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南風北風―ぱいかじにすかじ―  by  松原敏夫

沖縄、島、シマ、海、ことば、声、感じ、思い、考え、幻、鳥。

那覇の喫茶店で折口信夫の低い声を聴いた ― 清田政信「潮の発作 釈超空に」論

2024-01-06 | 詩人論、作家論、作品論

この作品は1978年10月に出した4冊目の詩集『疼きの橋』に入っているが、あとがきの「ノート」で清田政信は詩集の発生の動機について書いている。

「詩を書くということは、自らの遠い出自を現在に現出するという行為と深くかかわっているかもしれない。地方の都市にいてなにか自らの生が希薄になり、生の根拠がくずされるという感情にみたされる時、いつでも遠い出自を喚起した。そして東京を小さくしたような那覇で、生活の内質がうすれるような時、村にかつて在った日の、あるいは今でも私の感受性の原質をかたちづくる村の体験は、言葉のちからによって蘇り、現在の生に遠近を展いてくれたようだ。」

詩の生成への情念と論理が、わかりやすく書かれている。詩集は1976年8月から1978年9月の2年間にかけて発表あるいは未発表の作品を収録している。単純に考えて、その2年間の清田の詩想の境地を表出したものといっておこう。ここには自己形成の再体験から生の蘇生と存在の把握へ歩む詩的言語を注いでいく方法をも語っている。こういう自己史のディテールの喚起を辿ると何かがみえてくると企図しているといえるが、清田は「近代というもの」を自己体験と交叉させた断層にたちあらわれたものに対峙する方法からことばを編み出した詩人だと思う。近代の甘いサウダージではない。ぼくらは誰も近代をまといながら生きているわけだから先天する島的身体性の断層と近代の明暗を生きる磁場から逃れることはできない。現在の生の精神にうずくアポリアがあり、近代をどう超えるかという古い命題を迷路のごとく自意識のなかに落としながら、現代という時代に佇んでいるということを自覚すべきである。清田がモダニズムや荒地派を批判するのは、かれが出自と対峙し相反する日本近代の牙城、東京=都市への精神的生理の異和と隔意があるからだ。

私が『那覇午前零時』を1977年に出したとき、清田政信に解説を書いてもらったことがある。時期からすると、『疼きの橋』に収録した作品を書いている頃だろうと推測する。解説の題は「試練としての近代」である。そこにこう書いていた。

「沖縄で〈近代〉をかんがえるのは憂鬱である」(試練としての近代)

「詩を書くということは、近代の風俗としての現象に対峙する出自の自覚という面と、村という共同の感情から身をそぐように意識を分離していく二つの面を持っていると思う」(同)

「南島はいま〈近代〉の圧倒的な浸蝕を前にして思想する者の根拠が問われている。云うなれば近代は不可抗力として機能しつつあるけれども、またそれに対する精神の位相が確定されていないということかもしれない。」(同)

「「荒地」派から六十年代まで続いた現実からの孤立の中で思想を試す困難にきているのがこの青年たちだ。」(同)

こういう文章を交差させると、いかに清田政信が近代の南島への浸透を敏感に感じ取り、出自と自己形成の磁場を近代と遭遇させ宿命的な隔意をもっていたかがわかる。沖縄において近代は「憂鬱」であり「試練」という。シュルレアリスムだけでなくモダニズム言語やモダニズム表現を好んでいた当時の私への批判と警告があったわけだが、清田の思考法、詩想からするとモダニズムへ安易に入って行く私の書き方を批判するのは当然であったわけだ。いまならポストモダン的思考と相対して語る魅惑を感じるが、消費資本主義社会が未達の当時の沖縄の島や村をポストモダンで語るにはあまりにギャップがありすぎる。だから、そんなポストモダン的な語法で土着、風土、島、村、人間を語るのは似合わない。

日本現代詩の現在は北の首都を中心に、ことばの錬金術と知識に長けた秀才たちが知的ジャーゴン語を競っているようだ。先ゆく現代詩への遅々感と内なる狭小感と隔意を持たざるを得ない。この隔意は〈絢爛たる空虚〉で踊っている現代詩にあきあきした辺境からの本音だ。詩はここまできたか、現代詩はもう読まなくてもいいかな、知的ジャーゴン界の者たちがジャーゴン語の祝祭を楽しめばいい、辺境では〈現代詩〉よりも、〈いわゆる詩〉のもつ差異的創造の詩魔で行方を照らすのがいい、と暗澹たる岸辺で佇んでいる。………と思わぬ反語的感想を示したが、ここでは、「潮の発作」をとりあげて清田政信という詩人の内界を〈古典的な〉見方で自己流読解することを試行したい。

「ノート」に書いていることを秘密、動機とみれば、「潮の発作」もそういうモチーフのなかで書かれたと解釈しなければならない。ひとつの作品を分析的にみるとみえなかったものがみえるようになることを希求して読んでみよう。

 

しきりに波のくずれる音がする
コーヒーをかきまぜていると
夜の中心に堕ちてゆく陽があり
みえない闇へひとすじに走っている道がある
真昼の木洩日にめいていしていた
少年の放心の底へ行きつくには
このひとすじの道を一目散に駆けていけばいいのだ

 

冒頭。場所は那覇の地下喫茶。そこで詩が書かれる。喫茶店が詩人の仕事場だ。喫茶店で詩を書く詩人に山之口貘がいた。貧困と詩を切断しながら貧困を詩に取り込んだ詩人だ。貘を貧乏詩人とか生活詩人とか精神貴族なんていうひとが多いが、こういうパラダイムは手垢がつきすぎて鈍感になるから、現時点から新たな読みをする必要があると私は思っている。だがここでは触れない。

清田が家で書かないのは、理由がある。

「せまい間借りで幼い娘の寝息をききながら詩を書くということは、何か犯罪的な意識をともなわざるを得ない。」(「わが詩法」、「南北5号」、1976・8)

と書いていて、それから書く場所をさがして「古びた喫茶店」「地下喫茶」で書くようになったと告白しているからだ。これは私もよくわかる。生活する部屋で詩を書く気分が出ないと、車で海辺にいって波の音と風に吹かれながら書いたこともある。なんでこんな道楽をしているんだろうと思った。狭いアパートで暮らしていたし、3名の子供を抱えて生活に四苦八苦しているのに、生活と関係のない文学にうつつをぬかす自分の行為に、吐き気したことがある。そのため、文学をなかば捨てるように、狭い部屋を占拠している蔵書を古本屋のロマン書房に五千冊ほど売り飛ばし、しばらく書くことから離れたことがある。文学より生活を優先するために。なんとも不器用な錯誤を実行したものだと思っているが、悔いはない。文学を一度は捨ててみる。そういう経験が文学するものには必要だ。私には文学(詩)をするものはコウフクであってはならないという偏見があるようだ。

「しきりに波のくずれる音がする」。これは記憶の聴覚から生まれるインスピレーションだ。次は近代の飲み物であるコーヒーをかきまぜる。この行為はカフェでの習慣だ。だが、その行為は波のくずれを聴いているから習慣の行為ではない。詩人は波の音を聴く自覚的な幻覚におそわれている。コーヒーをかきまぜる行為にさえ、詩のエクリチュールに取り憑かれているのだ。憑依と求心としての記憶の回想化を頭脳に浮き立たせ、「夜の中心」というメタファがはじまり、そこに堕ちる、移動する。これは詩の生成の流れの姿である。どこへ堕ちるのか。少年期の、村の、道の、海の情景に、だ。そのとき現在の夜は「真昼の木洩れ日」に転換している。聴覚から幻覚に憑かれるように記憶の像があらわれ、次第に詩的記憶、想念の興奮の渦を創造しながら巻き込んでいく。つぎに出るのが「闇へひとすじに走っている真昼の道」だ。したがってその「道」は、ただの道ではない。作者の現在を貫くなつかしくも苦い像としての「ひとすじの道」だ。その道に「一目散に駆ける」という行為が衝動するのは忘却を破って駆ける出自の奪還だ。少年は彼であり今の彼自身ではない。出自を代弁する象徴としての少年である。

「波のくずれる音」は清田の精神生理と照応する。清田は海についてよく書いた詩人である。「沖縄・私領域からの衝迫」という連載エッセイがあり、「折口信夫にかかわりつつ」(以下「折口信夫―」)(新沖縄文学51号、1982年3月)の冒頭でも海について書いている。

「海を見ればなんであんなに心が静まるのか?今日の海は荒れているのに、その波のほてりのごとき腥い力に言葉を失っていた私の精神はつよく感応するのだ。私らが島に生まれ、海に囲まれて生きている限り、この関係は精神の生理の深いところで結ばれているはずだ。………略………海は荒れていても、あからさまに生の流動の無尽を見せてくれるから、私は安心してその流動に私の流れんとする暗い力をゆだねることができる。」

「海」についての感受性の表出は「海への思索」や「柳田国男にかかわりつつ」にもある。清田の詩には島での共同体への対峙からくるポリフォニックな言葉の産出があるが、ことばを韻律のごとく包容して覚醒させる「海」の感受性がよくでてくる。「絵の描けない少年」「南半球」「鎮魂の唄」「深夜の海に風がたち…」も海の感受性で書いた作品だ。「海」を取り入れた作品、詩句はほかにも随所にでてくる。海と向き合って自らの感受性やリズムを形成する感応的なものに私も同調する。その感応は海に近い地で生まれ育った私には別の形ででてくる。私の島の幼年期は海が遊ぶところであった。光景としての海ではない。海そのものを相手にその懐の中に入る、遊泳、浮き、潜水とか遊ぶ場所としての海であった。学校が休みになると毎日裸になって珊瑚礁の白い砂浜を仲間とともに駆けまわり、海に入って砂地を歩いたり泳いだり浮いたり潜って魚をさがして銛で刺したり、とにかく海が好きでそこで遊ぶのが日課だった。海が荒れていると、その荒れに心を当てながら心を鎮ませた。なぜあんな無辺大の大きな海水への畏怖感を感じずに無邪気に海に入ったのか。今思うと幼年のその遊びは「母なるもの」の羊水への無意識の回帰行動だったかもしれない。だが海が怖いことも知っている。あるとき仲間のひとりが溺れ死ぬ事故があった。初めて死者に遭遇した経験だった。悲しかった。それから羊水のように無意識に感じていた海が実は畏怖すべき深い生き物で人の命を奪うものであることを改めて知った。それから凪や荒れに敏感になる自分がいる。

あのカンタータとカノンのような海の揺れとさざ波は、感応的であり、情感的であり、島の人間の感情の照応や陰翳を表現しているようだ。沖縄三線音楽の弦の奏でるリズムは海の波を表現している。時にゆっくり、時に激しく奏でる、沖縄音楽の韻律は海の波の音を聴覚と音感にきわだたせた旋律とリズムであり、聴覚に植え付けた長い習性から生まれた自然のリズムだ。沖縄に生まれたものは誰でも海と波のさざめきを内面の音感に持っているはずだ。

 

陽は夏のなまぐさいけものの
飢えた腹のごとくなめらかにうるんで
怠惰な心をやさしくあやめている
突然むきになって母と諍い家をとび出すと
道は処刑場のごとく静まり
陽が身をのべて眠っている

 

作者の根にあるかつての過去が消滅しないで想起される情景にある。像はそこに存在する、あるいは、行為した世界を引きずり出した、その世界。あれは何だったのか、と回想する。幻覚に憑かれる島、村。南島の村、久米島、の太陽は明るい。まぶしすぎる。作者はこれを「なまぐさいけもの」としりぞける。ゆえに「獣」は「けもの」に解体される。「飢え」「なめらか」が逆説的に表明される。現在において村や島は、逆説でなければ語れない。平和だが「怠惰」として、平和だが、共同体の桎梏として、平和だが「処刑場」としての空間にある。太陽はまばゆく、「怠惰な心をやさしくあやめている」。これも逆説だ。「怠惰な心」とは虚無だ。ニヒリズムに類似した心だ。しかし少年のエスプリにニヒリズムがあるわけはないから、言葉を足せば太陽に打ちひしがれた村の空気であり閉じた世界への批判だ。自閉はエスプリに目覚め、突然むきになって「母」と諍い、荒れた感情を癒すために「家を飛び出す」。この光景は近代文学で頻出する、いわゆる自我の目覚め、発露の光景とみえる。「突然」はそうではなく次第に離反するエスプリの表情だろう。「母」は母胎であり、故郷であり、愛憎の自然であり、自立を促す存在だが、少年のエスプリにとって自然、夏、太陽、けもの、母、共同体は受容しながら依拠と同化を拒む対象だ。だから「道は処刑場」になるのだ。視覚を遠近する道が処刑場になるとは、なんという反土着、反風土、反共同、反母郷、反血族の場所なのか。この像の世界は想像ではない。リアルのあった世界、実際の出来ごとの世界、経験の世界だ。

 

それにしても異郷はまだ
少年の自閉の中で青桃の未熟さをたもち
波の押し返す放心の水際を
しきりに飛翔する白鳥が
徐々に島痛みを深めていた
島に在り 遠さを病むとは
また何と歓喜に近いことか!
今 陽の庭で腕を差しのべると
指の先からそのまま
異郷の想念がはじまる
何のさえぎるものもなく
異郷の夢の漂流物は空を移動する

 

「異郷」は少年にとって憧憬のようにまだあった。「異郷」を想う思念は近代の主題であり、罠であり、解放であり、希望であり、絶望であり、決別であった。少年の内部は「青桃」のようにまだ未知だ。ならば道は近代の未知だ。何もない島の村にいる自閉少年には躍動する海の波は癒しとなる。波がしぶきをあげ白くなると白鳥のようにみえる。その白鳥が飛翔する。白鳥は少年の魂の比喩だ。その魂の白鳥が「しきりに飛翔する」。だから魂の飛翔を「異郷の想念」にたきつけるようにしなければならない。ここに少年の精神形成の夢の反語が果たされ、ついには、それは「島痛み」として感受される。

離島の島の少年が「島痛み」をもつのは生を自覚し希求するときに出会う運命である。いや必然である。そして苦い。欠乏感、飢餓からの脱出、海の彼方への出航にいかにあこがれたか。島に生まれて島に生きた当事者でなければわからない。「島に在り 遠さを病むとは/また何と歓喜に近いことか!」。これは「ここではない世界」の発見の歓喜、島の少年が通過する彼方への放心の快楽、スキゾ的な感性、解放観念の覚醒の誕生だ。島での自然や伝統と背離する快楽はこの先アイデンティティの放棄となる運命になる。島の現実に覚醒すると未成の絶望を謳うしかない。これは精神、意識の解放を謳った言葉となる。「遠さを病む」ことが救いであり解放であったのは近代の自我文学の始まりに近い。「遠さを病む」とは「ここ」がもはや「ココ」ではないのだ。これは近代の宿命の情感であり、島のポエジー、詩の精神の発生であるともいえる。「遠さ」とはなにか。「異郷」か。そうだったかもしれないし、そうではないかもしれない。異郷=都市=近代、とみるのはまだ早計である。だが少年のころの「異郷」のイメージは残念だが、都市、近代であり、自我の生理からくるあこがれであった。しかし、これは当たっていて、真ではない。到達の遠近の視点がないからだ。移動する自由を確保したグローバル時代の現在では、だれでも移動心を実践できる。東峰夫の「オキナワの少年」のツネヨシ少年が売春屋を経営する親の家から決別するために小舟を盗んで島からの脱出(移動)を企図したのは理由がないわけではない。自閉した生理的な少年の精神解放の欲望を実践した行為だ。ツネヨシが目指したのは都市ではなく、「ここではない、どこか」だった。「こんなところは、もういやだ」と思うのは誰にもある経験であり、脱出を試みるのは生理の経験として誰にもあるはずだ。ツネヨシも島痛みを強烈にもった少年であった。「異郷の想念」「異郷の夢」は「何のさえぎるものもなく/異郷の夢の漂流物は空を移動する」。これは自由への、少年期にある幼い夢想の表現だ。そう、移動だ。移動には強いられた時と憧憬としての移動がある。ここで少年は曖昧な秩序化されたストイシズムを切り捨てる青い力動をもたねばならないし、アドレッセンスの空虚と不安を打ち砕かなければならない。

 

しきりに太鼓のはじける音がする
コーヒーをかきまぜていると
失語がやすらう傷口が癒える
今日の愉楽は愉楽のまま
少年の陽の庭での
眼にしみる群落のうながす
欲情の破裂をしなやかに躯幹にとじこめて
ひとすじにのびる道を一目散に駆けてくる奴がいる
夜はテーブル珊瑚の淵で赤ダイを釣った少年が
芝生の上で死んだように眠っている
微熱にうるむ肢体を置いたまま
起き上がると すねを洗っていた潮の感触が
真昼の庭で出世以前への回帰をうながした

 

これは聴覚だ。幻覚だ。ここは(地下)カフェだ。この「太鼓」の音は、村の祭りの音か、エイサーの踊りの音か。太鼓の音は波から転身して、いまや胸を打つ音だ。胸をうたれれば、「失語」ははじけやすらう。「失語」とか「発語」とか、ことばの敏感な感応を体験しているから、カフェの詩人はいま自由な瞬間にいる。なんという衝動か。少年は「失語」に自閉した。癒し、行為、想念、皮膚感覚、が新鮮なまま詩的感覚をたたく。太鼓、コーヒー、失語、群落から「愉楽」「欲望」を想い、少年のイメージを生きる回想を駆ける。赤ダイを釣った少年は自然とともにある。作者なのか。わからない。だがその少年は「眠っている」のだ。「「潮の感触」は自然の感触である。その感覚は「出世以前への回帰」を導き出す。「回帰」だって? 回帰というのは最後の方法ではないか。

 

………その昔 珊瑚礁を踏んで
向うの島の母へ会いにいったまま渡れずに
夜になって折り返してきた高貴な若者がいた
だがぼくはどこへ帰ればいいのだ
今 異郷に在って帰るところのないぼくは
ときに憑かれるように
北の山村へ車を駆って行くのだ
そこのきりぎしに立って
潮の回帰してゆく
遠い原境を想っている

 

