赤丸米のふるさとから 越中のささやき ぬぬぬ!!!

「勧進帳」の真実、富山県高岡市福岡町赤丸村の消された歴史⇒「越中吉岡庄」から「五位庄」へ

📚📘📖『延喜式神名帳』の考察⇒『越中五位庄』の高岡市福岡町赤丸の『赤丸浅井神社』、高岡市福田の「荊波神社」!!

2021-04-13 | 旧町名 富山県西礪波郡福岡町赤丸
■【延喜式神名帳】は、延長5年(927年)に纏められた『延喜式』の巻九、十に掲載された当時の「官社」に指定された全国の神社一覧表である。












■【神名帳考証】(※度会延経 著)には、「延喜式神名帳」を説明して、『浅井神社』には「アサイノ」とフリカナが在り、『荊波神社』には「ウバラノ ヤブナミ」とフリカナが在り、『浅井神社』は「アサイノ アサイジンジャ」、『荊波神社』は「ウバラノ ヤブナミジンジャ」である事を示している。











■国家から 幣帛(捧げ物)が贈られる『延喜式内社』は、富山県の砺波郡には十二社、射水郡には十三社が指定されているが、その同名の神社が幾つかある神社が在り、学者はそれを「論社」と呼んでいる。しかし、実はその神社の神官が、延喜式神名帳に住所が記載されていない為に勝手に「延喜式内社」と唱えたり、伊勢神道に対抗した京都の吉田神社が唱えた「唯一神道」により古い形の両部神道から神社を分離して簒奪する為に、本来別当寺の下に在る神社を分離独立させる事を目的にして、独自の論理で「我社も延喜式内社」と唱えた事から起こっている現象だ。空海が高野山を開いた時にも、空海は高野山の地主神の了解を得て「高野山」を開いたとされ、高野山や比叡山等の古くからの寺院には敷地内に数社の神社が在り、富山県と石川県の境に在る後白河上皇の勅願社の「石動山」は五社権現と言う寺院の下に五社の神社を持つ形で有り、「赤丸浅井神社」は三社権現の形をとっていた。
高岡市の福田にある「荊波神社 」はその呼名を「ウバラジンジャ」と呼ぶが、この神社はこの地域の「福田庄」が比叡山系の妙法院領になった時に祭神を「ニニギノミコト」の本地仏で比叡山に祀っている「十禅師」を祀ったとされる。(※この「十禅師」は地蔵菩薩の形で祀られたと云う。)
「高岡市史」や「高岡市万葉歴史館」では、この神社が「十禅師」を祀っていた為に「延喜式内社荊波神社」では無いと主張する。従って、本当は砺波市に在って、祭神を越中石黒氏の祖先とされる利波臣の先祖「日子刺方別命 ヒコサシカタワケノミコト」にしている「荊波神社」が正当で在るとしている。しかし、これもおかしな話で在る。この福田の神社は高岡市の観光案内にも入っておりながら、その高岡市自体がその由緒を否定しているのだ。
言うまでも無く「延喜式内社」は国家の神々を祀っている「官社」で有り、何処の延喜式内社も神武天皇以前の神々を祀っており、「日子刺方別命」は神武天皇以後の「孝霊天皇」の皇子である。一方、福田の神社は二上射水神社と同じ「ニニギノミコト」を祭神としており、「延喜式内社」としての条件を満たしている。
(※因みに「赤丸浅井神社」は大国主命の系統の「八河江比売」と、神々を地上に遣わされた最高神で皇室の主要な神の「高皇産霊神」を祀っている。)

■一方、「延喜式神名帳」のどの写本を見ても、福田の神社には「ウバラノ」とフリカナが在り、「赤丸浅井神社」にも「アサイノ」とフリカナが付けられている。「荊」の字はどの古い辞書を見ても「ヤブ、ケイ、トゲ」等の解説が有り、これは野バラやグミの木の様に野性のトゲのある植物を意味し、これでムチを作って罪人を打った事から「刑罰」とい言葉が生まれたらしい。更に、「波」については「ハラ」と読ませるケースが見当たらない。とすると、フリカナの文字通り福田の神社を読み解くと、「ウバラノ ヤブナミジンジャ 」と成り、何と「延喜式内社荊波神社」は「ウバラノサト」に在ると解説している事が分かる。

■そこで、この高岡市福田地区周辺の地名を探して見ると、この地域には「祖父川」が流れており、この川は古地図には「ソフ川」と記載されている。更に調べると、この川の名前に近い河川名は越中砺波郡に在った「東大寺庄園杵名蛭庄図」に「速川」の記載が在り、コレが「速川」⇒「ソフ川」⇒「祖父川」と変化した可能性が在り、しかもこの祖父川の下流地域は「高岡市早川地区」が当てはまる様だ。この「杵名蛭庄」には「石黒川」も流れ、その庄園の中に「石黒上里」「石黒中里」が在り、庄園の隣接地区には何と「荊原里」が在ったと記載されている。(※この庄園図には「利波臣志留志」のサインがある。)

