赤丸米のふるさとから 越中のささやき ぬぬぬ!!!

「勧進帳」の真実、富山県高岡市福岡町赤丸村の消された歴史⇒「越中吉岡庄」から「五位庄」へ

💠🔹 「越中吉岡庄」に移り住んだ「宇多派刀工」と江戸宇田川氏・歌川国芳!!

2021-04-20 | 旧町名 富山県西礪波郡福岡町赤丸

●浮世絵の「歌川国芳」等の使用した「歌川」は元、「宇田川」から変化したと言われ、「宇田」は「宇多天皇」を祖とする「宇多源氏佐々木氏流」の「宇多刀工」の一族の末裔とされ、本家だけが「宇多」を名乗り刀剣にも「宇多」の姓を「銘」に刻んだと云われる。分家筋は「宇田」や「鍛冶」と名乗り、「宇多刀剣」には直系以外は「姓」を打ち込めなかったと云われる。




■「越中吉岡庄」に南北朝時代に奈良県宇陀郡から移り住んだ刀工の一派の祖「宇多国光」の刀







■『越中国吉岡庄』に栄えた「宇多刀工」と「渋谷区宇田川」(※Wikipedia)
⇒(※「吉岡庄」は南北朝時代から「五位庄」と改名)
Wikipediaに興味ある話が記載される。室町時代から関東に「宇田川氏」が栄え、渋谷区には「宇陀川」と言う河川が在ったと言う。この「宇陀」については大和国宇陀郡に起こった「宇多刀工」との関連が在る?ともしている。
「宇多氏」は「宇多源氏」の祖の「宇多天皇」の末裔の「宇多源氏佐々木氏流」とも云われ、「越中吉岡庄」を「後院領」とされた「後宇多上皇」が院政を敷き、南朝の「後醍醐天皇」を即位させられ、後醍醐天皇の皇子宗良親王が「浅井城」に入城された時に「吉岡庄」へは宗良親王と共に戦った南朝の重臣で伊勢国司の「北畠親房」の輩下の「大和国宇陀郡」から「宇多派刀工」が呼び寄せられたものと見られる。







【●『宇田川氏』(武蔵国)
武蔵国の宇田川氏とは、15世紀頃から品川や葛西など東京湾岸に定着した豪族である。地域によって、佐々木氏庶流もしくは上杉氏庶流と伝えられる。
■宇田川氏の由来については諸説ある。
一説に、宇田川氏の由来は、渋谷を流れていた宇田川であると言われている。渋谷区史によれば、その一帯は古くから「宇陀野」(うだの)と呼ばれており、宇田川は当初「宇陀川」と書かれていた。宇陀野の由来は定かではないが、宇陀は『日本書紀』や『古事記』にも登場する奈良(大和国宇陀郡)の歴史的地名であり、奈良の同地にも宇陀川という河川が存在する。
宇田川は東京によく見られる姓として知られているため、宇田川を名乗る一族が河川の宇田川や渋谷宇田川町を開発しその名を残したという説も、根拠に乏しいものの地誌などでは根強くある。実際に、宇田川氏が開発し「芝宇田川町」と名付けられた町が現在の港区内にあった。渋谷宇田川周辺から出た一族がその地にちなんで宇田川を名乗り始めたわけではなく、宇田川氏が渋谷宇田川の名の由来であるとするならば、宇田川氏の由来が問題である。この場合、一族が分かれ出たとされる宇多源氏佐々木氏の祖宇多天皇に由来するという説、刀の名前に由来するという説が可能性として残る。

■『江戸鹿子』では渋谷宇田川について、「宇田」という刀が落ちた川であることから宇田川と名付けられたという説が紹介されている他、浦安市の有形文化財・旧宇田川家住宅では上杉定正愛用の刀「宇田丸」にちなんだ家名であるとしている(刀剣につく「〜丸」は一般に愛称で特別な意味はないため、名前としては同一視できる)。「宇多」と呼ばれ「宇田」とも書かれた刀剣としては、実際に「宇多派」と呼ばれる刀工一派のものとして存在する。宇多派は、鎌倉時代末期に大和国宇陀郡出身の宇多国光が創始し、ちょうど宇田川氏が歴史に現れる室町時代に栄えた一派である。刀説もまた証拠に乏しく伝説の域を出ないが、渋谷宇田川の由来と同時に宇田川氏の由来も説明できるものではある。
⇒この「宇田川氏」は浮世絵の「歌川氏」の祖に当たるとも記載される。

■2008年、富山県の農家の蔵から国芳を中心とした歌川派の版木が368枚発見され、購入した国立歴史民俗博物館により2009年に公開された。これにより、歌川国芳作品の創作過程の解明および浮世絵本来の色の復元が始まっている。この版木については同年4月12日放送のBShi「ハイビジョン特集 幻の色 よみがえる浮世絵」、5月16日放送のNHK総合「ワンダー×ワンダー 浮世絵 よみがえる幻の色」で取り上げられた。「東都三つ股の図」に描かれているのは「東京スカイツリー」を予見していたとして話題になったが、井戸掘りの櫓(やぐら)ではないかと推察される。】



▼高岡市美術館では開館20周年記念として 『江戸の劇画家 歌川国芳の世界』[会期/2014年9月9日(火)~10月19日(日)]が開催されている。

▼大和国宇陀郡は神武天皇を大和に導いた『ヤタガラス』を祀る『ヤタガラス神社』が在り、南朝の後醍醐天皇はこの神社を崇敬された。宇陀郡は南朝の武将北畠親房の家臣の沢氏等が統治していた国で在り、南朝と密接な国で在る。宇陀郡から「宇多国光」が「越中吉岡庄」に移り住んだのは「吉岡庄」(※高岡市福岡町赤丸の延喜式内社赤丸浅井神社周辺)が 後白河上皇から後醍醐天皇迄伝領した「後院領」と呼ばれた皇室庄園で在り、越中での南朝の牙城で在ったからで在り、興国三年には後醍醐天皇の第八皇子宗良親王が吉岡庄赤丸浅井城に入城されている。
宗良親王は北畠親房と共に南朝軍として戦っている。






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