「………」は折口信夫に関するものなのか、島の伝説なのか定かでない。だが、こんな高貴な若者の「母乞い」はエピファニーにはならない。エピファニーのように啓示を用いたかったろうが、それは「母乞い」に失敗した物語から現在を顕示する必要があったからと思われる。だから作者は現在に戻って「どこへ帰ればいいのだ」というスタンザをつぶやく。これは回帰するトポスが不在であることの表出とみていい。ここで「異郷」とは久米島から離れた沖縄本島の那覇になっていることがわかる。そうか。那覇が「異郷」か。そう、琉球弧にありながら本島以外の島のものにとっては、沖縄本島は「異郷」である。中心である那覇や首里はさらに「異郷」である。琉球弧、ウチナーのなかの「異郷」である。離島と本島に距離があるのは海が隔てる島々の歴史・文化のソウル・トーンがちがうからだ。ソウル・トーンは島の匂いや感触の違いを感受させる。島々の差異は琉球、沖縄、南島という琉球弧語で包括する安易なハイイメージでは語れない。ハイイメージを裂いて中に入らないと、島の距離感や心性のソウル・トーンはわからない。海の彼方には他者を意識させる差異の存在がある。ぼくらはいつもそれを実感してきた。だがそれもポストモダン的にみる必要はない。生の在所を流浪して住みついた場所が那覇であっただけの話だ。那覇にいて「帰るところのないぼく」が肝心だ。つまり詩人は「出自を現在に現出」してもその出自の家や村=というトポスを「帰るところ」ではないとする。だから島には帰らない。出自の久米島は帰るべき場所ではない。本当の詩人にとって「帰る場所」なんてどこにもありやしないというのが真実だ。だから私は清田政信を「本当の詩人」と評価する。この詩が求心的になる頂点の詩句は「潮の回帰してゆく/遠い原境を想っている」とポリフォニーからモノフォニーに収めたところだ。求心の果てに取り出した、この「遠い原境」とはなんだろう。清田は、それになにを見ているのだろうか。ここで次の文章をみる。

「詩の原境とは個人史として言葉もなく生きられる感受性の、遠心と求心への衝迫を二つながら現在の言葉の水準に回復し自覚する謂にほかならない。」(原境への意志、南北3号、1975・11)

こういう言い方を、その詩句に適用してみよう。原境とはあるものではなく、精神でつくるものであり、遠心と求心の両義的な視線からみた不在の原境であるから「不可視の、もうひとつの世界」としての原境へと詩を震わせ、未成のポエジーの闘いを決起することだ。とすれば「潮の回帰してゆく/遠い原境を想っている」は「魂の回帰してゆく/遠い原境を想っている」といいかえてもいい。それがなぜ「北」の「きりぎし」なのか。

清田はかつて「光はいつでも北に湧いた」(辺境、光と風の対話)と書いた。また「身のふり方を案じてつぶやくひとは/みなみへ去るがいい」とも書いた。この北と南へのまなざしは、北が日本で南が南島であることを暗示しているとすれば、ぼくらは北を求望してきたというわけだが、ほんとうに北は光であったのか。北は近代だった。その近代は北からやってきた。「みなみ」は幾人もの北の旅人のおかげで救済されたことがあるのは事実だ。だが、この「みなみ」=沖縄の近代は復帰後、北の本土からのすさまじい資本の投入で、すさまじく変貌、変質してきた。明治から続いた近代の強烈な浸透、本土中央の文化が浸透して「沖縄的なもの」が戦前、戦後復帰前の風俗から衰退するようにみえたが、政治の流動、復帰の決定、沖縄海洋博を契機に本土大企業の電通の戦略で「沖縄的なもの」が全国に宣伝された。が、せいぜい観光程度にしかすぎない。そこで電通はじめ本土の資本、マスメディアはさらなるモメンタムを投入、宣伝し「沖縄ブランド」形成に成功したら、沖縄資本も戦略的に利用し、「沖縄」「おきなわ」「オキナワ」「琉球」「琉球王国」「琉球王朝」「ニライカナイ」「シーサー」「おもろ」…と様々な沖縄的表象を取り出して売りにした。一方、本土側の言論界に基地問題等の沖縄問題を重視する傾向ができ、沖縄言論の欲望の囲い込みを推進し、沖縄の書き手がこれに呼応する言論構造ができあがったし、日本(ヤマト)に相対するかのように琉球回帰願望を持つ者たちが現出し、「沖縄的なもの」の復活を唱え、それは現在、しまくとぅば復興、組踊、琉球舞踊、古典音楽、三線などの伝統芸能や民芸、祭祀、御嶽等の独自文化性の賛美、奨励、首里城再建の興奮という形であらわれている。首里城を「沖縄の象徴」とする汎首里城思想への私の異和感は続くが、こういう傾向から思うことは、これらの文化意識、文化運動は、戦前の日本伝統主義、日本(日本的なるものへの)回帰を標榜した「日本浪漫派」に近いのではないかということである。今の沖縄の文化人、知識人、運動家の大半は「日本浪漫派」の沖縄版「琉球浪漫派」のような意識を形成しているのではないか。「琉球浪漫派」―つまり、近代以前の琉球や沖縄民族文化への回帰、琉球ナショナリズム、伝統を重視する意識の傾向だ。それは昔からあったが、沖縄戦から戦後にかけて経済復興とともに精神復興の形をとってあらわれ、回帰感情から生まれる沖縄アイデンティティと一体化した文化や思想の現出として盛んに露呈している。私はこれを否定はしない。アイデンティティは〈私〉の存在を〈他者〉の存在で自覚するものだから、その相対性をみとめながらも距離をおきつつ、沖縄に生まれた宿命からの自由の形成、その表現、思考の自由な活路を自らに課してやっていくつもりだし、古層を語る書物に近づき引用的に加担するときもある。しかし、流れが(国家)権力化する文化装置に傾くなら反意をもつことを厭わぬつもりだ。「矛盾したものが同居しているのが近代だ」といったのはたしかポール・ヴァレリーだった。「矛盾同居」を今流のいいかたでダイバーシティといってもいい。現代は観念のチャンプリズムにある。

ところで「潮の発作」には「釈迢空に」という献辞がついているのだが、なぜ「釈迢空に」だろう。釈迢空は折口信夫である。なぜ折口信夫ではなく「釈迢空」なのか。釈迢空は折口信夫が歌人の号名として使っているから、清田は、意識的に学者としての折口信夫ではなく、詩人、歌人としての釈迢空をもってきたと思われる。

 

洋なかの伊平屋の島に
いささかの知り人ありて、
渡り来ぬ。我ただ一人

もの言へど 言もかよわずー
もの言はず居るが さびしさ。
 かそかなる家の客座に
 うやうやし 我ひとり居る。

 

賑わえる那覇の湊に、
思ふ子を人にあづけて、
 我ひとり 海を越え来ぬ。
そこ故に 時に思ひ出、
 あやぶさに 堪えざらむとす。

(「伊平屋の村」)

 

清田は「折口信夫―」で折口が沖縄の伊平屋島を訪れた時のことを書いた詩を引用して、折口信夫を〈旅人〉と視座し少年の視線で書いている。そこで自身の少年時の自分をからませている。実は折口のこの詩の最後に次の反歌がある。

 

洋中の島の少年のさびしさを 人に語らば、
さびしからむか

 

折口信夫は、この孤島に「ひとりの少年」が自分をみつめていたことを知っていた。それを「少年のさびしさ」と歌った。清田の視線は、その少年の視線と折口信夫に憑依している。そして「折口信夫―」で島と近代を関連つけて抒情的な心性で語っている。その抒情は「寂寥」である。寂寥、さびしさ、幽か、静寂………は折口信夫が得意とする歌境の感情である。谷川健一は「折口の民俗学は対立、葛藤、郷愁、疎外をモチーフとするいわば不幸な民俗学」(折口信夫再考)と評したし、古くは杉浦明平が「折口信夫=釈超空」で「ペシミストたるはいうまでもなく、したがって、かれの調べは暗く厭世的で閉じこもって」いるとまでいった。たしかに明るくはない。自殺未遂をしたり、コカインを用いて古代の感覚を呼ぼうとしたり、自身が死者に憑依した小説(死者の書)を書いたり、どこか陰鬱で危ないところがあった。またゲイでもあった。だが古文献を読んで誰も気づかなかった古代の感性をつかむ直観力というものがあった。それが折口信夫の独自性や魅力として評価されたりしている。折口信夫=折口学については古代研究、呪詞、常世、マレビト、など断片的な知識しかもたないのでここで語ることはしない。
近代から古代の感覚へ降りる方法をとった、そんな折口信夫に対する清田の共感は彼の論理からみると少し情緒的であるように思う。

「この少年と旅人の関係は近代の観念から無縁な分だけ、近代の終焉へ向かってあるき出そうとする知の受難と浸透しあっている。近代は古代的な感性から切れることによって、人間が誰とも寂寥を分かち合えない存在であることを証明し、もはや寂寥をも明晰にきわめることによってすべての悲劇性からみはなされている。」

「折口信夫の声を低くした歌い口に私は二十年間の浪費のあとやっと親和をもつようになった。」

「過剰であることはそれだけでは何ものでもない。そこには遠近をひらく精神の力がない。彼方へ、未知へ存在を変貌させるきっかけがない。折口信夫は彼方へ憑かれた精神であり、人を彼方へさそうものは簡単なおどろきであり、宇宙へつなぐ魂の原型だということを知悉していた詩人だ。」

「潮の発作」からこの「折口信夫にかかわりつつ」までの間の距離に注目したい。「潮の発作」では釈迢空を意識して出自と少年の回想から「原境への回帰」というモノフォニーを打ち出したが、この論では別の注目すべきことを言っている。近代は「平面」であり「過剰」であり「浪費」であり、「折口信夫の声を低くした歌い口」に「やっと自分は親和をもつようになった」という言い方である。過剰、とは何をいっているのか。観念(知)の過剰を言っていると思うが、私は、それより過剰と切り捨てがからむ複雑系社会であり、ヴァレリーのいう「矛盾同居」の認識が近代(現代)に生きる我々を〈気づきの生〉に向かわせていると思う。資本主義が膨張した過剰は欠乏と並立しながらも、社会的ホメオスタシスを保っている。グローバル化した格差社会の顕現、世界に不満や混乱が渦巻いても、なお崩壊しないでいるのはその例だ。

支配的言説と本質を示唆する書物、語法を相対化しなければ〈バリアント化する現代〉という時代を読むことはできない。それを過剰言説に巻き込まれているといってもいい。私自身闇の中の明晰さを求めて現代の様々な心的現象の表現言語、狂気の問題など色々と思索を試行しているつもりだ。

ここで大岡信の「あてどない夢の過剰が、ひとつの愛から夢をうばった」という有名な詩句を思い出す。清田が折口信夫の「単純さ」や「簡単なおどろき」への感受性の志向をだしているのはなぜなのか。発語、失語、内域、原域、幻域といった不可視の求心するものをずっと主張した清田が時代の変貌と変質を感受していちはやく大岡の「あたしも何とか身のふり方を決めなくちゃあ」というパラグラフを「辺境」という作品に引用したのは、こういうことを言うためであったのだろうか。

        『あんやんばまん 3号』(清田政信研究会、2021年10月発行) より転載


沖縄出身作家・東峰夫の生成と変貌

2021-06-02 | 詩人論、作家論、作品論

  

 

「沖縄出身作家」という言い方は、沖縄生まれで県外で活動する作家に対する言い方である。東峰夫はまさにそういう作家である。(注=正確には沖縄出身の父母としてミンダナオ島生まれであるが、戦後、帰島して、沖縄で育ったという意味で、沖縄出身とする。)東峰夫は戦後沖縄での小説界で、作家をめざして、ふるさと沖縄を離れて、東京に行き、苦節十年成功した初めての沖縄出身作家といっていい。成功した、というのは芥川賞をとった作品を書いたという意味であるが、もちろん小説家というのは芥川賞をとるから作家というものではない。しかし、作家が社会的に認知され作家として知れ渡るのは、なんらかの有名文学賞をとって知られるほうがいちばん早いから、アマチュア小説の書き手は、いつかは、そういう文学賞をうけたいと願っている、といってもまちがってはいまい。

沖縄で現在、作家といわれる人たちは、沖縄地元の文学界で活動して、沖縄内のローカル文学賞(新沖縄文学賞、琉球新報短編小説賞、九州地区芸術祭文学賞………)を目指してとったり、地元で名前を知られることを足場にして、中央の文芸誌に応募して、なんらかの評価を得て、眼をつけられて、芥川賞まで上り詰めたいという作家志望の流れに沿って活動していたといえるだろう。日頃から、作品修行というか、同人誌や地元の新聞紙で書きながら切磋琢磨していた。それがやがて中央の雑誌に作品がのったり、文芸誌の賞を受賞したりしてそのドリョクが報われる日が来ることを期待しながら活動を持続していたはずだ。もちろん、これは沖縄だけに限ったことではない。

作家の登竜門として日本文壇で知られている芥川賞あるいは直木賞は、作家を志すものの目標のひとつであり、他の賞よりも伝統やブランド力があるので、できれば、そんな賞に受かりたい、と念じて書き続きてきたし、いま続けているひとが多くいる。その願望心性には、作家業でいきたいという幻想が脈打ち、だから、中央の文壇で知られるようにがんばっていたはずである。沖縄では大城立裕しかり又吉栄喜しかり、目取真俊しかり、あるいは大城貞俊、崎山多美しかり、地元で足場をつくって中央へという戦略を歩んできた。

ところで彼らは「作家」という存在をどう考えているのだろうか。彼らの多くは職業がなかったわけではない。彼らは公務員だったり学校教員だったり、安定した定職をもちながら書いていた。つまり生粋の文人ではなかった。現在も地元に住みながら書いている、ゆえに「ローカル作家」と揶揄されたりする。そういわれるのは、地元を離れずに書いているからいうのではない。小説世界を意識的に沖縄を題材にして書いているからでもある。しかし、そういうレッテルはどうでもいい。なぜなら作家としての価値は作品が決めるからだ。東京にいようが地方にいようが、作品そのものの価値で勝負するという文学力を信じ続ければいいだけの話だ。グローカル化や情報通信技術が進化した今日、もはや東京だけが日本文学を生産する絶対的な場所といういい方はできない時代になっている。とはいえ、たしかに昔はそうであった。なんでも東京中心という時代があった。谷川雁でさえ「東京にいくな。ふるさとをつくれ。」と詩でかっこよく宣言しながら、やはり東京にいった。

東峰夫の場合、上京する前の地元沖縄での文学活動の詳細があまり知られていない。同人誌をやっていたかもわからない。沖縄でのほかの文学活動への関心があったかもしられていない。かれの本名が東恩納常夫ということもあまり知られていない。かつてぼくらの周囲に文学のために、作家になるために、中央の大東京にいこうという人はあまりいなかった。そんな執念のあるひとはいなかった。地元で頑張るというのが、相場であった。しかし、東峰夫のように地元を相手にしないで、上京して、文学をするというひとがいたということを知ると、驚嘆でもあり、勇気のあるひとだと感心しなければならない。文学するのに、ほんとうにプロの作家をめざして自分の人生をかける、その覚悟に敬意を表すべきである。

東峰夫は沖縄を離脱して、東京で飯をえる仕事しながら、小説を書く、という人生を実践した。やがて、「オキナワの少年」という作品で1971年に文学界新人賞、72年に芥川賞をとった。沖縄の生の島言葉を会話で使った作品で受賞したことが沖縄の文学界にいい意味でのショックを与えた。おそるおそる島言葉を使っていた当時の沖縄現代文学は日本文学界にそのアクの強い言語(方言)で書いてもいいんだという路線を認知されたのかと思ったが、沖縄ブームの時期でもあり、なお慎重だった。

東峰夫が沖縄のコザを離れ上京したのは、1964年の26歳である。それから、芥川賞を受賞したのが、8年後の1972年、丁度復帰の年で、34歳。1964年以後というと、ベトナム戦争、東京オリンピック、全共闘運動、沖縄の本土復帰にまつわる政治的な騒擾がある。ところが、東峰夫の作品には、その辺のことはあまり描かれていない。これは状況というものへの東峰夫の意図的距離をおいたスタンスとおもわれる。

「オキナワの少年」では基地の街コザという場所の特性をあまり意識しない視点で書いている。沖縄は祖国日本から切り離されている、米軍に支配されている、米兵が犯罪を起こす、ベトナムを爆撃する戦闘機が日夜沖縄の基地から飛び立っている、といった、いわゆる〈基地と沖縄問題〉というとらえ方はない。すでにそういう状態にある沖縄コザ社会を受容して、作品にでてくる―そういう人々が暮らして、生きていた、というつくりになっている。故意に政治意識、社会意識を反映させない方法で書いている、といえる。このことは、「オキナワの少年」の主人公が小学生という設定であるので、社会意識がないということになるかもしれないが、それだけではない。作家はまず現実を受け入れることから書いていくということを信条にしている。否定的になるとか肯定的になるとかではない。主人公や父や母や米兵相手の女たちや親戚や友人や性的なアルコールの町や女性のパンティが落ちている朝の通りや丘からの眺望やらの描き方がまさに(当時の)「沖縄」から「オキナワ」なのだ。そこにある匂いや視線がコザを描き出している。意識的ではない。自然に描写されている。「オキナワの少年」のよさはそういうところにある。

東峰夫は高校中退であるが、その理由を、トルストイを読んだからと告白している。トルストイといえば、19世紀帝政ロシアの矛盾を文学のテーマにして書いた作家である。トルストイをどのように読んだか。このことについては、「島でのさようなら」のなかに、トルストイの文章を故意に挿入して書いているところがある。おそらく、いちばん気に入ったトルストイの文章と思われるので、それを分析してみれば、東峰夫がトルストイのなにに影響を受けたかがわかるかもしれない。(しかし、そういう書き方は作品の構成上、あまりうまい手とはいえない)。

東峰夫はいわゆる世間の言う落ち着いた知的な職業についていない。高校中退後、沖縄の地元で軍作業やブロック工場についたりしたのち、文学修業のつもりで集団就職で東京にいき、小さな製本会社に勤めながらいたが、そこを辞めてから、正真正銘の不定職者になった。その理由は、残業が多く、本を読んだり、小説を書いたりする時間がないから、である。

「その結果ぼくは本を読むこともできなかったのである。白秋詩集とノートを机の上にひろげたまま、坐ってみたり寝ころがったりして、何も書くことができなかった。」(ちゅらかあぎ)

そして、その製本会社をやめて、ベッドハウスに寝泊まりしながら、

「ついにぼくは日雇いになった。一日働いて、二三日休んでは勉強するという生活がぼくの念願だった。ふるさとの家にいたときから、日雇いの生活がぼくにとって最も適切だということがわかっていた。そしていまこそ、ひどい廻り道をたどってきたけれど、それが実現できたのだ。天の父がぼくを導いてくださったのだろうか。」(同)

 

ところで、東峰夫という作家について、ぼくが関心を抱くひとつの理由は、あまり書かない作家ということである。あるいは書けなくなった作家になったといえばいいか。今では、おそらく東峰夫という名前の作家の存在を知っているひとは少ないのではないか。作家は書かなければ忘れ去られてしまうものである。なぜ書かない作家になってしまったのか。

東峰夫の状況意識、社会意識のなさは、本来的であるのか意識的であるのか。作品創造のテーマの豊かさに恵まれなかったということか。作品の書き方の方法意識は、上林暁の影響から、私生活を描く作家、私小説作家であろうとした。この辺は、東峰夫の創造意識を問うときに重要なことである。

