●著名な算博士の一族の三善氏は、越中の「射水臣」の『射水為康』を養子にしたが、その子孫は代々鎌倉幕府で重責を担った。
■高岡市の総持寺に安置される『千手観音座像』の胎内名にある「藤原浄円 斉藤長定入道」は、越中射水臣で現在の氷見市出身の『三善為康』の子孫の『太田康連』と一緒に鎌倉幕府評定衆に就任している。
越中射水臣は、漢族の帰化人の「三善氏」の後継となって繁栄している。
鎌倉時代、現在の氷見市には多くの僧兵を抱えた両部神道の「石動山天平寺」が在ったが、この一帯は赤丸村の一帯の「越中吉岡庄」と共に後鳥羽上皇の「後院領」で有り、資料に拠ると、赤丸村の両部神道「川人山鞍馬寺」との交流が在った様だ。鎌倉幕府の評定衆の筆頭に有り、「貞永式目」の草案取りまとめの責任者で在った「藤原浄円」とこの氷見市出身の「三善為康」の子孫の「太田康連」が一緒に評定衆を勤めていた事は、当然、両者の間に何らかの交流関係が在ったと推察される。
『貞永式目』の制定時には「三善氏」が三名も見られ、その取りまとめの責任者をしていた『藤原浄円』にとっては三善一族は重要なメンバーで在ったと見られる。
★三善為康は1066年(治暦2年)に18才で上洛し、算博士の三善為長に師事してその養子になった。少内記、算博士、諸陵頭を歴任し、『朝野群載』等の著作を残して、阿弥陀信仰に篤かった為に『拾遺往生伝』『続拾遺往生伝』等も著した。1117年(永久5年)に月食論争をしたとされる。(※「富山県の歴史散歩」久保尚文、苦ケ竹亮介、松山充宏他共著)
■高岡市の総持寺に安置される『千手観音座像』の胎内名にある「藤原浄円 斉藤長定入道」は、越中射水臣で現在の氷見市出身の『三善為康』の子孫の『太田康連』と一緒に鎌倉幕府評定衆に就任している。
越中射水臣は、漢族の帰化人の「三善氏」の後継となって繁栄している。
鎌倉時代、現在の氷見市には多くの僧兵を抱えた両部神道の「石動山天平寺」が在ったが、この一帯は赤丸村の一帯の「越中吉岡庄」と共に後鳥羽上皇の「後院領」で有り、資料に拠ると、赤丸村の両部神道「川人山鞍馬寺」との交流が在った様だ。鎌倉幕府の評定衆の筆頭に有り、「貞永式目」の草案取りまとめの責任者で在った「藤原浄円」とこの氷見市出身の「三善為康」の子孫の「太田康連」が一緒に評定衆を勤めていた事は、当然、両者の間に何らかの交流関係が在ったと推察される。
『貞永式目』の制定時には「三善氏」が三名も見られ、その取りまとめの責任者をしていた『藤原浄円』にとっては三善一族は重要なメンバーで在ったと見られる。
★三善為康は1066年(治暦2年)に18才で上洛し、算博士の三善為長に師事してその養子になった。少内記、算博士、諸陵頭を歴任し、『朝野群載』等の著作を残して、阿弥陀信仰に篤かった為に『拾遺往生伝』『続拾遺往生伝』等も著した。1117年(永久5年)に月食論争をしたとされる。(※「富山県の歴史散歩」久保尚文、苦ケ竹亮介、松山充宏他共著)