景」の居城で在り、「総持寺」は「延喜式内社赤丸浅井神社」の周辺に在った「浅井神社48坊の一つで在った」と云われる古寺で在る。「延喜式内社赤丸浅井神社」は「越中吉岡庄」と呼ばれた南北朝時代の以前にも、「五位庄」と呼ばれた室町時代以降もこの地域の中心に在った【郷社 惣社】とされる元締の神社で在り、福岡町や大滝地区はこの「吉岡庄」の中に含まれていた。
【京都の鞍馬寺と密接な貴船神社を、赤丸村の浅井城には川人山鞍馬寺、大竹村(大滝村)には貴船神社として勧請したものと見られる。】
■福岡町の中川幸作氏が遺された「蓑のしずく」には、この像は「吉田神道石堤浅井神社の立場で激しく赤丸浅井神社と争った郷土史家の飛見丈繁氏が所有ししていた」事が記されており、又、「飛見丈繁氏」の別の「越中古文抄」という著作には、「赤丸浅井神社の神官を勤めた西宝院(川人家)の法名が総持寺の過去帳に遺されている」とも記載されている。「飛見丈繁氏」は何故、「貴船神社の御神像」と云われるこの石像を縁者の嫁いでいた「総持寺」へ持ち込んで奉られたものか?
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■それにしても、地震で失われたと見られていた「貴船神社の御神像」が、今、忽然として我々の前に姿を現した事は「正に御神徳」と云うべきだろうか?
🔻石像には「大彦命」と刻まれており、「越中石黒氏」の祖先を辿れば「大彦命」の同族になる「高志利波臣」となる。(※「古事記」)
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🔻【歌川国芳作】
「源平盛衰記 安宅川合戦」に記載される「木舟城城主石黒光弘」
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