東峰夫は1977年に東京で知り合った、沖縄出身で米兵と沖縄の女性との間に生まれたハーフの女性と結婚して、1981年に帰郷して、84年に再上京している。その間に二人の子どもをもうけている。

沖縄に在住していたときのことを書いた文章がある。

「作品が書けて、文芸誌に掲載されたら、原稿料が入ってくるのだが、作品は書けなくなっていた。だから家事育児、炊事洗濯をするより外になかったのだ。」(オキナワノのこと―『貧の達人』)

東京から沖縄へ移って生活したとき、父からもらった土地の半分を売って、マンションと妻がやるスナックを買っている。しかし作品が書けないので原稿収入の宛てがなく妻の稼ぎで生活するようになり、家事育児、炊事洗濯をする。しかしスナック経営していた妻に男ができ、朝帰りが増えて、夫婦の関係が悪くなって夫婦破綻の状況にあった。その辺は「ガードマン哀歌」「ママはノースカロライナにいる」という作品に書いている。

そのころであったか。ひところ東峰夫は作品が書けないらしいという噂がぼくら文学仲間の間にも伝わったことがある。沖縄に戻って、妻が水商売をしてそれで食っているという話をきいたりした。そして、東京に戻って道路工事の警備員や路上生活者をしながら暮らしているとか、離婚したらしいとか、ネガティブな情報が風のうわさで聞こえたりした。ある沖縄文学研究者が「ユングに突っ込みすぎるからだ」という話もきいた。

作家の作風というのはデビュー作に何らかの形で反映している。今後作品を書きつづけることができるかというのは、その作品のなかに表れていると、私はなんとなく予感していた。というのは、「オキナワの少年」は、ほかのだれの作品よりもすぐれて沖縄を書いた作品であると思っているが、反面次作への創作を匂わす作風があまり感じられなかった。現実離脱を計画して「ヨットで無人島に向けて脱出する」という終わり方が自己完結的だなとおもった。現実が嫌だからロビンソン・クルーソーのように無人島へ逃亡するユートピア志向は子どもの冒険物語の端緒にすぎない。これは少年の夢物語であって大人の物語ではない。その視線は大人になると生活社会にとってかわる。生活現実の圧倒さが作品世界を占めるようになると、大人社会に作品のテーマを求めなければならない。そこに東峰夫は成功しただろうか、という疑問が残る。

そうはいっても東峰夫は沖縄のほかの作家達と比べて、もっとも職業作家の近くにいたといっていい。他の芥川賞作家が、賞を受賞しながら、職業作家にならずに、つまり文学だけで食わずに、公務員や教員という安定職で飯を得ながら、書いていたのと異なる。定職をもった作家的生き方は賢明ともいえるし、器用な生き方ともいえるが、私的に言えば少しつまらない。なぜなら、ぼくには文学者=作家といわれる人は、普通の生活者じゃないほうがいい作品が描けるんじゃないかという独断と偏見があるからである。しかし、定職をもって書くことはだれも批判はできないことである。書くことはサイドワークとして考えていれば、挫折しても危険がないのだし、安定した生活をした上で物書きになることが器用な生活方法のひとつである。文人が不在のいまの時代には、そんなひとばかりである。

東峰夫という作家は、芥川賞という文学ブランドを得ることに成功したが、しかし、その成功を器用に生かすことはできなかった。というのは一般的に、というか私のシロウト考えでは、芥川賞を得れば、職業作家でやっていけるのではないかと思うのだ。なぜ、東峰夫は生きるために、がむしゃらに作家業に邁進しなかったのだろうか、というのが、さっきもいった私の疑問である。

『貧の達人』にこういう文章がある。

「さて、東京に出てきたのは、文学修行のためであった。とにかく書きたいことがたくさんあった。ぼくの頭上には神がいて、ひどく怒っていた。折からの高度成長期で、世間全体が物欲に取り憑かれた状態だったからだ。」((迎独庵の日々―『貧の達人』)

「ぼくは上林暁が好きで、田舎のオキナワでも片っ端から読んでいた。東京に出てきたのは、まだ読んでいない作品を読みたいからでもあった。」(〃)

「上林暁が好きなのは、作家としての姿勢に誠実さが感じられたからだ。日常生活のことをありのままに書いていて、フィクションはなしだった。そこが気に入ったのである。自分もそんな姿勢で書きたいと思った。包み隠さずにさらけ出すこと。真実を語るためには、それしかないと思ったのだ。」(〃)

「書きたいことがたくさんあった」のなら、なぜ、どんどん書かなかったのだろうか。上林暁が好きで、フイクションで書くのでなく「日常をありのまま書く」「作家としての姿勢の誠実さ」で書くことを目指したというが、これは惚れ込みすぎではないか。では「書きたい」ということはなんだったのか。東峰夫が書いたものを羅列してみるとこうなる。

 

1 「オキナワの少年」文学界1971年12月号

2 島でのさようなら 文学界1972年5月号

3 ちゅらかあぎ 1976 文芸春秋

4 大きな鳩の影 「海」1980・9月号

5 翼の手 「海」1979・8月号

6 山頂の王 「海」1979・9月号

7 黄金の蛇の谷 「海」1979・10月号

8 雲の木 紙の木 「海」1979・11月号

9 おんな自転車どろぼう 「海」1979・12月号

10 北方巡礼 「海」1980・1月号

11 丘からの眺め 「海」1980・2月号

12 木の上の少女 「海」1980・3月号

13 アメリカの聖なる森林公園 「海」1980・7月号

14 親子問答 「海」1980・8月号

15 ガードマン哀歌 「群像」2002年7月号

16 ママはノースカロライナにいる 「群像」2003年5月号

17 迎独庵の日々

18 オキナワのこと

19 権力について

20 世間のこと

21 聖書について

22 夢について

 これらが収録された著作はこうなる。

『オキナワの少年』文藝春秋, 1972 1、2

『ちゅらかあぎ』文藝春秋, 1976 3

「オキナワの少年」(文春文庫1980年) 1、2、3

『大きな鳩の影』中央公論社, 1981 4~14

『ママはノースカロライナにいる』講談社, 2003 15、16

『貧の達人』たま出版, 2004 1717~22

 

こうしてみると東峰夫という作家は、46年間に22作品をものにして、6册しか出していない。なんともさみしい寡作作家である。時系列で読める作家であるから、秘密も難点もいらない。私小説作家らしく自分の生活を書いているので、わかりやすい作家である。日記を書く習慣を身につけていた作家でもある。しかし、私見では『大きな鳩の影』と『貧の達人』はほかの著作と毛色がちがう作品が並んでいる。『大きな鳩の影』には、夢から題材をとったような作品がある。夢は東峰夫にとって、作品を生み出す重要なものである。1971年頃から「夢を記録する」ことを続けたようである。おそらくユングの影響であろう。東峰夫にすれば、作品形成の転機をめざしたと思われる作品がならんでいるといえばいいか。というのは、私小説的な、日常に根ざした他の作品とちがった作品世界を作り上げようとした方法が強く滲み出ているのだ。だが、これはうまくいかなかったと思われる。『大きな鳩の影』や『ママはノースカロライナにいる』には夢にまつわる話が書かれているが、私生活の物語の展開と並列気味で書いているだけである。

東峰夫という作家を考えた場合に、つげ義春と山之口貘との類似を考えてしまう。つげ義春も私生活的な要素と夢(超現実)的な手法で書くマンガ作家である。つげは日本文学、日本マンガでは特異な描き方をするので、私の好みの作家として本棚においてある。山之口貘の場合も、ふるさと沖縄を離れて東京で詩人となった人である。我々沖縄に生まれ住んで文学のことを考えるものにとっては、東峰夫も山之口貘も沖縄出身というくくりで考える習性がある。

沖縄人は沖縄出身の誰かが活躍すると、わがことのように喜ぶ。具志堅用髙の世界チャンピオン、安室奈美恵やスピードの大ブレイク、仲間由紀恵、新垣結衣といった有名女優、興南高校の春夏連覇、日本女子ゴルフ界を牽引した宮里藍、………といったスポーツ、芸能で、沖縄出身者が世界的、全国的に初めて活躍することに、ふるさと感情で自己同化して、自らもその位置にいるような、世の中から認められたような錯覚や快楽にひたる。とくに常に立ち後れて敗北者、劣等者意識が強かった沖縄(人)の、比較された習性にかける期待は、復帰前には本土に追いつき追い越せというスポーツ、行政、経済、社会、教育界の指導者たちの言動が顕著にあったから、オキナワケンミンはのせられて頑張っていた。そんな時代に、形成された暗い劣等精神は、現在では薄れているといわれるが、まだ残存している。復帰前世代と復帰後世代の意識の距離感もある。最近はかつての沖縄的な心性が変質してきている。本土との差異を意識するがゆえに、どこかで奮起する気持ちがでるのはどちらも同様だが、差異を意識しないで本土の世界にすんなり入っていく復帰後世代さらに以後の世代には劣等意識はないにひとしくなっている。ところが、それは、仮の同化した日本人という姿に自分をみつけ、やはり、日本人(東京人)と沖縄人はちがうところがあることに気づかされる。「ウチーナンチュとは日本人になれない心」という名言まででてくる。それをアイデンティティとリンクしていうひとがいるから厄介である。とにかく沖縄生まれ(沖縄出身)というくくりでみる眼差しはかわっていない。

ところが、しかし、どうもそれはちがうようなパンチをくわされるときがある。数年前、山之口貘死後50年だったか、あるイベント(シンポジウム)が琉球新報ホールであった。県内の詩人らと山之口貘の娘である山之口泉さんが出ていて、それぞれ山之口貘の詩と自分との関わりを語っていたとき、地元の詩人達が貘を「沖縄出身の詩人」と規定して、その視線で何度も語っていたとき、泉さんが、「父は沖縄の詩人として書いていたと言うより、人間を書こうとしていたと思う」というような発言していた。私は、はっとした。そして、どれだけの人が、この発言に覚醒されただろうかと思った。この発言は、的を得て立派だと思った。娘の立場で生活のなかで父をみていた泉さんは、父が沖縄出身者であることは知っていたが、家庭の父の姿が、「沖縄、沖縄」としていなかったことを知っていた。山之口貘は、ひとりの詩人、貧しい家族を抱えたひとりの生活者として生きていた。そこが重要なところである。泉さんは、そこをみていたのである。山之口貘をみる眼差しが沖縄と東京とはちがうのだ。たしかに貘は沖縄出身の詩人であるが、沖縄出身という範疇を超えているとみるべきなのだ。そう思わないと、山之口貘が詩人として生きた真剣さを誤解することになる。沖縄出身の詩人で、中央で知られ、全国的に知られた、有名な詩人、山之口貘。そういう定説(「沖縄出身」というラベル)がこびりつきすぎている。山之口貘を語るときに、よくとりあげる「会話」とか「弾を浴びた島」とかいう作品をことさらにとりあげて山之口貘が沖縄人であることを切り口に沖縄の状況を、ことさらに強調するシーンによく遭遇する。これは、沖縄と日本という関係の差異を顕在化する作品としてよく利用され、とりあげられるのだが、しかし、にもかかわらず貘は沖縄を歌った詩人というよりも、生活と詩をぎりぎりのところで均衡させる生き方をした詩人としてみるべきである、と私は思いたい。かれの詩は、かれと家族の貧困とせめぎあいながら生まれ出た言葉があってこそ〈山之口貘の詩〉として読まれるべきである。宮沢賢治や石川啄木が岩手の詩人、中原中也が山口県、萩原朔太郎が群馬県として、田舎の出身県に限定されるのでなく、日本文学の代表のように全国に通用する詩人として読まれているように、である。そうあってほしいと、私は山之口貘を読むといつもそう思う。山之口貘は単にローカル詩人ではないのである。

東峰夫の場合はどうか。たとえば、上原隆の『友がみな我よりえらく見える日は』(学陽書房、1996)のなかでインタビューに応えてこう言っている。

「ぼくの目標は真理って何だろうって探求することだったんです。小説を書くことが問題ではなく、書くことそのものが大切なんです。目標は精神世界をきわめることなんです」

東峰夫が「オキナワの少年」で芥川賞を取ったとき、「編集者は次々に小説を書くようにといった。『オキナワの少年』を継続しなさい。そうすれば読者ついてくるから」といわれたが「しかし、彼は書かなかった」という。トルストイを読んで、高校中退したという東峰夫は、次作の「島でのさようなら」に、トルストイの文章を挿入しながら書いた。この部分を編集者は削除する意向を示したので、泣きついて、削除を阻止した。(「権力について」―『貧の達人』)。

「オキナワの少年」のような作品を書くように、という出版社の編集者には、東峰夫が沖縄出身であり、基地の沖縄を書くことで、賞をとったので、そういう側面の作品を要求することは、日本復帰の時期で全国の関心が注がれている時代背景からして、時流にのせたい作家と見なしていたにちがいない。沖縄地元では、すでに、大城立裕というエリート作家がいた。大城立裕は沖縄の歴史、文化を盛り込んだ知的な作品を数多く書いていた。私見では、編集者の戦略は大城立裕的沖縄に対峙して東峰夫的沖縄を書くことを期待したとも思われる。つまり大城立裕とちがって沖縄底辺層の民の姿を描く沖縄の作家としてである。文学ビジネス作戦として、そう考えてもまちがってはいない。沖縄の双極のプロの作家としてやっていくことを期待したと思う。が東峰夫は個人的な関心のあるテーマを貫く作家の道を選んだ。

東峰夫は「真理」と「精神世界」を書きたかった。資本主義を否定し、彼のいう生協主義を主張する思考を語ったりするのも、その流れである。(それゆえに、公安に狙われているという妄想に取り憑かれたこともあるようである。)東峰夫は「沖縄」「沖縄人」というアイデンティティ意識はそれほどなかった、といっていい。だから、製本屋に勤めていたとき、社長や秋田出身の女性が、名前で呼ばずに彼を「おきなわ」と呼んだことに内心怒りがでるのである。たしかに、沖縄からきた沖縄人であるが、自分では「沖縄人であるが、沖縄人だけではない自分」というスタンスで生きていこうとしていたのだ。こういう思考は、戦前に、本土へ渡った沖縄人が身分を隠すために、苗字を変更したこととは異なる。高校生の頃のトルストイをはじめ、ユング、聖書、上林暁………といった、「沖縄にこだわらない」世界への関心を持って読み、思考形成をしていたのである。つまり、東峰夫は「沖縄を書く作家」ではなく、彼自身の求める世界的で個人的で普遍的な世界を目指していたのである。それは正当だが、当初の東峰夫的小説の世界から逸脱した世界へ移行しすぎた作家になってしまったともいえる。その結果、かつての編集者から見放されてしまい、〈作品〉を発表する機会をうしなった。

私は、『脈』で東峰夫特集に参加させてもらったおかげで、東峰夫の書いたものを網羅的に読むことができた。そして、最後の著作であろう『貧の達人』を読んで、「オキナワの少年」からの距離を考え込んでしまった。もはや沖縄出身作家・東峰夫は定型的な私小説作家ではなくなったなと思った。この著作には太陽神とか宇宙人とか地球人とか、夢、霊界、聖書の予言、………といった現実離れした(文学的な意味でなく)、題材、テーマを求めている作家が貌を顕している。思えば「オキナワの少年」でめざした「無人島」は、真理、精神世界をきわめる島(道)のことであったのだろうか。あるいは自身の私生活を書ききったがゆえに種が切れてしまったということであろうか。私生活を描く手法は私小説作家の強みであるが同時に持続の困難な手法である。枯渇を恐れない、そうとうな覚悟がいるといわねばならない。


勝連敏男という詩人―その詩と記憶の周辺

2020-11-12 | 詩人論、作家論、作品論

    Ⅰ

  内側にむかって歩みはじめて永い
  おまえは生活に
  わたしは幻想に賭けながら
        (場処―『島の棘はやわらかく』所収)

  私の二十年は
  酒に溺れてみた夢だった
  だから夢の彼方とは
  どこなのか一向にわからない
     (肉体の闇―『夜明けの匂い』所収)

  資質から逃れられない不幸と
  他人はぼくのことをいう
  だが愛憎は いつ爆発
  するかもしれない
  私たちはどうして演じるために
  不幸から逃げ出さなければならないのか
  私たちはただ
  資質や不幸を模写しているだけだ
    (透視する目―『夜明けの匂い』所収)

  世界は明るいのに私は暗い
  私の世界を地図として描いてみる
    (私は唄わない―『夜明けの匂い』所収)

 勝連敏男の作品からその詩句を取り出してみると、内側、幻想、酒、夢、彼方、資質、不幸、愛憎、爆発、暗い、といった語彙から、その詩的世界の彩りや模様といった、ある種の心的雰囲気が浮かび上がる。共通しているのは、〈私という存在〉の書く、ぼく=私であり、それが顕在する〈生の精神の姿である。これらの詩行に出てくる言葉や詩句の読解には前後や行間や背景を読む必要がある。つまり、なぜこれらの言葉や詩句がでてくるのか問う必要がある。詩の生成の視点で言えば、詩の瞬間とは、ある言葉がインスピレーションのごとく瞬間に降りてくるのを書き留める経験、ポエジー誕生の瞬間があるからである。詩人にとっての〈私というもの〉が関係する―おまえ、血、夢、世界、は語られるべき必然なものである。書いたものは、こういうふうに書きたかったという経験となって後になって知ることとなる。
 詩におけるポエジー誕生の瞬間は、ある内的な経験が意味をこえたところの表現を感受し、導き出す瞬間でもある。わいてくる詩的想像力、日常の関係や裂け目にある瞬間、自然や事物と接してでてくる霊感やイメージ、語るものに語らせる瞬間、その顕在する言葉に自らを語らせること。こういう経験は詩を書くものに多く訪れるはずだ。さらに〈存在を撃つという自分のなかのもう一つの内在的な破砕意識、無意識のアリアを高め、言語表現を浮上させるために、その詩的瞬間は待っていたということを、詩を書くものは確かなものとしておぼえているはずだ。
 初期の散文詩集『羽根のある祭り』はこう始まっている。

 「あらゆる寓話で包まれた乳母車は みずうみの辺りを押されているのだが ぼくの父母はどこへ行くのだろう
  風や樹や水の言葉は あなたたちだけのものと思うから ぼくの血は騒ぐのだ」

そして詩の高まりは次の抒情的な詩句を導き出してくる。

 「鳥たちは 午後のひざしで海をみている ぼくは藁に寝る ああ出立」
 「けだるい村からいろのない街への逃亡は ぼくの夜明けへの出立だ(少女よ ぼくのなかはだんだんに明るくな
  っていくので 海がみえてくる)」