■高岡市の『祖父川』下流の高岡市早川地区には「延喜式内社速川神社」が鎮座している。












■奈良文化財研究所にも勤務され、「東大寺庄園図」の権威である砺波山居村研究所所長の金田先生は、この庄園「東大寺庄園杵名蛭庄」の比定地を高岡市戸出地区辺りとされているが、実際にその庄園の中の河川敷の位置や神社の位置等を検討して見ると、この庄園は小矢部川寄りの高岡市立野地区から、池田・東石堤地区、高田島辺りに該当する様だ。それに、古代~中世にかけては小矢部川自体がもっと西側の西山丘陵のすぐ下を流れており、庄川の支流が赤丸浅井神社前で小矢部川と合流して大きな淵になっていたと浅井神社には伝わっている。とすれば、この庄園の位置も、もっと西側にズレていたかも知れないのだ。
従って、これ等を総合すると、この庄園図に登場する「荊原里」に「荊波神社」が在り、この神社は文字通り「ヤブナミジンジャ」と呼んでいた事が考えられる。
それでは何故「波」を「ハラ」と呼んでいたいたのか? それは単純にこの「東大寺庄園杵名蛭庄図」に「荊原里」と記載されている事を知らず、たまたま「荊」の字が共通していた為に、地域の神社に対する身贔屓と越中石黒氏の先祖の利波臣への信仰が在った為に無理矢理「荊波神社」を「ウバラジンジャ」と読み替えて「延喜式内社」を主張したものと見られる。

■平成29年、「国立歴史民俗博物館」は「東大寺庄園杵名蛭庄」の位置について「富山県高岡市立野周辺」を比定地として「庄園データーべース」に掲載した。


■神社は信仰を基礎に成り立っており、その神社の歴史を故意に改竄して、理由も無く地域の信仰を奪う事は絶対に許されない。その神社を信仰する地域の人達の心情を著しく傷つけ、憲法の「信仰の自由」も侵している。従って、私の意見に高岡市が反論するならば、正当な証明が必要になる。「神道」や「神社」を論じる時にその神社の「由緒」や「神社庁」の記録は重要だが、『歴史学者』や学識の高い大学の『学者』等が『神道を学ばずに、神道を論じる』事からそもそもの誤りが起こっている。又、古代社会はその底辺に『神道』の信仰が在った事も当然乍ら考慮されるべきだ。そうすると、『神道』を知らない人間が『歴史』を論じる事自体がナンセンスと言える。
高岡市が仮に誤ってその意見を公表しているならば、地域住民に対する丁寧な説明が必要だろう。宗教施設の「神社」は敷地や建物等を地域住民が継続的に資金を出し、朝夕に草取りや清掃をして維持管理をしている。その神社の維持には地域住民の並々ならぬ努力と崇敬が払われている。それをその管轄する行政当局が簡単に考えて否定しているのなら、それは正に「ふざけた事」である。言いっぱなしでは済まない事だ。
これでも尚、高岡市はオウムの様に「前向きに善処します。」と言い続けるのだろうか?

※ 高岡市の「和田地区」は前田家の占領政策で、赤丸村西円の住民を強制的に移住させて開いた地域で在り、近くの羽広諏訪神社の拜殿も赤丸浅井神社の拜殿を移設したものだ。前田家の占領が終わった今日でも、その後継の「高岡市」はこの地域住民を迫害し続ける積りだろうか? (※「城端別院文書」富山県立公文書館、「富山県神社誌」神社庁)

又、この地区の一角の「福田六家地区」は『五位庄』に含まれ、「赤丸浅井神社」の神官が関わっていた神社だ。
更に、『福田庄』は、古く鎌倉時代には『後鳥羽上皇』の中宮「任子」を輩出した藤原摂関家長者「九条兼実」の一族の「慈円」の庄園であり、隣接の「越中吉岡庄」は正に『後鳥羽上皇』の庄園で在って、この地域が密接で在った事を窺わせる。

■『高岡市万葉歴史館』はそのホームページで、『ヤブナミの里』は「砺波市池原」の事だと説明している。この説に拠れば、『ヤブナミの里』と『荊波神社』は何れも「砺波市池原」の事になるが、『延喜式神名帳』を良く読んで頂ければ、『荊原の荊波神社』と説明されているので在り、「東大寺庄園杵名蛭庄図」に記載される「荊原の里に荊波神社が在る」と言う事に成り、高岡市や砺波市の『荊波神社は砺波市の池原に在る』と言う事にはならない。
従って、『延喜式内社荊波神社』はこの『杵名蛭庄図の荊原里』の記載と合わせて考慮すれば、その祭神が天皇の先祖神に当たる『ニニギノミコト』で在る事からも、高岡市福田の『荊波神社 ヤブナミジンジャ』がその神社であることが理解できるだろう。




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