高田博厚の思想と芸術

芸術家の示してくれる哲学について書きます。

愛と詩・芸術の人間存在論 覚書

2023-01-27 14:02:32 | 高田博厚の芸術哲学

愛と詩・芸術の人間存在論 覚書



 
人間は愛なしでは生きていられない、とよく言われる。それは、人間が本来、時間・空間を超えた本質を有しているからであり、時空を超えたものへの参与なしには自分の本質と一致しないからである。それを最もよく啓示してくれるのが愛の経験なのだ。最も内面的であるがゆえに外部的なもの(時空)を超えている人間本質、それは主体性と間主体性という両極性において現われる。
 愛は本来、時空を超えた形而上的なものである。そしてそれは人間の本質と一致する。ゆえに人間は愛なしには、つまり時空を超えた自らの本質なしには、人間らしく生きていられない。
 このこといっさいは、真剣に真面目に受け取めらねばならない。
 そしてここに詩と芸術の意味がある。愛の、形而上次元の、扉を開くもの、確かめるもの、として、詩と芸術はあるのである。詩と芸術によって人間は人格的な愛に直接に目醒めもするのである。
 ゆえに愛と詩・芸術には、人間の存在論が懸っているのだ。
 
 
 
 
 




詩と芸術 高田思想とノヴァーリスの「青い花」

2023-01-23 03:14:05 | 高田博厚の芸術哲学

詩と芸術 高田思想とノヴァーリスの「青い花」

2023年01月23日(月) 03時03分03秒

 
芸術には詩心がなければならず、詩は芸術から限界づけるものを学ばねばならない、という、高田思想を、ノヴァーリスの「青い花」にそのまま読むとは思わなかった。普遍的な思想なのだ。詩はこのようにして根源がメタフィジックなものであり、メタフィジックな技として完成する。
 
 
 
「青い花」第八章(148-152頁)
 
 
 
 
人間は根源的に詩人であるのなら、人間は自覚的(意識的)には「詩者」であるよう努めるべきだ。ぼくはこの言葉をはじめてつくった。
「哲学者」が自らかんがえ、哲学を勉強するように、「詩者」は詩を勉強する。
 
 

 
詩という言葉・理念そのものが 僕を立ち直らせた。 
 
 詩人でも詩学者でもなく 詩者となる。
 
 哲人でも哲学学者でもなく 哲学者であるように。
 
 
 
 
 


※[”アランの言葉 片山敏彦の証言 「別の世界」に窓を開く孤独な純粋情感の世界”]

2023-01-03 02:21:58 | 高田博厚の芸術哲学


最初から最後まで、アランの言葉も、片山の証言も、ぼくの文章も、等質にすばらしい!!! '22. 1. 3
___
 
”アランの言葉 片山敏彦の証言 「別の世界」に窓を開く孤独な純粋情感の世界”
日記
2021-05-13 02:21:41
 
 
文句無し。ここからぼくは一歩も出る必要は無い。 
 
2016年05月22日(日) :




アラン

「人間の思想の中には、美しいがゆえに滅びないような部分がある。実はそういう部分がまことの思想である。」

「美はひとをみちびく。何処へみちびくのか? その『何処へ』を言いえたひとは未だ嘗つてひとりもいない。美は真への里程標である。」




片山敏彦の証言
〈マルチネの娘さんが、紙片に、アランの講義の場所を書いて教えてくれ、私はその講義を聴きに行ってみた。霧の深い初冬の夜で、場所はモンパルナスの大通りに近いコレージュ・ド・セヴィニエの講堂だった。時間の三十分前に行ってももう坐るところはないくらい多数の聴講者が集っていたが、その人々の多様さに私は驚かされた。白髪の老人、黒衣の老婦から大学生、女学生などまでさまざまの人々がいた。河盛好蔵氏の話だと、アンドレ・モーロワの顔もしばしば聴講者の中に交っていたそうである。
 ・・・・・・
 アランの講義から自分の室へ帰った夜の、特色のある心持を、私は時の経つにつれてますます良く回想することができる。・・・それはほんとうに自己自身の教養と自己形成を楽しみとする人々が、真に思考するひとりのひとのソクラテス的な言葉の周りに、おのずと作った一つの環のようにも見えた。私は哲学というものについてその時まで持っていた概念が自分の内部でやや変り始めるのを感じた。同時に、フランスの文学というものに関して形成していた考えもまた自己の内部で修正されるのを感じ始めた。もっとも新しい大胆な文学的・芸術的・思索的試みの中にも、極めて永い伝統的な、踏み固められて来た方法の生きた伝承者たることの配慮が充分に感じられたし、また、あらゆる創造的精神の仕事は、その外形がいかにあれ、常に相通じ、照応して同時に全体を押し進めて行く義務を分担している、ということの自覚が顕著に感じられた。〉

 

 