 22歳の時に出したこの詩集について、勝連敏男の詩的出立を内的かつ夢想的な手法で記述したものと解釈する。つまり流動する生のゆくえを多感に感じ取る感受性の時期に書いたものであるといえる。感受性に裏打ちされた現実と夢想の織りなす世界がこの詩集の特色だが、その光景に、〈ぼく〉という青年が、属するものから自己を剥がし、「けだるい村」から〈出立〉する魂の旅の記録と読める。羽根をもった魂が、父母の地すなわち「けだるい村」から逃亡する。これがすなわち「羽根のある祭り」なのである。
 出立! これこそ青年期を襲う最高の誘惑である。この出立はふるさとからの〈旅立ち〉という季節的なものではなく、意識化された逃亡や出立であることに注意しよう。文学世界での出立とは背離のことである、と解さなければならない。この詩集には背離としての出立に佇むものがみる夢の航跡が、幾重にも語られる。その夢想と抒情で見出した〈旅〉とその象徴である「帆かけ船」は深まる霧のなかを流れる。この存在論的で夢想的な詩の書き方は、青年期特有の書き方である。というのは青年期は何ものにも属さない自由とその存在を強く求望する時期だからだ。詩が〈青春の文学〉といわれるゆえんはここにある。〈夢想〉はそれを実現する手段、自己を解き放つ空間であり、時としてそれは狂暴な望みでもある。したがって、夢の旅というものは、詩人自身の、ひとつの生でもある。それゆえ勝連敏男の以後の詩は〈逃亡後=出立後〉に自らからを曝して書いているとみることができる。

 「航海をはじめたものの ぼくはどこへ行きつくかわからない だがぼくは約束の地を願望する」
 「ぼくに本来性ということと非本来性というのがあれば 日常の世界こそ非本来性であって 願望による約束の地は
  本来性と呼ばれるべきだろう 非本来性への反逆こそぼくの闘いの使命である」

 〈約束の地〉とは存在の本来性が果たされる場所であり、希望の場所である。これは現実にある場所ではなく、いずこ
かの果てに夢見られた場所である。
 『羽根のある祭り』の続編でもある詩篇「遊撃の貌たち」にある次の詩句がある。

 「めざめるぼくの朝にやってくるものは つぎの季節への逃亡だ」(遊撃の貌たち)

 ここでみられる〈めざめ〉とは、出立と同意義に使われている。〈逃亡〉はこの詩人の一時期の生の意志と希望の姿であり、出立と逃亡はそのスリリングな〈夢想劇〉なのである。だが読者からすると、作者の現実というか、背景、土台というか、言葉が発する具体の契機がよくみえないところがあるので足踏みしてしまう。なにかへの抗いや諍いがあることはわかる。その心的な複雑性が絡み合っているので、夢想がどこへいくのか、霧の中を航路の定まらない道を歩いている姿を晒したままなのだ。「幻想に賭ける」というのは正直な吐露であるが、しかし、これは幻想詩人になることではなかった。
 詩の技法としては複雑な心情を幾重にも入り込ませていて、他者に理解されることを意図しない書き方をしているところが多い。おそらく青春の抽象性と詩語の表現がうまくつりあわなくとも、逆にその屈折が超越の表情をしてでている。ぼく自身も青春の行き場のなさに懊悩して書いていたのは「青春の抽象性」であった。現実ではないことを書くことで現実を切り抜けようとしていた。ある詩的想像力に魅了され、その言葉におのれの魂や存在をゆだねる。出てくるのは抽象であっても非現実であってもかまわない。抽象と抒情が連結し緊張する詩の瞬間、これを〈抽象の抒情性〉と名付けておこう。そういう意味で勝連敏男の詩語や詩句に流れているのは本質的には抒情的言語である。
 詩集『島の棘はやわらかく』の詩篇は現実と幻を詠う、その両義性が詩を開示する。内面にある苦悩や悲哀の抽象を開こうとする、あるいは言葉を与えようとする詩の作り方がある。作者の内面に生まれる魂の叫び、それをイメージ化して紡ぎ出す。さっきも書いたが青春の言葉は抽象の周囲のなかに閉じる危険性がある。内的精神を現実やレアレティで語らないからだ。だが、その詩の精神はたしかに作者の内面に存在する。こういう苦悩の抽象にとらわれると、出口がどうあるかみえない。たとえば黒田喜夫が解説「勝連敏男の詩へ」で書いているように、「彼方である自己」への「到り」、と見事な分析しているが、さらにいえば詩の動的な方向が彼方であり、遠方であり、そこからの現在を逆照射する詩法が自己性の劇として描かれている。あるいは言葉を替えれば、これは詩の往路であり、「到り」からの還り道がまだ先にあるということだ。もし還り道の詩となれば、49歳つまり死の2年前に出した『夜明けの匂い』あたりだろう。この詩集は抽象にあった初期の詩が還りへの道になって、わかりやすい詩篇が並ぶ。つまり、生活や現実の関係性がみえる風景が多分にある。村や血や父や母や少女や恋人も抽象を語る存在としてあったが、後期になるとそれらは具象的な関係をもったものとして詩語化されている。
 内的な詩の世界は読者を意識しないで書かれるから難解さを与える。というのは往路にある詩は読者の理解を気にしないで書かれるからだ。「幻想に賭ける」生き方をするのは、往路にいるということだ。詩と読者の幸福な関係は、ここにはうまれない。作者にとっても〈ここ〉は幸福の場所ではない。では〈ここ〉ではない場所とはどこか。見出された彼方の、本来性とする、母なる幻影の場所なのか。文学と生活が相対してこわれているところなのか。と考えていけば、詩人というのはつねに現実の超克をめざすもの、秩序の〈破壊〉あるいは〈破滅〉の淵にもっとも近く存在するものであり、そこで詩的言語を見出す存在であることになる。場所の幸福を手放してそれでも生を求め続けるために詩の道を選ぶ。ここに文学的資質に自らの生を殉じた存在論的詩人の詩的美学がある。かつて、ぼくは勝連敏男にロマン主義の匂いを感じて、同調したり、反発したりしていた。ドフトエフスキーがどこかで「ロマン主義者は破滅するのがお似合いだ」と書いていたのを思いだしたりした。

   Ⅱ

 勝連敏男は酔いながら「リルケは薔薇の棘に刺されて死んだ。なんとも詩人らしい、かっこいい死に方ではないか」といっていたことがある。死に方への幻想を内部に持っていたであろう勝連はリルケとほぼ同じ年齢で鬼籍に入っている。その勝連が亡くなってから26年になるわけだが、ぼくはその間、彼の本をとりだして読む機会がなかった。忘れていたわけではない。彼の書いた言葉の何かが、ぼくのなかに根付いていなかったからかもしれない。彼の幾册かの著作は書架に並べてあるが、取り出して読む、ということがあまりなかったのである。彼が亡くなる94年、ぼくは仕事の多忙と家庭の事情で、詩的活動するゆとりがなく、〈書くこと〉から遠ざかっていた時期であった。持っていた本や雑誌を古本屋(ロマン書房)に大方、売り払っていたし、文学活動を絶つような状態でいた。つまり、ぼくは一時期文学を断念していた。現在の、我が身におこる、幾多のことどもに心が奪われて、現在が文学を離れ、現実にとらわれて佇む、あるいは、人の記憶を遠ざけるように日常が在ることにさらされている惨憺たる状況にあったのである。
 先に逝ったものは残ったものに常に影をもつ、ということは幻想でしかない。ある意味〈密な関係〉がなければ、死者となって現実の関係が無くなれば、日常の時とともに忘却の彼方に消えていく。そして、なにかの契機がなければ、その存在は、そんなにあらわれることはない。死者が、なおあらわれるときは、血縁や親族の場合がほとんどである。関係が残余を喚起するのは、彼と彼らの間で、他者にわからない交遊や友情が偶発的な記憶と必要な契機のあらわれとなるときである。生きているものは過去への想念よりも強いられた現在の日常とこれから先のことへの想いでほとんどを暮らしている。そこでは生活や身体や職業やらでだれも必死に生きているのだ。だから過去は忘却に沈み我々をそのテリトリーのなかにつれていく。
 おそらく勝連敏男とぼくの関係は〈文学関係〉であった。文学という世界を背景にして、同業者のような親しみと愛憎と対話のキャッチボールの相手としての類似的関係を続けたといえばいいか。しかし、その文学関係は〈必然的なもの〉ではなく、〈偶発的なもの〉でもあったし、しかも近くにいたから、出会うこともできたのである。それは時として濃密な場合もあれば希薄な場合もあった。そこにみえる方向性が同じであれば、交際がうまれるし、方向性が違えば自然に別れる、会わなくなるということにもなる。おなじ文学という釜のめしを食っているからといって、関係が続くことはない。思索の方向性がちがえばお互いに会わなくなる。
 ぼくらはおそらく、文学活動をしながら、自分が書いたものを雑誌や本にしたりしたら、どうせ売れないので(もちろん売れる人もいるだろうが)、寄贈したり、受贈されたりする交換習慣文化を生きている。あちこちから来るのが多いので、だいたい見出し読書で終わることが多い。関心のいくような題であったり、関心のある内容なら眼を通していくが、だいたい、それ以外は見出しとパラ読みで終わる。それぞれが、自分のテーマや関心で読むものを選択している。それは読者の自由である。否定されることではない。日常が多忙でもあるし、ほかに読むべきもの、やることが多いので、送られるものに向かっている時間があまりない場合が多いのだ。最近のぼくは、闘病生活に入りつつあるので、リアルな自分の現実に殉じているからなおさらである。
 ところでそういう文学するもの同志の関係の空虚を意味的な関係につなぐ契機はある。それは、経験上言えば〈批評精神〉をもつということである。批評する眼をもって生きると、視野が広くなるし関心も強くもなる。この人の書いているものは何を書いているんだろう、とか同時代の文学作品、思想、言葉、意見、評言、としてみる。すると、なんだ、つまらない作品だね、お、面白いね、新鮮な作品だね、とか、なんだかんだ、同じ事ばかりいっているんじゃないか、とか、色んな批評的な感想がもてる。〈批評精神〉というか〈批評眼〉をもつと、世の中、社会、世界の動向、言動やらに触手がのびていく。そして「ひとこと言ってみたくなる」のである。若いときはそうであった。なんにでも(というと語弊があるが)、向かった。文学、思想、哲学、政治、社会、宗教、歴史、の流れに、自分の位置というか自分の言葉を持とうと躍起になった。これは自分が知的に精神的に貧しいからでもあった。
 南の離島の小さな島から沖縄本島に出てきて、ナハという街の近代的な風景に驚き、ああ、ここなら生きていけるなと漠然と、わが海上の道に一晩乗った宮古丸からナハを眺めたあの日。いま思えば、それほどの大きさではなかったが、それでも故郷の島と比較すると活気に満ちた街だった。青い海の遠くに白く輝く街。それがナハだった。高校卒業後、貧困ゆえ、早稲田大学の夜間部を希望した志しは親の反対でかなわず、地元の琉大になったが、ナハでの暮らしはまんざらでもなかった。
 アナログな時代、でなければ活字世代といっておこう。いまのような、とんでもない時代に遭遇しない前のぼくは、飢えていた。なにに?言葉に、だ。自分の言葉を持とうと、時間を使った。かっこいいいいかたすれば〈自己形成〉である。そのために大学時代におぼえた自己変革という奇妙な脅迫的観念にしがみついて当時の思想や行動(学生運動)に心身を費やしたし、政治の議論や討論にも参加した。時間があれば図書館にいって読書したり借りたりした。カネがあれば本屋にいって関心のある書物を手にとって買ったりした。学生の本分は勉強だ、の時代をすぎて、社会に出て勤労者となっても、〈勉強の延長〉としての読書は続け、同時に自らも詩作品や評論を書くようになり、病的なほど、本を前にして、ノートをつけたりした。まさに〈書生の日々〉である。批評精神や批評眼は何かと内在化していたから、世界の新しいものへの関心は強かった。
 〈書く〉という行為は関係を作り出し、広げる。もし書くことをしないで読むことだけに徹していたなら、読書家の位置だけで、〈文学関係〉はあまり作れなかっただろう。〈書く〉という行為が生み出した〈作品〉が媒介となって、誰かと関係ができる。それは書くという行為が生み出した思わぬ創造的産物でもあるのだ。
 勝連敏男はぼくが詩を書いている、という事実をみて近づいて来ただろうし、ぼくはといえば、文学や詩を語れる人を欲していたから、出会いは偶然であったが、そのころは必然的に会っていたといえるかもしれない。いま記憶をたどるようにしているのだが、はじめて会ったのは、おそらく学生時代の「琉大文学」から卒業後、宮城秀一らと『群島』という同人誌を立ち上げていたころじゃないかと思う。
 あのころ(六十年後半から七十年代)の学生時代は、政治的闘争や行動や文学や思想やらを語る場というのが自然発生的に出来ていた。キャンパスの講義生活をひけて、だれかの間借り先で酒宴がはじまる。と、そこへ、友人、知人、彼女、正体不明の人などが、集まって、小さな部屋で、タバコを吸ったり、アルコールで酔いながら、肴や安いラーメンをすすりながら、軽い雑談から重たい議論、口論をわいわいと夜遅くまでやるのが常であった。血の気の多い連中が多く、もっとも青春時代にあるものは、ほとんどがそうであったが、当時の政治状況、文学、芸術やらを話題に激論しあった。 
 宮城秀一とはそのころに出会った。だれかの部屋であったと思う。短歌をやり始めていたNの部屋だったか。宮城秀一は英文科の学生であったが、絵画をやると聞いて、最初は、一緒に詩画展を沖縄那覇市のデパート・リウボウで計画したが、諸条件が合わずにおじゃんになり、そのかわり、同人誌を出そうということになった。それが『群島』という同人誌だった。最初は、手書きをコピーした簡素なものであったが、2号からタイプ印刷本になった。そして出したら、無名の雑誌であるし、それでも誰かに読んでもらいたいので、ほとんどが寄贈するはめの雑誌となった。そうなると、だいたい把握していた当時の書き手の家や職場を訪ねて渡したり、住所がわかれば、郵送したりした。当然その〈誰か〉は当時、沖縄で文学やっているひとたちである。あのひと、このひと、と算えていけば、それから自然に〈関係〉ができる。だいたい、そういうふうにして、知り合いになった。文学関係が出来、いつしか会うようになった。どこでどういうふうに会い始めるようになったかは、定かではないが、とにかく偶然からか自然発生的な文学関係をもつようなひとが多くなり、勝連敏男はそのなかでも際だったひとだった。
 ぼくの中での勝連敏男の記憶にはいつも「アルコールの匂い」があった。

 「私の二十年は
  酒に溺れてみた夢だった」
    (肉体の闇、「夜明けの匂い」所収)

 勝連敏男の後期の詩の方法は自伝的回想的な要素がつよい。かといって等身大ではない。ランボーのいう〈一個の他者〉を彼も全身で生きようとしていた。彼はアルコールが好きだったし、ぼくも好きだった。よく飲み屋で会うようになっていた。ぼくが大学卒業して数年後ようやく定職につくようになり、職場の退勤時ころになると、電話がかかってきて、どこどこの飲み屋で待っているという呼び出しがあったりした。
 「宴会のときにさ、酒が飲めない人がいると嬉しいわけさ。なんでかといったら飲めない人の分まで自分が飲めるか
  らね」
 と冗談か本気かわからない言い方をしていた。「肉体の闇」にあるように、たしかに彼は酒好きをこえて「酒に溺れて」いた。そのころのぼくも時に酒に溺れることもあったが、たいていは適当に飲んで帰るようにしていた。しかし、それでも深夜か夜明け前というのもざらにあった。若かったし楽しかった。彼はなにをしているのかわからなかった。あるとき「沖縄読書新聞」という新聞を出していたことがあった。数号出してつぶれたのだが、その何年かあとに「沖縄時報」という新聞社にいたことがあることを知った。この新聞は保守系の新聞で、労働争議が長引いて破綻して解散していた。かれはそれから無職者(不定職者)となっていたのだろう。不定職というのは、強いられることもあれば、自ら選ぶこともある。彼がそのどっちであるのか、わからない。しかし、とにかく彼は、それでもたくましく暮らしていた。ぼくは失業していたとき、失望感と惨めさで、現実から離れていく文学への馬鹿らしさがでて、カミュの本を破って捨てたことがある。こんな生活(失業)していて、〈文学やっている場合じゃないだろう!〉だったのである。勝連敏男という人は、ある意味、たくましかった、と思う。名嘉勝さんが、やっていた国場のラーメン屋に勤めていたこともあったし、「沖縄公論」という小さな雑誌社にいたこともあった。そのラーメン屋で「人間は一日一食で生きられる。食べられるときにたくさん食べておけば、他の二食は食べなくていいよ」と言って大盛りをだしてもらったことを思い出す。

   Ⅲ

 勝連敏男は手がけた詩や短歌や俳句や評論を本にすることに情熱をかけていた。ざっと算えただけでも、仲本瑩氏が作成した「勝連敏男著作目録」(私家版)によれば32冊出している。18歳、高校生のころに第一詩集『帰巣者の痛み』(私家版)をだしたというから早熟な人でもあったにちがいない。このころに「帰巣」という言葉を使用していたことは、〈出立=逃亡〉につながる夢をもっていたのだろう。
 本を出版することは経済的な問題が左右する。本を出したくなっても資金がなければ出せない。今のようにワープロがあって、本を出しやすくなった時代ではなかった。殆どが活字を組んで出す時代であったから、それなりにコストはかかる。そういう時代に、32冊も出したと言うことは、驚異的である。どこから、出版費を捻出したのか。それほど装丁や製本のいい作りをした本とは思えないが、それにしても、相当かかっているはずである。………とぼくがそんなに気にするのは、彼は定職につかずにいたし、経済的に余裕があったとは思えなかったからである。(と僕にはみえていた。)にもかかわらず、あれだけの冊数を出すことは、不思議だし謎めいている。よっぽど要領のいい人だったのだろう。ぼくは「え、また出したの?すごいなあ」という感じの感想をもったことは事実である。あるとき、彼はこう言っていたことがある。
 「ランボーも山之口貘も詩を書かなかったら、タダの浮浪者にすぎなかったんだよ。」
 勝連敏男は、詩人という存在が社会(俗世間)のなかでどう扱われるか気にしていた。詩人というのは俗世間では社会的に知られていても容認された存在ではない。いや容認されたとしても〈変人〉扱いされるのがフツウである。よくひきあいに出される逸話に「日本で詩人をして生活できている人は、谷川俊太郎と田村隆一、吉増剛造ぐらいだ」というのをよく聞いたが、ぼくにいわせると「だからどうした」といいたくなる。詩を書いてそれで食っていこうと思っている人はぼくのまわりには皆無であった。山之口貘は「詩人がどんなに詩人でも 未だに食わねば生きられないほどの/それは非文化的な文明だった」と嘆いたし、詩人=脱落者と受感した石川啄木は「友がみなわれよりえらくみえる日よ花を買いきて妻と親しむ」と歌った。勝連も詩人が俗世間で疎外された人間であることは感受していた。そこで詩人の仕事として、俗世間に対して顔向けできることは「本を出す」ことであると思っていたのではないか。そのために、ぼくからみれば〈豊穣な夢のごとく〉本を出していたのである。それが詩人の業であるかのように、だ。考えてみれば、それは当然のことである。彼は「猫も杓子も詩集を出している。一冊だけ出して詩人と呼ばれたいヤカラもいる。恥ずかしくないのか」といっていたこともある。彼のように定職就かずに、詩歌を書いて本を出す意味は、社会に対する自己の主張、砦としての詩人の存在を求めていたからではないか。そういう意味では、勝連敏男は沖縄でいちばん〈生粋の詩人〉をめざしていたということができる。つまり、自分の人生を〈ほんとうの詩人〉に近づけたのである。これは正当なアナクロニズムである。
 年譜(『脈』第50号「特集・勝連敏男追悼」、1994・10)には高校卒業後、東京の舞台芸術学院に進んだとあった。この学校は俳優養成を目的とする専門学校のようである。ネットでみると、出身者(卒業者?)に、そうそうたる俳優・女優の名前がある。普通ならば大学や就職のためなら専門学校へ進むと思うが、彼は、俳優という役者稼業をめざしていたということを知って面白い人だな、と思った。しかし、1年でやめている。やめないで続けていると、舞台か映画のどこかに顔を出して出演していたかも知れない、と想像したりする。しかし役者をめざしていたという話をぼくは彼から聞いたことがない。個人史をお互いに語ることがなかったのが残念だ。
 勝連敏男の書くものに、「政治的」「社会的」あるいは「状況的」な背景があまりない。全くないわけではない。『羽根のある祭り』の後半には革命運動と自己を交叉して語るところがあるが、政治運動には距離をおいて冷めてみている。生まれたところが沖縄の北谷であることから、広大な米軍基地が目の前にあるし、米兵犯罪で騒ぐとかいった沖縄的現実があったとおもうが、そういうところからの詩的噴出がない。北谷という場所は、戦後の米軍による土地接収で、小さい地域に追いやられ、結果、農業をやるような地ではなかったし、かれの出自も農を営む家ではなかっただろうし、だから村=共同体意識が薄かった、と推測する。また、かれの俗世間に対する〈わが生き方〉があったであろうし、文学というものに対して集団的な思考を導入することを遠ざけ、個の生き方を強く立たしめる詩的精神を宿している詩人をめざしていたと思われる。
 勝連敏男は資質、受難、磔刑意識の強い詩人であった。しかし、自分のいちばんの理解者は自分自身であることを彼はよく知っていた。


吉本隆明ノート Ⅱ ― 吉本「南島論」の片隅で

2019-06-08 | 詩人論、作家論、作品論

Ⅱ 吉本「南島論」の片隅で  

 1 

吉本隆明の『全南島論』という書物がでた。6千円もする。貧しい年金の生活事情で買うのを躊躇したが、買った。だいたいが図書館を利用して読書するのが最近のスタイル。若い時は欲しい本は買った。その本が増えていった。結婚後、家族が増え、アパートが狭くなり、書棚があふれて邪魔になった。子の生活空間を確保するため本を古本屋に売ったりした。しかし、一軒家に転居したいまも既存の本で書棚が足りない。買っても置く場所がないので、多くは処分したり、できるだけ買わないようにしている。文庫版で間に合うのは文庫版にしている。

吉本隆明の『言語にとって美とはなにか』、『共同幻想論』、『心的現象論序説』といった吉本思想三部作。『母型論』、『アフリカ的段階をめぐって』、『心とは何か』、などなど関心の思想の数々。文学作品への批評論。吉本の本がばらばらにある。ましてや、この本、自分が住む場所について書いている本だから買わないわけにはいかない。 

「吉本隆明にとって南島は、人間の表現の『原型』、さらには、人間の家族・親族・国家の『起源』を探ることが可能な場所であった。それは同時に自らの詩人としての起源、批評家としての起源が立ち現れてくる場所でもあった。」 

安藤礼二の解説にある、吉本隆明と「南島」との関係と位置づけは修辞的といえ、みごとというしかない。「原型」「起源」という語彙が言い古されたものであったしても、語ることによって新鮮さが伝わってくる。人並みに吉本隆明を追っかけ、学ぶことばかりしてきた私のような万年学徒には、その思想の総体の把握は不可能で、読むのは、詩や文学に関する部分と『心的現象論』など三部作が中心であった。しかし、南島に関する文章は、特殊な感覚で読んだ。当然、南島人(?)である自分自身を念頭にしているからであった。学徒であったから、学ぶのに精一杯であった。次から次へとでてくる発言に刺激され、吉本隆明はこう言っている、こういう見方している、の次元でいるしかなかった。しかし、その学びは無意味ではない。安藤氏の文章。なるほど、吉本の南島への視点はそうだったかもしれない。島尾敏雄は南島に惚れるように書いたが、たしかに吉本は、表現の原型、起源を求めるように南島を相手に取り組んできた、と思う。ところで、この書物、『全南島論』としているが、収録内容が南島に関するものであるということであって、吉本隆明の南島に関する全てを収録しているというわけではない。たとえば、『母型論』にある、「語母論」「原了解論」などは入っていない。

今回の作品社の『全南島論』は、沖縄にいる我々に向けて出されたものじゃないかと誤解している。我々にとっては、ブラボーというべき、書物だ。かつてあった「琉球・沖縄ブーム」はなんだったのか。問い返しながら、〈いま〉と時点で〈読む〉。で、どうなのか。「いまごろ南島論か」とみるむきがあるかもしれない。あるいは琉球・沖縄への古き言説とするか、新たな発見とするか。いやいや、吉本南島論理解を確認すればいいさ。とするか。2016年の沖縄の時点で読み解く。「日琉同祖論」をあげつらって、これまでの日本同化が悪かったと後悔、懺悔、批判するものがいる。「ドクリツ」志向論に、「この連中、本当の覚悟はあるか」と疑問する戦闘的意識家もいる。政治的、状況的言説が優先される昨今の沖縄への言説に異和感をもっているものは、たとえ現実の政治状況が重たいものであっても、根源的、本質的なものをみよう、読もうとする思考を失ってはいけない。いま右も左も奇妙な言説が噴出、固着しはじめている。

「南島」といわれる場所に住んでいるものには、南島ではない誰かが語るそれが、この南島のことであるという、いわれて気づく鈍感さで、来たのではないか。あるいは「南島」という言い方が、北の日本=ヤマトからの言い方だから気にいらない、ここは「日本の南島」ではない。ここは琉球弧だ、「琉球王国だ」「琉球だ」「沖縄だ」といえばいいのか。

しかし鈍感さと惰性。この場所でみずからが思考して生み出すべきことをたいして、やってこなかった。伊波普猷をはじめとした「沖縄学」というアカデミズムは盛んであったし、それなりに成果はある。復帰の頃に、にわかにとりざたされた〈沖縄の思想〉としての産物もいろいろ出ていた。それは今も続いている。ところがそこに奇妙な感情を入れ込み、強権への対峙の作戦として、排外的な言説で自己同一化を装飾してしまっている。ここには、連帯の精神が欠如してないか。個的幻想と共同幻想の対立と葛藤、潜在化する内なる差別の心性を問わないのか。熱気と冷め。無知と利用。伝統主義と非創造。自己中毒。沖縄的なものと非沖縄的なものの相克と回避。島の宿命へのシナリオ書きと演出家と役者。煽動と挑発と無責任のグチくぐり。アイデンティティは心的支柱になっているか。無意識のナショナリズムと沖縄社会の変容と変質のさなか。ああ、沖縄、オキナワ、OKINWA、ウチナーよ。

つまりだ。琉球・沖縄に生まれ、おのれを「琉球人」「沖縄人」「ウチナーンチュ」と自覚する、あるいは自覚させられるものは、日本の、ヤマトの、外国の、頭脳高き歴史、社会、民俗、国文学者や物書きや知識人や文化人やらが、この琉球・沖縄=南島のことを「なんと言っているか」「なんと書いてきたか」に敏感に耳目を傾け、歓喜や悲嘆や憤怒を自らの体内遺伝の感電体で反応するところがあった。まるで自分の身体と心をまさぐられ、撮られ、裸にさせられ、辱められ、踊らされる、そんな気分のように。それらの書物を読んで、「よくぞ、いってくれた」「よくぞみつけてくれた」「先にやられた」「ちくしょう、このやろう」「ほう、なるほどね、そうみたか」………と南島に住む者は「学びの姿勢」ばかりで自らの遅れた知と思考に気づいて地団駄を踏むことが多かったのではないか。自らの生きる島のことを書かれて、案内役ばかりをして自らの知的思考の無さや思想的怠惰をさらけ出してきたではないか。島を調査されて書かれて本にされて「研究の材料にされて」、日焼けして肌の黒い島の我らのおばあ、おじいたちがはにかみながら語ったことが次から次へと「研究、報告」「被写体」の材料にされて、彼らの実績づくりのものとなってきた。日本とはなにか、日本人はどこからきたか、その起源と源流はどこにあるか、を解明するために、この琉球・沖縄が、「日本の祖形」「日本の古層」を保持しているところとはやしたてられた。たとえば「イザイホウ」だ。密かに行う島の宗教の祭儀を、県内外のメディアや学者やらがカメラやビデオで撮りまくり、「エーファイ、エーファイ」と裸足で踊り走りまくる神がかった久高島の古代の女達の姿を採取して、「ここに日本の古代がある、ふるさとがある」と我先に報告(書く)してきた。島外の祭儀と関係ないものたちが大挙押し寄せ、「見せる祭儀」にしたてられたのは、琉球・沖縄の土俗・習俗が、どう扱われているかを象徴するものであった。島のひとにとっても、見せる土俗、習俗にされてしまった感想があったのではないか。継承者がいなくなったという事情があるだろうが、一方では見せ物にされる祭儀は「もうやめたほうがいい」と冷めたのではないか。もはや、〈琉球・沖縄〉は過去の遺物である。琉球王権の祭儀的空間である(あった)斎場御嶽なんぞ、みごとな観光地になっている。神聖な御嶽が見せる斎場=祭場になっている。どこもかしこも〈琉球・沖縄〉は、観光用の商品価値にすぎない。琉球・沖縄人が所有しているものは、過去の遺物、遺跡にすぎない。しかし、そうなのか。―ほらほら、これが沖縄だ、琉球だ。 

2 

吉本隆明の南島についての思想的態度というのがある。たとえばこういう箇所。 

「わたしたちは、琉球・沖縄の存在理由を、弥生式文化の成立以前の縄文的、あるいはそれ以前の古層をあらゆる意味で保存しているというところにもとめたいとかんがえてきた。そしてこれが可能なことが立証されれば、弥生式文化=稲作農耕社会=その支配者としての天皇(制)勢力=その支配する〈国家〉としての統一部族国家、といった本土の天皇制国家の優位性を誇示するのに役立ってきた連鎖的な等式を、寸断することができるとみなしてきたのである。いうまでもなく、このことは弥生式文化の成立期から古墳時代にかけて、統一的な部族国家を成立させた大和王権を中心とした本土の歴史を、琉球・沖縄の存在の重みによって相対化することを意味している。」(「異族の論理」) 

沖縄の、あるいは沖縄についての思想を語るときによく持ち出される、この吉本隆明の文章は、1969年の「文藝」12月号に発表されたものである。アメリカの支配から脱却するために、単純に祖国復帰を叫んだ運動は、それなりに沖縄の民衆を動かした。アメリカ対日本という対置である。民族的な感情。琉球・沖縄人は日本人である、だから、日本という祖国に、アメリカの軍事支配を断ち切って、日本の一県になるという願望だった。「沖縄の祖国復帰が実現しない限り、わが国の戦後は終わらない」と時の日本国家の為政者が那覇空港でケンミンの前でぶった、その一言に、親が子をおもう気持ちとして、「よくいった」「してくれる」とケンミンは思ったか。だがその沖縄返還過程の内実は歴史で明らかになっている。素朴な県民感情を利用して、政治の裏側で、日米の政治官僚たちの、巧妙で陰湿な取引がおこなわれていた。それが今に続いて沖縄は政治的苦痛と怒りのさなかにある。吉本は、沖縄は「帰るも地獄、帰らないのも地獄」とも書いた。さらに70年代の状況への発言で「尖閣は日中の墓場になる」とすでに予想していた。その通りになってきた。

弥生式を基盤にできた天皇制を寸断できるものが、琉球・沖縄にある、といわれたことが、その後の沖縄の思想家たちに影響を与えたことはよく知れたこと。琉球・沖縄の「異族」意識の産物と島尾敏雄のヤポネシア論は、当時のマイナーな流行語でもあった。新しい思想の方向性をみつける契機ともなった。おそるおそる「日本人になろうとしてなれない沖縄人」といった心理的葛藤が、本土側からの言説によって、輪郭を明確にしたといえる。

吉本隆明がぶった、1988年12月の那覇沖縄タイムスホールでの講演「南島論序説」。切り口は「都市論―南島論」である。体内言語、遺伝子言語、方言分布、自然、神話、地名、祭儀、………おそらく聞いていたほとんどが呆気にとられたのではないか。聞いていて、こういう話の流れがどこでどうつながっているのか、私などは理解できなかったが、吉本隆明は、吉本的理解と解釈を深めながら、相当遠いところにいっているんだな、ということはわかった。

しかし南島との関連づけを国家の次元まで展開した発想に魅了されたひとは多いのではなかったか。 

「つまり図式的な幻想化、段階化ということなしには、たとえば基層をあくまでも掘って日本国の成立以前的なところまでいって、それをイメージ化する。そのイマージ化したものが、世界のあらゆる地域の基層のイメージと全部通じていって、ある普遍性を獲得する。そういうところまでいけないとおもうのです。つまりふたつしか方途はないわけで、幻想化してゆくか土地の内部にじっくりと住み着いて、じっくりと考えて、じっくりと掘っていくというやり方をするか、どちらかだとおもいます。」

「僕が申し上げられることがあるとすれば、基層をどこまでも掘っていって、日本国の枠組を超えて、人類の普遍的な母胎といいますか、母型といいますか、そういうものとつながるところまでイメージを拡大し、はっきりさせていくという課題と、世界都市論というものが、いかにして日本国家自身と矛盾しながら、自己拡張をやめられない現状になっているかという問題とは、かならずしも無縁ではないということです。」 

このころには、吉本の視点が都市論になっていることがわかる。「基層を掘る」という思考は『アフリカ的段階について』へも応用されている。すごく遠大なイメージで原型=アフリカ的という構想がある。われわれの足跡を遡行していけばアフリカにつらなるという原型への遡行を壮大なイメージで語っている。 

「わたしたちは現在の歴史についてのすべての考察をアフリカ的な段階を原型として組み直すことが必須とおもえる。アフリカ的な段階のあらゆる初源的な課題を、すべて内在(精神)史化することが、同時に未来的(現在以後の)課題を外在(文明)史として組み上げることと同義を成す方法こそがこれに耐えうるとおもえる。

固有アフリカの現在のさまざまな問題は、南北アメリカの固有史にもあるし、日本列島の原型的な固有性をのこしているアイヌや琉球や本土の固有の古典史にも存在している。」(Ⅳ) 

天皇の国家、反復帰論、異族論、………そして都市論。してみれは、私にとっては、南島論理解は、政治の問題から思想の問題へと敷衍して、ある程度の場所まできて、さらなる重層化した地点にあり、いまそこで、ただよっていると思わざるを得ない。

一方では、言語や人間の存在や生にまつわる普遍的な問題として、『言語にとって美とはなにか』や『共同幻想論』、『心的現象論』で展開した言語発生、母型論、心の問題などのほうが、詩的、根源的な魅力、つまり、内面と想像力を刺激する。なんといっても普遍的な視点、奥が深いからだ。といって著作を理解しているわけではない。吉本は読者の理解をあてにして書いていない。どこまでいけるかわからない。ひっかかるものに従ってどんどん進んでいる。それが吉本隆明の思想のエナジーだ。

戦中、社会主義や個人の近代的孤独を表現していた詩人や作家が戦争肯定や従事者となったのはなぜか。吉本隆明はそれを『芸術的抵抗と挫折』や『抒情の論理』などでさまざまな批判を費やしてきた。そのあとに『言語にとって美とはなにか』、『共同幻想論』、『心的現象論』を書いた。ここにはマルクス主義やリアリズム文学への直接的な批判はない。ないというかもはや無駄なことはしない。彼自身の思想のいくところで世界の構造をあきらかにすることにつきすすんでいたことになる。

「南島」に住むわれわれにとって、吉本隆明の南島論は、やはり先をいっている発言であった。日本神話、記紀歌謡、万葉集、おもろさうし、イザイホー、ユーカラ、琉球王権の分析、、、。既存にある国家の言語である歌やことばを介してとりだしてみせる数々の視点は、いわば起源をさぐる視点である。それは、『共同幻想論』の応用だ。国家は共同でつくる幻想だ!その幻想の中身と質を徹底的にしていくこと。都市論、ハイ・イメージ、南島論は国家を突破していく方向性を幻想化できうるものとしてわれわれの前に登場した。

柳田国男や折口信夫や伊波普猷らの読解と解釈。読み解く強靱さ。そうだ、思考の強靱さだ。造詣の広さと深さ。読書量。知識の豊富さ。思考、思索の強靱さとやわらかさ。これはだれも真似できない。吉本隆明は権力を持たない人だ。一度電話で話したとき、はっきりとわかった。ああ、このひとはどんな人にも丁寧に対応するひとだな、と感じた。

吉本隆明はアカデミズムな組織に属さなかった。日本の知識人、学者のほとんどが、どこかの研究、教育組織に依存して組織の職階に身をおき経済を守護されたたうえで、現世的上昇欲をもちつつ、研究したり、書いたりしている。権力組織の一員であることに利をえている。かれらとちがうところが、吉本隆明の偉大さでもある。 