これら言葉と証言のすべてに共感するぼくは、自分が一個の歴史的存在であるという静かな誇りを持っている。





これこそ前節に書くべきことかもしれないけれども、裕美さんのバッハを聴いてもZardを聴いても、変らないことは、ものさびしい秋にかえって魅了されるというきみの、孤独に向き合える心の態度ですね。純粋に自分と向き合い自分と対話していて、そこに集中するかぎりで聴者のことを忘れきって自分の世界に入りきっている。孤独な純粋情緒、それをどんな曲の演奏を聴いても厳かに感じる。自分をまったく孤独に置くことによってしか ほんとうに感動させるものは生れず、そこまで自分と向き合えるひとは必然的に「神」に面している、ひとことも神という言葉を言わなくともそれだけいっそう純粋に自分の「超越者」に面している、それがいつもきみの演奏のきみだけの響きの世界からぼくが感じていることなのです。そのようなきみが、ロマン・ロランがみずからのピアノ演奏を、特別に人間を認めたひとにしか聴かせず、けっして大勢の人前で弾こうとはしなかったように、きみは芸術の本質である「自分との対話」になりきることのできるひとであって、だからぼくはそこに、「別の世界」に窓を開くようなきみの演奏に、いつも「祈りの世界」を感じるのだろう。そう思っているのです。(人前での祈りはけっしてけっしてありえないことはイエスの言っている通りです。)

アランのいう「美がみちびく処」、其処へ、きみがみちびいてくれると ぼくは本気で思っています



 
 






彫刻家・高田博厚における「自然」と「神」——アンドレ・マルローの美術論と比較しつつ——

2022-11-10 23:50:20 | 高田博厚の芸術哲学


(高田博厚  芸術論)

 2022年05月16日
 
≪彫刻家・高田博厚における「自然」と「神」 ——アンドレ・マルローの美術論と比較しつつ——≫
 
古川正樹
 
 
彫刻家・高田博厚における「自然」と「神」、というテーマは、いまの私の課題としているものである。「自然」と「神」は、抽象的概念で言えば、各々、「世界・内在」と「超越者・超在」と換言して大過ないものであろう。このテーマについて、私のだいたいの見通しはついているつもりであるが、最近、美術論者としてのアンドレ・マルローに関する精緻な邦人研究者の著書を読んでいて、高田とマルローとの間に、本質的に緊密な思想的照応と一致がみられることに嬉しい驚きを覚えている。両者は1900年生れの高田が一歳年上であるだけの同時代者どうしであり、歳月が長らく疎遠にしていたが知友でもある。高田のほうからは、みずからの著書のなかで、マルローの、「芸術は反-運命である」という根本見解への賛同をしめしており、何度も重ねられたマルロー来日の多分最後の公的訪日の際は「四十年ぶりの再会」を果たし、「あなたは今回の日本講演で、《芸術は〈神〉を求めている》と言ったが、日本人にはなかなか解らないだろう」、と告げたこと等を記している。ともあれ、両者は、人間の創造的営為を総括する呼称である文化・文明の一本質である「芸術行為」についての理解で、内実ある照応・一致を多く示している。両者の思想の間には、両者各々の思想の真理性の証言を他方に見いだすこととなるような関係が、多く望まれる、と私は感じかつ見越している。このような相互照応は、両者の思想の普遍性を証示する方向に導くものとして重要である。
 
私としては、両者の思想を比較する際に、とくに、その存在論的価値論に注目したい。これは実質的には、拙著(『形而上的アンティミスム序説 ―高田博厚による自己愛の存在論―』)で、私が打ち出した考えと同じである。すなわち、人間の芸術創造の行為においては、高い精神的次元(魂・神)からの、人間への「呼びかけ」があり、これへの個としての芸術家の「応答」が、人間の芸術行為となる、という考えである。「価値」からの呼びかけに、人間が応え、内在世界を超越する永遠な本質をもつフォルムを創造することが、芸術行為である。これによって人間は、時間と死の鎖に繋がれながらも、この鎖から解放された一面もある存在であることを、自他に証するのである。ここに、真の芸術作品の本質的意味がある。この解放は同時に、人間の、世界からの解放、すなわち、与えられたものとしての「自然」からの解放でもある。ここで、私の課題の観念でもある「自然」とは、乗り越えられるべきものであると同時に、芸術行為に、大事な足場を提供するものでもある。内在世界とは、そのような二重の意味をもつものである。そしてこのことは、芸術行為がけっして自然の「模写」ではないことをも明かしている。高田とマルローの両者が渾身から強調するのもまさにこのことである。たとえ、とくに高田が、哲学者アランの弟子として強調するように、「自然」は想像力が宇宙引力の圏外に逸してしまうことを防ぐ、「もの」の意味をもつものであるとしても、である。
 
人間は、無から創造するのではないにしても、自然あるいは世界を前にして、あるいはそこに投げ込まれて、その不可測の運命に明晰な意識のかぎりを尽くして抵抗し、この運命を克服しようと努力しつつ、なお挫折するとしても、まさにその経験にもとづく芸術行為において、この自然あるいは世界を、超越的な価値の呼びかけに応えつつ自己内面で創り直すことによって、人間自身の不死性の側面を証するような存在である。この芸術行為は、人間が人間として存在するようになって以来、人類的・普遍的に、まさに人間存在の証として、その跡を地球上に刻み遺してきた。そしてわれわれに、いまなお人間なるものを想起させ覚醒させつづけている。そのように両者(高田とマルロー)は、人間にとっての芸術の根源的な存在論的価値を断定している。両者ともに、宗教の対象としてではなく、普遍的な志向において、「神をもとめて」と呟きながら。真の「人間主義」を、「人間の尊厳」のために、両者はここで同時に高らかに宣言しているのである。なぜなら、「神」と象徴的に呼ばれるような存在論的価値こそは、「人間」そのものの価値の礎だからである。
 