3 

歴史というものには絶望する感覚しかない。なぜかというと、歴史は変更できない厳然たるものとして存在して幅をきかしているからだ。すでに起こってしまったことだから、過去を特権的な扱いにし、歴史言語を権威化し、時空を巻き戻すことはできないようにしている。歴史を語るものたちが占有して、自らの解釈を加えてつくりあげた歴史観ができあがっている。だが、そのできあがった歴史観で琉球・沖縄の時空を固定的にみる視点から一度離れてかかる必要がある。グスク時代以後で琉球ができあがった部分とそれにとりこまれなかった部分があるはずである。この乖離、空白はどこかで継続と断絶を繰り返し複雑にからみあっている。吉本隆明のように、弥生式以後にできた天皇制国家を照射するには、それより以前の視点を探ることが重要だ、という見方。それはアフリカ的段階まで延引できる。九百年前のグスク時代、草創期を含め三山時代、第一、第二尚氏の八百年続いた島嶼の国の歴史、琉球という国。しかし、それ以前の貝塚、先史といった時空への視点。一万八千年前の港川原人、最近の八重山白保で見つかった二万年前の〈白保原人?〉等を見ただけでも、かつて、この琉球の島々に原琉球・沖縄人というべき人(々)が住んでいたことは確かなのである。とすれば連綿と続いた数万年前の悠久の時空にあった有形無形の時間と事物があったはずで、かれら原琉球・沖縄人の定着と移動、原村の生成、いつの時期かわからない外来人族(久米人とは異なる、はるか以前)の移入、かれらとの対立、交通、混淆、時空的接触がどのような過程をへて、以後の琉球・沖縄人を形成して、その歴史を作ってきたか。共同幻想の基層を掘って、母型のイメージの拡大を図ろうとすると、今固定していわれている〈琉球(王国)〉の時空、範疇を逸脱してしまう。しかし、そこが魅力的なところである。琉球人とはなにか。沖縄人とはなにか。日本人とはなにか。琉球・沖縄には散在する島々があって、そのどこかに住み着いていた人々(原始的島人)がいた。これは決定的だ。ではどのように〈○○人〉というものは形成されてきたか。それを、はるか以前の時空の彼方からみていくとどうなるか。三線が流布する前の楽器とは何であったか。大海原を渡ってきたわれらの先祖、貝塚人や先史人たちの空間、言語や歌はどういうものだったのか。基層のイメージを掘って結べるものはないか、姫神ではないが「あの遠くのはるかな声」を聴きたい………。(続)


吉本隆明ノート Ⅰ ー 『心的現象論』ランダムノート ①玄関口で        

2019-05-16 | 詩人論、作家論、作品論

Ⅰ 『心的現象論』ランダムノート ①玄関口で 

吉本隆明の『心的現象論序説』という著作がでたとき、その書名に「いいねえ!」、この言葉の持つ響きに感応してすぐ買った。心的―現象―論! 内部の世界に関心のあった若き精神にとってはぴったりの言葉だった。

二十代前半のころ。政治活動に異和感と限界を感じて、活動そのものから離れようとしていた。政治革命はほんとうに人間存在を変革できるものなのか。階級廃絶の理想はほんとに可能か。人間を根源的に変革、解放できるのか。疑義と不信が大きくなっていき、疑念を追った結果、現実革命よりは内部(精神)革命が本当の革命だと思うようになった。それを転向とか挫折とかカッコつけていえない。自らの認識の弱さや実践のひよわさを感じながらもその否定との間で、思考の方向性を変えたといったほうがいいのかもしれない。そんなとき、吉本隆明と埴谷雄高はかっこうの思想家、文学者だった。かたや自立の思想、かたや幻想家。どちらも現実に対して、現実をとらえながら、自らの言葉で、自らの存在をかけて、書いたり発言したりする姿にあこがれてしまった。ふたりとも一時組織にいて、組織を離れ、単独者として発言したり、書いたりしていた。どちらも思索の過程で政治の限界をみていた。そうすると、こういう人からは学べるものがあるという確信になった。書いているものは、刺激的だった。同時代にいて思考し発言し書いている。二人の思想、文学者が書いているものは、手にいれ、読むようにした。

そのときの私の内部にあった問いは、人間をどう理解するかという素朴なものであった。伝統や習慣が強く支配する小さな島で思春期まで過ごし、学校や図書館などの本でこの世に〈世界〉というのがあることを知って、その世界を知る、そして人間そのものを理解する必要がある、となんとなく思っていた。それから、どこにむかっても人間、人間とはなんぞや、だった。島や村の人達の世界の狭さと思考の貧しさに辟易して、失語症的になったり、昔からの習俗や習慣が支配する風土からの離脱を目指そうと、貧しい家の経済状態を知りながら、親に頼んで、海の向こうの沖縄本島にある琉球政府立の大学に進学した。

小林秀雄が「人間は精神的存在だ」とどこかで書いている文章にであって、小林秀雄に傾いたり、絶望のときになにもしないことが本当の絶望だ、という実存主義の言葉にふれて、実存主義にいったり、あるいは人間の苦悩を神や修行で説く宗教的な本(聖書、仏典)をかじったりした。そのうちに文学にかぶれ、詩にめざめ、本格的に詩の本を読むようになり、自らも書くようになっていた。そんな関連の本を手にすることが多くなって、日毎、文学、ぶんがく、ブンガク、Bungakuの周辺をめぐっていた………。農民でもなく組織労働者階級たるものでもなく、S氏にいわせると「階級からも疎外された」存在たるわが家系、島でも有数な貧困プロレタリアートの息子が知的観念的なものにあこがれていたのは、滑稽であり、喜劇であり悲劇である。と思いながら大学図書館で書物を眺めて手に取って読んだり、那覇の本屋巡りをして新しい本や文学や思想を吸収したりした。

一度はかぶれた社会体制を変革する思想と運動を離れて自分の生や青春の絶望的な雰囲気にまみれて、アルコールと煙草、アナーキーなふらちな学生生活を送りながらなんとか卒業できた。そのころ、離島から那覇にひっこしてきた親とスラム街のトタン屋根の家で生活していた。離島や地方から、仕事を求めて那覇にきた人たちは、戦後の復興から取り残されたようなトタン屋根のバラック造りの多いスラム街に住んでいるひとが多かった。しかも借家である。わたしは、そのころ大学を卒業しても、職につけず、失業して困窮していた。

学生時代から続くアルコールの匂いがぷんぷんした暮らしをしていた。〈文学意識〉と活動は、それなりに続けていた。自分のような人間には文学しかない、という絶望的な気分でいた。………そのころの思い出の情景をひとつ思い出した。―

いつも家の前の路地を夕方、香水のきつい匂いをさせて歩く女がいた。肌が白く器量は悪くない。母が「かぬミドゥンな、スタリッパーつぁー」(あの女はスタリッパーらしいよ)と島言葉でいった。そういう言い方には庶民社会の、身体を売る商売への差別が入っていて警戒するような言いぶりがあることはわかっていた。その女の男なのか、ヤーさんがいつもついていた。声をかけただけでも、半殺しにあいそうな感じだった。このへんは夜の仕事をする離島出身の女たちが多く住んでいた。ある日の夜、悪い仲間と一緒に酒に酔ったほろよい気分で歓楽街を闊歩して、あるストリップ劇場に入った。プロコル・ハルムの「青い影」が流れ、ネグリジェの女がでてきた。ひとつひとつ着けているものを脱いでいった。身体が光をあびて白く輝く裸になっていった。その姿を酔いの目でみていると、目と目があったような気がした。あ、という表情をその女はしたような気がした。ボクも、あ、となった。その女は、家の前の路地を歩く女だった。いいものをみたような悪いところをみられたような恥ずかしいような複雑な気分になった。女がボクに気づいたというのは勘違いだったかもしれない。暗闇で白い光をあびて踊る彼女の裸体はすばらしかった。美しくエロチックであった。ボクはその夜、彼女を想像しながら性的妄想を消すのに苦悩した。しばらくして仕事がみつかっって引っ越しをしたので、彼女の姿をみることはなかった。

雨がふるとトタン屋根は音たててわめき始める。そんなある日、貧しい生活の情景で、現実から逃げるように、本を読んでいる自分の姿に突然、嫌悪感がわいてきて、読んでいたフランスのカミュの本を引き裂いたことがあった。なにが不条理だ! こんな本を読んでも、社会やおれの生活はかわらない! というのがそのときの心境だった。貧しいものには、人間がどうのこうのとか、関係ない。喰っていくことが先行大事なことだ。それから世俗的な世の中への自分の甘さを反省し、就職活動に力を傾け、運良く琉球政府公務員試験に受かり、学校事務職の仕事を得たのであった。生活はいちおう人並みに安定した。しかし島を出た頃の〈問い〉が精神の根っこにぶらさがっていた。文学意識も内部にびっしりとりついていた。というより、自分の表現する場所はそこしかないという認識があった。そして、ずっと続いている。

上部構造は下部構造にのっかかるあぶくのようなものだ。しかし下部構造だけでは人間はわからない。そのあぶくは、下部構造的な人間の本質を理解するものなのだ。上部構造が変われば下部構造に変化を与えることができる。そう思ったのはいつのことだったか。どちらにしても、一方だけでは欠陥だ。それに気づいたのだ。

そういう認識で世界を見始めていたとき、吉本隆明の『言語にとって美とはなにか』、『共同幻想論』に続く、『心的現象論』がでたとき、ブラボーと思った。私は「試行」はとっていなかったので、吉本隆明の思想の現在進行形はわからなかった。本になってはじめてわかった。心的現象論か! なるほど。すばらしい視点が出たな。これは人間学の先端を駆ける、日本の思想界での記念碑的書物じゃないか。やはり吉本隆明はすごいことをやるひとだなと思った。

『心的現象論序説』の冒頭には次のような言葉がある。 

「〈言語〉の考察をすすめていたあいだ、たえず、言語の表現が、人間の心的な世界のうちどれだけを作動させ、どれだけを作動させないか、もしも、言語の表出において心的世界がすべてなんらかの形で参加するとすれば、はたしてその世界はどんな構造になっているか、というような疑問につきあたってきた。この疑問は、わたしの言語表現についての考察を基底のところで絶えずおびやかすようにおもわれた。そこで、〈言語〉の考察が、あとに力仕事だけをのこして完了したあとで、心的現象について基本的なかんがえを展開しようとおもった。」 

私は「心的現象」という言葉の新鮮さにひかれたのだった。ヘーゲルの『精神現象学』があるが、これは大上段にかまえた実に哲学的なもの。意識、理性とかなるとちょっとちがう。やはり「心的」でなければならない。これは私が無知かもしれないが、心的現象といいかたによって、そのものを対象にして手をつけた文学者は吉本隆明が最初であった。『言語にとって美とはなにか』では、言語はすでにできあがったものとして論じられている。できあがった言語(表現)を対象に、言語の発生から表現過程、表現形態へと論を進めている。ここには、個人の意識が外在化されたものとして、自己表出と指示表出という有名な編みだしがある。『言語にとって美とはなにか』も言語表現を分析していった前人未踏のすぐれた本ではあるが、私には、『心的現象論序説』の仕事のほうがいっとう魅力的である。なぜなら、そこには言語以前の言語と外在化された言語のつながりと切れを両面から説いていたからである。「つながり」と「切れ」というと直感するひととそうでないひとがいるだろうが、言葉(言語)は、外にでるから言葉なのではない。そとに出ない言葉もあるのだ。そとに出ない言葉とはなんだ?そんなのは言葉じゃないだろうという声がきこえる。そのとおり。きみらが考えている言葉は、何らかの言葉、対話や説明やささやきや、論文やプレゼンスや文学作品や報告や記事や演説や牧師の説教や、………等々であろう。だが黙っていることも言葉なんだ。そこをみなければぼくらはダメなんだ。声なき声?文句はあるが故意に黙っているか、なにか違うぞと思いつつ、しかし言葉として表現(外在化)できない状態。そういう状態を悪用している勢力もあるが、そんなものとはちがう。心的な言語はだれにもあるものだ。それをあぶり出し、俎上にあげることが、いかに大事なことか。

また冒頭に戻る。 

「いうまでもなく、この領域は、心理学、精神医学、哲学の領域に属してわたしはひとびとがわたしの専門とかんがえている文学の固有領域から、すくなくとも具体的には一段と遠ざかることになる。しかし、現在では、一個の文芸批評が独立した領域として振舞おうとするとき、このような文学的常識からの逸脱はまぬかれ難いものである。そしてこの逸脱が、いつの日か文学芸術の固有領域を根源において惹きつけるということを信ずるほかはない。わたしは、じぶんがなにをしつつあるかを宣告しようとはかんがえないが、なにかをなしつつあることは確かであるとおもわれた。 」

心理学、精神医学、哲学。これらの学問から抽出した心的現象の言説を分析して、これまでになかった心的世界の解釈を開示して見せた。こうなってくると、文学や思想に関心のないものにとっても、吉本思想は関係してくる。参考になるというか、視野の拡大がみえる。「文学は文学を対象にやっていればいい」という通常の観念を超えて普遍的なものに拡大していく方法がある。文学とこれらの学問との関係は〈逸脱〉というが、私には、詩的逸脱であり、文学言語の秘密や、言葉でできることを世界化したものであり、高度な詩的作品として読むことが可能である、わたしにとっては。文学言語の定型を破砕することも一度は必要なのだ。したがって、『心的現象論』をひとつの文学作品として読むことができるというものだ。文学というと「架空のこと」となるのが普通だが、普遍的なことをめざす架空と考えたい。しんに迫る架空というのか。

次は「Ⅰ 心的世界の叙述 1 心的現象は自体としてあつかいうるか」にある。個体が異常あるいは病的な行動をとったときの心的な状態についてこう書いている。 

 「かれがどんな心的状態にあるかは、他者から完全にはうかがいうるわけではない。その心的状態はどんなに豊穣な世界だと考えても、どんなに荒廃した世界と考えても、とがめられる筋合いはない。その世界はかれ自身のみが知っており、しかもそのかれはかれ自身の世界を知りえない状態にある。平常にかえったのち記憶によってたどられるものは、厳密にいえばそのときのかれの心的状態ではない。ただその心的な残照について語れるだけである。そうだとすれば、個体のこのような世界は、その個体にとってのみ有意味な部分を包括しているとみなすことは、けっして不当ではない。」 

〈心的〉という世界が個人の世界で生まれることは、だいたい周知しているはずだが、その個人の世界は他者から伺いうるものでなく、彼自身のみが知っている。ここから自我と外界、心の存在へ敷衍している。それが外に表れることが表現というものだ。「かれ自身のみが知っており、しかもそのかれはかれ自身の世界を知りえない」から、心的残照として表れたとき、それが文学作品や芸術作品ともなりうる。それが「どんなに荒廃した世界」であったとしても、「とがめられる筋合いはない」のだ。このことは誰でも体験的にあるものだ。われわれは社会の〈意識〉をそのまま自己の意識にしているわけではない。自分自身にしかない世界=自分の〈意識〉というものを持っている。その世界は、豊穣でもあるし、荒廃もしている。そういう状態にあること知覚している場合もあるし、無知である場合もある。ある状況にきたとき、その〈意識〉は状況に対した自己の産物として表れる。あるいは思考の結果として表れる。 

「心的な現象が、現実的な現象であることをもっともよく象徴するのは、それが〈病的〉あるいは〈異常〉な行動となってあらわれるときである。しかし心的な現象が、その内部でたんなる現実的な現象、たとえば樹木が風に揺らいでいるとか、人が都市のビルディングの間を歩み去っていくというかいう現象とちがうのは、それが同時に可視的でない構造的な現象でありうるという点にある。
樹木が風に揺らいでいる。いま、わたしがそれを視ている。もしそのとき、わたしが眼を閉じることで視覚を遮断しても、いぜんとして樹木が風に揺らいでいるという現象は、この世界から消失しない。 

 わたしはここで〈心的〉という言葉がなにを意味するかをはっきりさせておきたい。
 ここでいう〈心的〉という概念が〈意識〉にたいしてもっている位相は、あたかも〈思想〉という概念が〈理念〉にたいしてもっている位相のようなものである。〈思想〉という言葉が包括するものは、確定した抽象的な層まで抽出すると〈理念〉にまで結晶しうるが、また日常の生活の水準では、たとえば魚屋が魚をよりおおい儲けで販るにはどうすればよいかというようなことをかんがえたすえ、体験的に蓄積した判断のひろがりのようなものをふくんでいる。それは、いわば魚屋の内部で〈思想〉を形成する。おなじように、わたしが〈心的〉というとき上層では〈意識〉そのものを意味するが、下層では情動やまつわりつく心的雰囲気をもふくんでいる。」 

いっていることは比喩的ないいかたも含まれているが、〈心的〉をイメージすることが理解につながる。「可視的でない構造的な現象」が病的か異常かとは、どこで判断するのか。われわれの世界にはなにがあるのか。人間はなにを思念してなにを正常、異常、病的といっているのか。現実感がないということがそれか。「可視的でない構造的な現象」が心的現象であるが、病的あるいは異常な行動、として表れてきたとき、心的な世界の存在を重要視しなければならない。つまり「なぜか」ということだ。なぜそういう行動をする心理にあるのか。そこに出てくるテキストが、心理学であり精神科学であり哲学であるし、さらに文学である。だが文学は同列には扱えない。作家や詩人は、なぜこんな行動をするか、というレベルで考えることはできないからだ。文学は客観的な位置で、言語の創造活動をする行為である。

「心的」という言葉の説明で、心的には上層で「意識」があり、下層では「情動」や「心的雰囲気」をもふくむという。これだけ言えば、〈心的〉を構成する全てを説明したことに納得がいく。人間は意識的動物や感情的動物だから、その両面をみなければならないということと理解する。人間という存在の、行動の、表現の、なにか現象や形になるには、意識と情動をおさえた〈心的〉のものからみていく必要があるのだ。その資料はないから、フロイド、ミンコフスキー、ユング、ベルグソン、フッサール、クレペリン、セシェー、ビンスワンガー、ヤスパース、シュナイダー、クレッチマー………などそうそうたる心理学、精神医学、哲学の書を通して、『心的現象論』は、吉本隆明の理解と解釈を加えて、その全貌をつくっている。心的現象論の入門書である『心とは何か』では三木成夫が大きな存在になる。ページをめくるだけで、すごく学べる。そして後にでた『母型論』を加えてもいい。

近年ではスピリチュアル、体外離脱、臨死体験、超常現象、超能力といった好奇的で超科学的な肉体と意識の離脱、物質と霊性、神秘的世界を語る本が数多くでている。これは個人の体験を基礎にしたもので、心的世界の対象とみることができる。まがいものであったとしても心的世界は無限に広がり人の心を照射する。心が変われば世界をみる眼が変わる、人間が変わる。〈変わる〉という意味が何であり、どのように可能か。脳科学という学もある。脳機能の毀れ、脳が病むことによって輩出するのは、心的現象がいちばん顕著である。統合失調症、鬱病、躁病、認知症、てんかん………たしかに〈心的〉な異常や病いが脳の機能、神経物質、ニューロンのバランスの問題であることはまちがいない。そういう状況にあるものも〈心的〉な世界を生み出す。しかもそれは固有な出し方であり、心的現象として普通にでてくる。ひとの『心的現象』には際限がないとみるべきだろう。外に出なくても家のなかにいて世界を知る、世界と交信することを可能にした情報通信、インターネット時代において〈心的〉なものとはどのように存在するか、しているか。いまやこういう視座も必要になっている。
壮大で深い謎でもある心的世界=精神の世界をテーマに切開していった『心的現象論』を、読み解いていくことは、本質病にかかったものには、実に魅力的だ。だが、思考や理解をこえる難解な文章の森のなかをさまようようで、なかなか前に進めないでいる。ただ心的なものとは、目に見えないが、人間に強く存在するものである、その謎めいたものは、現象化してわかる、ということだけはわかる。それは正常、異常、病気を問わず誰にもあるものである。
この本に接したあとでは、ちまたの文学作品がなんとも小さな世界にみえてきてしょうがない。いやそうみたら困る。そのなかに心的現象を語るかっこうの素材、テキストが含まれている。物語を読解する視点によって豊かになる。とみるべきだ。

『心的現象論』はとにかく事件であった。

「吉本隆明の出現と持続は、恐らくは、私達のいまだ知らなかったまったく新しい畏怖すべき何かのさらなる出現をも予覚させる。」(森山公夫『心的現象論』解説」
「吉本隆明の仕事があくまでも文芸評論家の内的必然性から出発したことを思えば、ほとんど驚異的な事件であった。」(三浦雅士『心的現象論』改版解説)

まさにそうです。納得です。  (続)

 


詩は手套のような女―川満信一の詩と思想  対談:松原敏夫×東中十三郎 (脈94号 特集:沖縄の詩人・思想家 川満信一)

2019-04-12 | 詩人論、作家論、作品論

詩は手套のような女―川満信一の詩と思想

                          (ショート・ユンタク)松原敏夫 × 東中十三郎

 

 

つもりつもった 古くて重たい物語を

麻袋に詰め 古里をでたが

はて どこへ旅するつもりだったか

わたしは忘れてしまった

(「わたしはどこへ……」(川満信一詩集))

 

【松原】 『川満信一詩集』を久しぶりに開くと、この詩篇に印をつけてあったんだな。「古い重たい物語」と「古里をでる」「旅する」という動詞が「行き先不明になる」にひかれた。

【東中】 雰囲気がわかる感じだな。『川満信一詩集』は、水納あきらの所から出したんだよね。

【松原】 1977年12月で、この年の10月にぼくも初めての詩集『那覇午前零時』を出したんだよ。

【東中】 『川満信一詩集』も川満さんの処女詩集だったんだな。

【松原】 初めての詩集というのは意外だった。年齢からすると45歳になっているからね。ぼくの詩集は、画家のトヨヒラヨシオさんに装丁を頼んで、シンプルな形にだしたんだ。比べて、『川満信一詩集』は表紙に宮古島のウヤガン祭りの老いた神女の写ったモノクロ写真を使っていたね。リアルでインパクトがあった。あれをみて、ああ、川満さんらしいな、と思ったね。

【東中】 あのころは復帰後の沖縄が色んな分野で売りだされたような時代だった。特に民俗学的にみたり語ったりすることがブームだった。

【松原】 祭式や古謡をテーマにいろいろな書物がでていたよね。「おもろさうし」とか「南島歌謡集」とか「イザイホウ」とか、ね。詩を書く人たちも関心をもっていた。

【東中】 おめえのものは、飯島耕一の『ゴヤのファーストネームは』のマネをしたと、おめえから聞いたことがあるぜ。

【松原】 サンプルにトヨヒラさんにみせたら、詩集というのは、言葉が全てだから、装丁は目立たない方がいい、という意見だった。結果的に、サン印刷の宮城明さんに頼んで箱入りの飯島耕一のものに似てしまった。

【東中】 『川満信一詩集』は、詩集にしては、よく売れて、書店のベストセラーに顔を出したと話題になったんだよね。

【松原】 川満信一さんは有名な知識人であったし、交遊範囲が広い人だったから、ま、売れて当然という感じだったな。

【東中】 おめえのものは売れたの?

【松原】 無名が売れるわけないじゃないか。300部だして、今でもまだ五部くらいは家に在庫しているよ。

【東中】 ま、売れればいいってもんじゃないしな。………あ、これって、慰めでいっているからな。さっきおめえがあげた詩篇だけど、旅の喪失が主題になっているということ?

【松原】 川満信一さんは、ぼくと同郷の人というのを知っていたが、ぼくは「島を出る」を「旅」とみることにまだ感覚がなかった。島を脱出したという異郷存在感だけが強くて、「行き先」は考えなかった。いま考えれば、出た意味を実際は問わないといけなかった。

【東中】 つまりそれはどういうこと?

【松原】島の若者は島を離れて都会をめざしていくものが多かった。島では古い慣習やしきたりがあって個人の生き方を苦しくさせる、意識を持っては狭い観念の島社会には住めない。進学して島を離れて学問をすれば、知識が増えて思考の位置が島から離反する。しかし異郷や都会に行ってもそういう「島の物語を宿している自分」は消せない。そこで離れた先はなにか、ということに苦悩する。これは近代を求めた誰にも宿命的なものといえる。

【東中】 島を離れるということの意味と個人の意識の選択の先にあるものが問われるということか。

【松原】 なにか風土の桎梏から解放されたかのような気分にはなった。島を出るということはそういうことではなかったかな。島を離れて島を見つめ直して、生き直しというのか。もちろん進学とは別に島で暮らせなくて生活のため仕事をさがして沖縄本島に移住したひとも多かった。

【東中】 生き直しか、なるほど。那覇とかコザなんかには宮古のひと多いね。

【松原】 つまり流民なんだよ。島を離れて、色んな仕事について、家はないからほとんど借家住まい。当時のスラム街の下層民は離島のひとが多かった。下層労働者や水商売とかね。

【東中】 あの戦争の地上戦で破壊されたあとの沖縄の復興は、まずは生活や経済の立て直しにみんなが大変だった。アメリカの軍事支配の下での経済でどうにか食っていかなくちゃならなかったし、いびつな体制下のつくる特殊な社会の雰囲気があったし、しかし政治でどうこういっても、やはり経済生活が問題だからね。貧しくてもどんなふうにも生きていかなくちゃならない。

【松原】 全てにおいて飢えがあったと思う。経済も生活も文化も遊びも、満たされることを夢見てがむしゃらになっていたと思うんだな。焼け跡派的な。川満信一さんも焼け跡派といえるよね。

【東中】 川満さんは終戦を思春期で迎えているね。で、島を離れて首里にあった琉大に進学して、まず文学活動に目覚めて、「琉大文学」を出して次に政治に目覚めるんだな。

【松原】 あのころの文学青年はだいたいそうだったようだね。かならず社会状況や政治状況に関心をもって目覚めるんだね。ぼくは逆だったけど。

【東中】 琉大文学の歴史を語る資料がたくさんでているから、それをみれば明らかになっていくね。琉大文学のメンバーが当時の学生運動をリードしていくような感じがあるけど、ほんとにそうだったのかな。はじめからの政治青年もいたんじゃないの?

【松原】 いたでしょう、それは。沖縄人民党の瀬長亀次郎が民衆運動をリードしていたし。民衆運動は学生運動のなかに入り込んで学生を刺激していたし。

【東中】 文学よりは政治運動に魅力を感じたんだろうね。世の中がこんなにおかしいのに、文学なんかやってられるか、というね。文学意識よりも現実感が強かったんだろうな。

【松原】 文学では世界は変わらないとね。政治や現実に関心のない文学はダメだとしたわけでしょう。当時流行していた新日本文学運動やプロレタリア文学、社会主義リアリズム文学の方向へカジをきったわけでしょう。文学作品を創造するエネルギーのほうではなく、政治運動的な方向へ傾きすぎたんだね。

【東中】 土地闘争の島ぐるみ運動はいちばん影響が大きかったようだね。密室のようなところで書かれる個人的な文

学の意味と大衆が燃えている島ぐるみ運動をみると、そういう社会性から文学をみていく方向性がそこで決まったんじゃないか。

【松原】 大衆の動きと連動した文学を求めたわけだよ。そのほうが文学する理由がすとんときたわけだし。しかし、どうだろうね。そこを大城立裕は批判しているわけよ。運動に入れ込みすぎて文学作品を創造することへ力を注がなかったことへの、ね。文学が貧困になったという批判ね。次の世代である清田政信からの詩的現実を拠点にした川満世代の批判とかね。ま、そこは、話が変になっていくから、やめるけど、川満信一さんをどうとらえるかと考えるとき、ぼくはやはり文学的な側面からみていきたい、と思っている。

【東中】 川満信一さんは知識が多彩で豊富な人だね。だから文学と思想の連関をとらえないと語れないひとだな。

【松原】 川満信一さんは詩人として活動していたわりには文学作品をあまり書いてこなかったんじゃないかなと思う。文学に目覚め、活動はじめた20代から今日までをひととおりみてみると年齢のわりに他の詩人に比べて、文学表現が少ない。文学主義者のぼくからすると川満さんは文学者(詩人)なのか思想家なのか判然としない。沖縄の戦後文学、戦後思想に必然的に顔だす存在であり、その発言は時代を撃つ言葉がたしかに多い。ぼくも、彼の言語を読むとき、ある角度からは敬意を持つし、人知れずに注目をしてきたつもりだが、しかし、彼の思考の持続は複層的で、その複層を詩の言葉で表現するのに困難な回路にあったんじゃないかな。

【東中】 文学表現するには重たい思想意識が強すぎたということか。

【松原】 いま目の前に川満さんの本がある。『川満信一詩集』と『世紀末のラブレター』だ。その傍に思想論集である『沖縄・根からの問い』とか『沖縄・自立と共生の思想』とか「沖縄発――復帰運動から40年」もおいてあるが。この三冊には、なぜか、文学に触れたところがほとんどないわけ。繰り返しになるけど、ぼくにとって川満信一は詩人と言うより思想家というイメージが強かった。川満さんは戦後の沖縄思想を語る大御所であったし、その存在を横目でみながら、ぼくは真剣には読まないできた。文学に熱心に発言する人ではなかったし、思想を優先して語るような印象があった。川満さんは弁舌がうまいし、滑舌なひとだなという印象があった。知識も豊富にあるし、ジャーナリスト(新聞記者)でもあるし、仕事柄、知識を持つのは必然だったろう。とは思うけど、反面、文学を書くとなると、その知識は障害になってしまっていたんじゃないか。

【東中】 物足りないのは、詩や文学への言及があまりないということか。詩や文学が好きであれば、その文学意識に沿って、文学的発言、文学的言説が多く出てきそうであるが、それがあまりないな、たしかに。

【松原】 思想というか評論というか、「宮古論」、「民衆論」、「共同体論」は、当時、川満さんが復帰の時期をはさんで、さかんに、たぶん、求められたからだと思うけど、自分の思想の核となるような評論を生み出した時期の文章だよ。そういう、ま、散文というか批評というか、言語表現を、思想言語に集中過ぎて、詩作がおろそかになったんじゃないか。しかし、川満さんの仕事は、沖縄が抱える状況から表層ではなく沖縄が宿命的に持つものの根源を可能性として構築したいとの思念がある。そこは川満思想として学ぶところはある。

【東中】 詩に思想を入れ込むと、背負いすぎて重たくなるからな。思想と詩的表現がバランスとるのがむつかしくなる。

【松原】 そういうときに、川満さんは、どういうふうに自分の内部のなかで詩意識と思想意識を結合させて、詩的形式に言語表出するのか。もしかしたら、このころの川満さんは、あまり詩は、いや文学は、好きではなかったのではないか、と誤解させるところがある。その結果が、これまで出してきた詩集が二冊だけとなるのか。もちろん雑誌などに発表して詩集に入らない詩作品も多いのも現実だけど。

【東中】 出した詩集はその二冊だったかな。たしかに物足りないな。作品が散逸しているのはもったいない。川満詩の全体をとらえるのが困難になる。全詩集が出ないと、な。

【松原】 1994年にエポック社から出た『世紀末のラブレター』は、うらやましいほど、作りがいい。装丁がいい。さすが詩人の泉見享さんが手がけただけはある。この詩集を読んで、川満信一さんは垢抜けしたといったら語弊があるが、詩人の位置を取り戻したと思った。つまり、言葉に思想や複層の意味を持たせるのではなく、現実を通過したあとの詩的内面の声というのがある。日常生活や仏教的な世界を歌った作品がある。

『川満信一詩集』は、〈飢餓意識〉が隠されたテーマとして低通しているよね。島の飢餓を背景に、詩と思想に社会性をたたき込んだような重たいテーマで書かれている。犬を食った、鷹を飛ばして鷹を食ったとか、羽をむしられた鳥とか、なにか飢餓というか欠如感が強いイメージ、それとアメリカ支配の基地や沖縄社会の貧困生活や島の古代や神話というものの根源的なイメージを構築しようとした言葉がある。

【東中】 まさに複層沖縄の詩集という感じだな。

【松原】 印をつけてあったもうひとつ詩篇をあげよう。「詩人と詩」という作品だが。

詩は手套のような女

二月の吹きさらしで

凍てついた指がちぎれそうに痛むとき

ぼくはそのふところへ深々ともぐりこむ

この詩は、さらに「詩はさびしい薬のような女」とか「詩は発情期の雌馬」とか連が続くんだが、この詩意識は、詩に抱擁される弱さや遊びが屈折して出ている。詩に対する詩想を書くのは珍しいけど、率直さがでている。川満さんが、別のところで詩人というものについて語っているところがある。ちょっと読んでみるぜ。

「世間では、詩人とは常識をはみだした頭の左巻きの奴だ、という暗黙の了解があります。犯罪でない限り、世間の常識を逸脱しても、大目に見てもらえるのです。ですから詩人は、一度味をせしめたら乞食と同様になかなか止められません。」(異場の思想とは何か―『沖縄発――復帰運動から40年』所収)

おやおや、へえ!そうですかね?とぼくなんか思うんだけど、詩を書く自身の世間に対する自己存在を装飾として語りたかったのか。ぼくなんかは詩人なんていわれるのは恥ずかしくってしょうがない。詩人のセンスがないし。ぼくは魂の自由人、それだけでいいと思っている。

【東中】 今は詩集を出せば、「詩人」と呼ばれるような軽い時代になっているが、詩人であれば詩を自覚的に思索して書いてほしいし、詩に貪欲になってほしいね。そうすれば詩論とか詩人論とかが生まれてくるはずだが最近それがないし、低調だよね、沖縄の現代詩は………ところで「川満信一」という存在は、詩人としてよりも沖縄の思想を語るうえで、必然的な思想家として考えられている人だよね。反復帰論者として六〇年代から七〇年代にかける、72年復帰を周縁する状況を川満信一は誰よりも数多語ってきた。

【松原】 そんな「反復帰論者」としての見方は一面的だとおもうね。さっきもいったように求められたからだとおもうけどね。マルクス主義や社会主義思想に傾注していった当時の若い世代にあって、いわば社会変革、革命の夢を内在化して、状況に対峙していた。50年代の土地闘争や島ぐるみ運動に参加しつつ、政治意識を追って大衆とともに戦うことの運動の意義があった。六〇年の復帰協設立とともに、祖国復帰運動が全県的な運動として、広まった。だが、それは単に祖国に帰るという、民族主義運動でしかなかった。川満さんは、この運動の、この先、未来をどうしていくのかと、その運動の本質から問うことをしたわけね。その辺は『沖縄・根からの問い』、『沖縄・自立と共生の思想』という著作に出ている。

【東中】 川満思想の発生と変遷か。最初の著作『沖縄・根からの問い』は「共生への渇望」という副タイトルがついているね。

【松原】 川満さんの共生思想には「全体への合一化の危険性」と「個人の疎外克服の先の可能性」があることをいっているんだよ。

「ところで、私の今日までの闘争体験と、状況への対峙から導き出した思想は、やはり「共生の思想」という以外に表現のしようがありません。あえて定義らしく言いますと「ミクロ的には生物心理学的な深層まで視野をおろし、マクロ的には地球または宇宙まで視野を広げ、相互扶助に行為の価値基準を設定すること、それによって歴史的に歪みを拡大してきた自己の人間性の根源的な変革を進める」ということになります。(沖縄・自立と共生の思想)」

これはマルクスやヘーゲル的思考をしていた初期のころからの思想の超克を告白しているとおもわれる。「共生の思想」はたどり着いた思想で、これを敷衍して思考を進めたわけよ。国家論や天皇制論の展開も共生の思想が基盤になっている。またこうもいっている。

「ところで、民衆の現存の基層には、共生、共死の志向があり、それは村落共同体内では、絶えず求心的に働いている。その求心的に働く共生の志向が、他人に対する必要以上の関心として現象し、その他人との関係の持ち方が、相互の個的行為の逸脱を規制する。」(共同体論)

村で生まれたものには、自然と備わる共同体意識や感性があって、それにふりまわされることがある。他人に対する必要以上の関心とは、共同体意識のそれであり、個の視線は共同体の視線になっている。

【東中】 「民衆の現存の基層」は信じたいけど、都市化されてシマが個に解体されている現状ではどうかな。復帰後の21世紀の沖縄は都市化、本土化が相当に進んで、内地からの移住者が多くなっているし、村落共同体も変容しているし、沖縄社会そのものが相当変質しているわけだよね。

【松原】 その変容、変質は不可避的にたしかにあるよ。すさまじいくらいにね。それとグローバル化の流れで、外国人も多くなっているでしょう。場所が世界化され、その影響は沖縄社会をさまざまに変えてきているよね。共同体とか民衆とか、言葉の響きがもう古く感じる。社会の変質はタイムリーな課題だね。

【東中】 「アイデンティティ」で包め込めるのかなあ、これからの沖縄は。もっと沖縄的思考を多様に柔軟にする必要があるね。

【松原】 アイデンティティというとぼくは言いたいことがいっぱいあるから、ここではやめておこう。川満信一という〈沖縄の思想家〉は沖縄における戦後思想の方向性に警鐘を鳴らした人でしょう。その思考法は、日本主義でもなく西洋主義でもなく、アジア的共生意識とつながる方向性を持っていた。「民衆論」や「共同体論」はその結実であるとみていい。

「………自己の存在を問う思想への出発から、すでに孤絶の位相をとらざるをえないヨーロッパなどキリスト教文化圏の知識人の自我は、いわば純粋の孤個へ昇華せざるを得ないが、自然の万物に、よろず神をみるシャーマン的な共同体の感性や、よろずのものに仏性偏在をみる仏教思想、そして正教の一致を説く儒教の処世訓の思想を、その出自とする沖縄および日本の知識人の自我は、その出発点からして、全能の唯一神との格闘という孤個の位相ではなく、まずその出自であるところの共同体ないし民衆に対する意識の距離測定としての位相をとるしかない。(共同体論)

【東中】 沖縄の思想の在り方と方位を語っているような感じだな。

【松原】 共同体や民衆をどう対象化するか、という思想的問いは沖縄では必然的な課題ということだね。西洋の個人主義の思想が、共同体の回路を通らなくて、個人の思想を作り上げてきたのに、共同体意識が強い沖縄ではまわりくどい道をくぐらないといけない。詩を書こうとすると、共同体と対立する宿命がある。その対立を清田政信も敏感に感じ取って、自らの言葉を対峙させながら書いていたわけよね。悲劇的にあったけど。