「神」がひとつの象徴的観念となるような境地としては、日本の那智の滝を前にして、マルロー自身が窮極の存在観念「包括者」l’englobant ——あらゆる特定性(規定性)を超越するヤスパースの窮極的存在概念das Umgreifendeの名辞と同等——に目醒めたという出来事などが、よく知られているものとしてはあるだろう。
こういう境地の成立する文化的背景に関しては、つぎの記述などが参照されうるだろう:≪はっきりと確認すべきは、(個々人の意識世界における美術作品収集である)空想美術館なる(芸術作品の自律性を前提とする)ものが本質的に現代ヨーロッパという不可知論的文明のもの(であり)、宗教的に寛大な文明にしてはじめて可能になったものだということである。≫(中田光雄『諸文明の対話 マルロー美術論研究』124頁)
 
 なお、マルローは芸術の本質論を展開しているが、その具体的例証である足場は、世界の美術(絵画・造形・建築)遺産であるので、私がここで「マルローの芸術論」と言っているものは、「マルローの美術論」と換言したほうが、より適切な印象が抱かれるだろう。いずれにせよ、このような脈絡において、いま高田博厚論で私がテーマにしたい二観念、「自然」(現実世界)と「神」(超越的価値)を考察の軸にして、二人の現代思索者の思想を比較的に勉強することに、私は関心をいだいている。そこにおける根本動機は、人間の芸術行為の、人間にとって根源的かつ必然的な意味を掘り下げてみたい、というものである。この二人には、人格的な信頼を置きうるから。
 
 
ここまで主にマルローについて述べてきたので、高田博厚の芸術論について一言しておきたい。
 彫刻家でありつつ音楽にも造詣が深い高田は、音楽を語る際、数学に言及している。形而上的なものには、数学的な節度(ムジュール)がある、という感得からである。原語 mesure には、節度のほかに韻律、拍子という意味もある。まさしく音楽の基本要素である。形而上的感動をあたえる造形作品にもこれがあるという感得が、高田の芸術理解である。高田が「自然」について語るときも、この節度、規範の意識が、不可欠に伴っている。マルローの言う、芸術家個人の「様式」(スティル)における、その都度の実現としての「形態」(フォルム)の問題に相当する。いわゆるあるがままの自然が、ほんとうに問題となるものなのではない。彫刻家マイヨールもそれを言っていた。空の雷鳴などは騒音に他ならない。だからこそ、他面から見れば、自然そのものが数学的構造を持っているかどうかということが、大問題となるのである。著述「音楽と思い出」のなかで高田が触れていることである。自然そのものと、われわれがその前に立ち創造の範とする自然とは、同じものなのか。「形が動きのなかに隠れているから、その形を取り出さなければならない」、とアランは書いていると、高田は屡々記している。このアランの言葉のなかでの「形」が、「ムジュール」を示すものだろう。その美の「形」は、恣意や思いつきの産物ではない。ここで、芸術家の、「自然」の前での謙虚な態度ということの意味を、正しく理解しなければならないのである。そのとき、範となる自然は、すでに、「形あるイデア」を暗示している。このように、「自然」は、両義的なのである。《自然の音、風のそよぎや鳥の鳴き声など美わしき騒音はまだ音楽ではない。けれどもこれらなしには人間に音楽は生まれなかった》(「古い音楽」高田博厚著作集 III、303頁)。
 謙虚な意識態度で、自然を前にして、その自然に感動するとき、また、そこから芸術家が創造したフォルムに感動するとき、われわれは、同時に、そこに映った自分の魂に感動しているのだろう。高田の「触知」という表現を用いるなら、そこにおいて窮極的にわれわれは「神」を触知するに至る。真の美とはそういうものであろう。このことを、不可知論者マルローも、「神なき現代」において宗教の意味を代替する芸術の意味として、肯定するはずである。
 
 
(以上、論考草稿の記録)
 
 
備考
 
〈自然〉(現実世界)と〈神〉「超越的価値」が考察の軸 
 
芸術の本質は、時間や死を超える意識を人間に惹起するような形態(フォルム)を創造することにあり、そのようなフォルムがと呼ばれる。しかも、この創造は、或る魔術的効果を狙った意図的案出によるものではなく、芸術家がみずからの個的根源から、超越的価値の呼びかけに応える行為として為されることが、傑作の創造のためには本質的なことである、とマルローは理解している。かつて高田博厚論を書いた私としては、この芸術本質の理解に全面的に共感する。
 
 
 大枠からすれば、高田とマルローの両思想は、可能的実存としての人間は世界を通して超越者の暗号を聴取し解読する、とする、現代の実存哲学者ヤスパースの根本思想におさまるものともとらえられる。