【東中】 川満さんは個人の絶対性よりも個人の共同性に可能性をかけたようにみえるね。

【松原】 川満さんは谷川雁の不可視のコンミューン論にほとんど触れていないけど、私見では、その共生思想は谷川雁がいう「民衆に内在する前意識の共同体イメージ」と類似しているという気がするんだよな。

【東中】 たしかに谷川雁のことはほとんど触れていないね。民衆の持つ前意識のコンミューンと共生思想はクロスしそうなものだけど。それと思想のなかに仏教的観念があるね。

【松原】 川満さんの思想の型を考えると、「共生の思想」と「仏教的思考」が両義的に混在している。共生の思想は人間が集団で生きていくときの思想、仏教的思考は、存在論としての思想になると思う。その両方の混淆が、川満思想になったと、みていいんじゃないか。それから後に「異場の思想」を提起している。

「簡単にいいますと、日常から非日常へ、それが「異場」への転移です。」(異場の思想とは何か)

「時間と場所を包括している歴史や、日常とは異なった地点に、思考や感性のスタンスを定め、そこから現実へ打って返す思想、それが「異場の思想」であり、人間のほんとうの進歩に加わろうという思想だと考えています。」(同)

そしてこの先に親鸞の非僧非俗、阿弥陀仏、悟りや涅槃という境地があって、そこへつくには四つの段階があると熱心に説明している。

「私は最初、仏教は神秘主義であり、唯心的な思想だと思い込んでいました。………略………龍樹菩薩の中観論に出会って、意外なことに仏教が、唯物論的思索に基づいていることに気付きました。阿弥陀がサンスクリットのアミターバ(無量光)と、アミターユス(無量寿)を意味することを知ってから、仏教全体の思索の輪郭が少しづつ見えてきたのです。」(同)

そうすると「共生思想」「仏教的思考」「異場の思想」という三本柱が、川満思想の根幹になっているとみなしていいだろうな。かつての政治的思想から普遍性を帯びた思想に近づこうといろいろ追求して現在にあるといえばいいか。島尾敏雄が書いていることが絶妙だね。

「彼の姿はつかまえようがない。…(略)…そうだ、川満信一は詩人だったのだ。」(島尾敏雄「川満信一詩集略注」)

【東中】 ごめん、おれは仏教についての知識がないから………。

【松原】 ぼくも仏教は少し囓ったりしたことはあるけど、奥が深いし、語れない。川満さんが、思想の形成に仏教との出会いが大きかったということはわかった。個人誌「カオスの貌」で川満信一の現在を読む必要があるということで、いちおう終わろうか………。

 

 

 

 


捨て身の作家・車谷長吉                        松原 敏夫

2019-04-12 | 詩人論、作家論、作品論

 

 車谷長吉という作家を知ったのは、吉本隆明の『現在はどこにあるか』のなかの「私小説は悪に耐えるか」という文章でだった。私は近代文学、戦後文学、外国文学など純文学(こういう言い方は嫌いだが)の関心のある人以外はあまり読まない。一時期、推理小説に凝っているときがあったが今は大衆小説はほとんど読まない。吉本隆明の文章で、こういう作家がいるということを知って、関心をもった。詩人の高橋順子と結婚した作家であることも知って野次馬的になった。といっても『盬壺の匙』から『赤目四十八瀧心中未遂』ぐらいまでを読んで、そこで私の車谷長吉は終わっていた。
 『脈』編集の比嘉加津夫さんから車谷長吉について何か書かないかと誘われなければ再読することはなかっただろう。今回、小説、エッセイ、随筆などにできるだけ目を通し、改めて読んだが、見方がかわっていくのを感じた。初期のころの車谷長吉にはなにか文士という切迫した凄みのようなものを感じたが、いろんな賞を受賞して文壇の住人=作家になったころというか、結婚して〈安定的生活の中の浮遊する自分〉を題材にしたころから、どうもこの作家の書くものは緩慢になってしまっているなという印象をもった。最後の私小説集である『飆風』まではいいが、聞き書き小説である『灘の男』あたりを読んだらルポ的な文章でつまらなかった。
 車谷長吉の書く小説は出自とその血族、親族の生と死、村の人間、都会の落ちこぼれのような自意識、社会の底辺をさまよった経験や生活を語っているあたりがよかった。小説的な語りの印象というか読後に印象に残る文章が随所にあった。経歴は車谷長吉文学の武器であるが、その後あまりにそれに依りすぎて単純再生産の商品化した匂いがあって、そこで停滞しているなと感じてしまった。このことは小説作品以外に随筆(エッセイ)的な文章が多い作家であることでもわかる。
私は、『盬壺の匙』に書いた「あとがき」にある次の文章で車谷長吉という作家の像を形成していた。 

 「詩や小説を書くことは救済の装置であると同時に、一つの悪である。ことにも私小説をひさぐことは、いわば女が春をひさぐに似たことであって、私はこの二十年余の間、ここに録した文章を書きながら、心にあるむごさを感じ続けて来た。併しにも拘わらず書きつづけて来たのは、書くことが私にはただ一つの救いであったからである。凡て生前の遺稿として書いた。書くことはまた一つの狂気である。この二十数年の間に世の中に行なわれる言説は大きな変容を遂げ、その過程において私小説は毒虫のごとく忌まれ、さげすみを受けてきた。そのような言説をなす人には、それはそれなりの思い上がった理屈があるのであるが、私はそのような言説に触れるたびに、ざまァ見やがれ、と思ってきた。」(「盬壺の匙」あとがき) 

 この文章を読んで、そうだ、そうだ、文学する者は、こういう文学精神がなければならぬと拍手したのを思い出している。ここに車谷長吉という作家の存在理由があると思ったのだ。これは詩的精神に似ているな、外せないなと思った。のちに語った次のような文章とあわせて読むと立体的にわかってくる。 

 「私は二十五歳の秋、会社員を辞した。その時点での第一志望は、非僧非俗の世捨人として生きていくことだった。修行僧になれば、托鉢なり何なりして飯が喰うて行けるのであるが、私の場合はあくまで非僧非俗が願いだったから、下宿に閉じ籠もって小説原稿を書く以外に途がなく、併しそれも数年で下宿代が払えない身となり、つまり生活が破綻して、以後は関西へ帰って、旅館の下足番、料理場の下働きとして九年を過ごした。丸坊主、下駄履き、風呂敷荷物一つ、無一物で、タコ部屋からタコ部屋を転々とする、漂流の九年間だった。」(「もう人間ではいたくないな」―『阿呆者』所収) 

 文学を書くことは救済の装置である、自分は、生き方として「非僧非俗」の生き方を願った、喰うために作家になる以外道はなかった、しかし「書いたもの」は「心にむごさ」を感じるようなものであった、それは救いであったが、狂気でもあった、そんなふうにせっぱづまった気持ちで書いているのに、世の主流の小説観念は私小説を嫌っていた、だが俺はおめえらのいうとおりにはしないぞ、ざまあみやがれ、だ。というのが車谷長吉の立ち位置であった。書くことと生きることとが一致している見事な主張だ。ブラボー、いいぞ、長吉!
 車谷長吉が文学活動を開始したころの状況について私流の身勝手知識で小説の雰囲気を思い出してみる。昭和51(1976)年に村上龍の「限りなく透明に近いブルー」が芥川賞を受賞し、爆発的に売れ、1977年、三田誠広「僕って何」が芥川賞、昭和56(1981)年には田中康夫の「なんとなく、クリスタル」が文芸賞からこれまた爆発的ヒットし、昭和62年(1987)年に村上春樹の「ノルウエイの森」が発表されて、これも社会現象までなった。こういう代表的な作品の背景をみればわかるとおり、都会の青春小説が隆盛している。この時期は高度経済成長、1億総中流、消費社会、といった社会の安定化に市民の個人化が進み、好みの生活で生きるような時代であった。その流れのなかで日本の文学は昭和文学の終焉時期を迎え平成文学時代に突入したとみることができる。
 そんな時代にさきにあげた創作(小説)精神というか、文学精神をもっていた作家がいたということに私は、日本の現代文学は捨てたもんじゃないなという感想をもっていた。この「あとがき」に書いている大意は、私の文学についての考え方にも通じるものがあった。「文学を書くことは救済である」「書くことは狂気である」という言い方は、平成時代の今日ではおおげさに聞こえるかもしれないし、あるいは、アマチュア的な思い込みのように聞こえるかもしれないが、文学するものの魂を充分に触発して逆に「ほっと」させたのだ。
 村上龍や村上春樹、田中康夫らの書いたものはさっきもいったように都市型文学である。都市のなかの中流の市民生活で浮遊する都市型人間の物語を都会風俗豊かに空間化することに終始している。そこに時代的感性を取り込むのがうまい。そのために時流の若者の読者層がいる。そして彼らは最初からプロの作家然としていた。
 これに比べて、車谷長吉の読者層は誰であろう。おそらく、若者ではないだろう。では誰か。中年の会社員か。会社員なら司馬遼太郎やらではないか。こういう問いがでるほど、車谷長吉は時代にのった作家ではなかった。車谷長吉の小説世界は端的にいって生活者の素材や風景が異様に重たく暗くでている。こういう作品は時代の感覚や風俗好みの生活感のない都市型若者には受けない。つまり、マイナー作家に甘んじるしかない。
 車谷長吉の経歴をみてみる。高利貸しの祖母、その娘が母となって、父は吃りで発狂、叔父は自殺、村で初めて東京の大学に進学したいわば秀才、慶応大学卒、東京の中小広告会社就職、右翼が経営する新左翼系雑誌の編輯記者、女性へのストーカー、坊主頭に頭陀袋、旅館の下足番、タコ部屋を渡り住み、料理屋の下働き、3名の人妻との姦通、三島由紀夫賞、直木賞、元ミス駒場の美人詩人と結婚、都下に一軒家を持つ…………こういう個人史を羅列するとある種の不幸、底辺、やばい生活、上向きのイメージができあがる。
 作家歴を重ねると、昭和47(1972)年に「なんまんだあ絵」(新潮新人賞候補)で文壇的出発し、昭和56(1981)年に「萬蔵の場合」(芥川賞候補)、昭和60(1985)年に「吃りの父が歌った軍歌」、平成4(1992)年に『盬壺の匙』(三島由紀夫賞)、を発表、平成7年(1995)の「漂流物」は芥川賞候補になるがまた落選する、しかし平林たい子文学賞を受賞。平成10(1999)年に『赤目四十八瀧心中未遂』でついに直木賞をとって名実ともに作家となる。
 ところで車谷長吉はいわゆる私小説作家ではない。実生活だけを記述する私小説家ではない。彼はこういっている。 

 「そもそも、私小説を書くことは罪深い振る舞いである。悪である。業である。私はそれを覚悟した上でなしているのだが、併し私のように反時代的な毒虫のごとき私小説を書いていると、まず一家眷属、すなわち血族の者たちに忌み嫌われている。新潮平成六年八月号に「抜髪」を発表し、それが週刊新潮で大きく喧伝された時は、田舎のお袋は同じ村内の親戚の者(母の弟)に呶鳴り込まれ、押し入れの中に三日間隠れていた。以後、お袋は自分の里へ出入り禁止の処分である。私は腸が引き裂かれるような思いがするのである。併しそれでも書かないではいられないのが小説である。難儀なことである。」(文士の業)

 「二十五歳で文壇に出て以来、私の書くものの四割ぐらいは私小説だった。いまは六十一歳である。当時は、私小説を撲滅しなければ、日本の小説はよくならない、という議論が中心で、極端に言えばもう私小説は瀕死の状態だと言われていた。それが文壇の時流だった。何でも人の言うことには疑問を持ち、反時代的に生きたい私は、私小説で名をあげようと決心していた。そして最初に書いたのが「なんまんだあ絵」だった。これは田舎の祖母の死について書いた小説だった。小説であるから、内容は虚実皮膜の間にあるものだった。これがその後の私の私小説の方法となった。」(はじめての聞き書き小説―『阿呆者』収録) 

 「虚実皮膜の間」という言葉がでてきたが、これは車谷長吉の作品を理解するのに大事なキーワードである。この言葉は、「読むことと書くこと」という講演でも車谷自身が小説の書き方としてネタばらしている。
 小説は事実だけをいうものではない、「私たちは郊外のレストランへ行って、牛肉のステーキを喰った。」という文章はふつうの日常、作文であり、「私たちは郊外のレストランへ行って、虎の肉を喰った。」と書くことによって文学になる、日常のありふれたものを「非日常」「反世間の常識」とすることが文学である、と。こういう言い方は実に詩の書き方にも通用する。現実を比喩やイメージで転換する方法のことなのである。 

 「近松門左衛門は∧文学における真は虚実皮膜の間にある∨と言うた。この「虚実」とは、事実そのままかそうでないか、ということだけではない。そもそも文学においては、「虚」ということが二重構造になっていることが、まぎらわしいのですが、一つは事実であるかないか、事実でないというのは「嘘」であるから、それ自体一つの「虚」であるが、さらにその奥に、「虎の肉を喰った。」というような非日常性、非現実性という「虚」が必要なのです。」(読むことと書くこと、講演、平成12年3月、三田文学平成13年冬季号、『銭金について』収録) 

 こういう言い方は、平成13年11月、藤村記念館での講演「島崎藤村の憂鬱」にもある。
 車谷長吉はここで自分にとって私小説というのは虚実の物語であるということを白状している。とするなら、のちに書いた『贋世捨人』なども自伝的小説だが、虚実ごとだと思ったら、そう読めばいい、ということになる。自分の体験や環境をモデルにして心理と関係とを嘘をまじえて自在に書いていく。私は車谷長吉がいう「虚実皮膜」の方法を知って私(わたくし)小説の読み方を教えてもらった。読者は作家が書くものを実際にあったことを書いた小説だという思い込みで、読んではいけない、ということである。
 私小説を読むとき、読者は作家の暮らしの実際を知らないから、書くものをまるで事実であるかのように読んでいる。車谷長吉の方法は実際のモデルがあって実際の出来事があって、それを実とすれば、ちがうこと(ひと)=虚を入れ込んで物語をふくらませていると告白しているのである。
 私もだまされるところだった。吉本隆明が書いている「私小説は悪に耐えるか」を読んだあと、作品をすっかり信じ切ってしまったのが私自身のお粗末だった。
 吉本隆明が書いたそれは平成6年12月であるから、そのころと以後の作品をくらべてみると今はもう車谷長吉が「私小説作家ではない」ということは明白な事実である。平成10年に出した『赤目四十八瀧心中未遂』は架空の人物が多く入っていることを車谷長吉自身が後に語っている。(この作品を書くにあたって3名の人妻との姦通体験が「藝のこやし」になったと「現代に愛は成立するか」で書いている。)

 若い頃、文学仲間のある友人が、ある東京の有名な女流詩人が大酒のみで男どもと勝負するように煙草すぱすぱ、飲み屋で大酒飲んでよく悪態をついて男に暴力をふるったり、通りの穴におちて大けがをした、あの女流詩人はそういう女らしいよ、と話を聞かされていたが、実際は、そういう話も尾ひれがついて大げさに伝説的に語られるところがあって流布したものだった。ひとの話はうわさが半分は入っておもしろおかしくいわれることが通説なのに、まじめな私はすっかり信じ切ってしまうところがあって、「らしいよ」なのに「そうだ」になってしまう。虚像を信じ込んでしまうところがダメなところで、大人になっていなかった。などと反省する。
 私小説が「罪ごと」や「悪ごと」を描くものであるから忌み嫌われるというのは、あきらかにしてはいけない実生活を書くからである。つまり「恥」として世間に隠しておきたい世界をあばくからである。
 ここで思い出すのは、島尾敏雄の「病妻もの」である。『死の棘』は夫婦の家庭生活の実際のすさまじい情景を書いていて、「むごさ」がありながら、「祈り」の姿がある。しかし車谷長吉にはその「祈り」がない。車谷の人間への見方、感受性が、人間の救いがたいものをみているからである。車谷長吉の心の眼は俗生活から離れたところにある。しかし島尾敏雄は俗生活のなかで病気の妻と真摯に対峙していた。そこは車谷長吉と島尾敏雄のちがいである。
 また、似ているような作家に、漫画家、つげ義春がいる。つげは「自閉的」「人間の弱さ」「貧しさ」「夢」というものを題材にしている。私はつげ義春が好きで夢中になって読んでいた時期がある。現実の日常風景に夢的な発想を持ち込んで描いた漫画は実に面白かったし、つげの方法は沖縄の風土にもってきたらすごく面白いだろうな、いつか試してみたいな思ったりしている。つげと比べると車谷長吉の世界はどうだろう。現実に対して仏教的観念を対置しすぎではないだろうか。
 現在の時点で私小説をみると『苦役列車』で芥川賞をとった西村賢太はどうだ。車谷長吉にも不幸はあるが、車谷は日本の地方(兵庫県飾磨)の旧地主階級層で戦後解体された中流農家であったようである。西村賢太は父の犯罪ごとで社会から疎外された貧困家庭で生まれて、それを全身で受けて社会にむかって恥じることなく堂々として生きている。救いのないような生活をしているのは、西村賢太のほうが上だろう。超越しているといってもいい。繊細さは車谷長吉、リアルの骨太さは西村賢太といおうか。
 それともうひとり忘れてはならない作家がいる。中上健次である。中上は1975年(昭和50年)に、『岬』で芥川賞を受賞している。車谷長吉よりひとつ下。1946年生まれ。紀州の路地の作家、「土俗的な作風」といわれる。私は中上健次の書くものには、個人的に強い関心を持っている。この作家は文学空間が大きく底の深いものをもっているなと思わせるのだ。それが何であるかはいずれ取り組みたいと思っている。
 ところで、車谷長吉は高校生のころ夏目漱石を読んで文士になりたいと思い、社会に出てからは「世捨人」のように生きたいと思って作家になったといっている。それは西行の影響だと何度もいっている。ここは車谷文学読解の重要なところである。なぜなら車谷長吉は、いわば「世捨人になりたい」にはじまって「世捨人になれなかった」で終わっている作家だからだ。つまり西行的な生き方への憧憬と挫折があるのである。 

 「私が小説原稿を書きはじめたのは、二十五歳の時だった。三島由紀夫の自刃に触発されたことも深かったが、創元文庫の尾山篤二朗校注「西行法師全歌集」を読んで「世捨て」という生き方に強く心を奪われたのである。つまり発心したのだった。」(金と文学)

 「私は二十五歳の時、創元文庫「西行法師全歌集」を読んで、自分も世捨人になりたいと思うた。ただその時は、西行が紀州に広大な荘園を有した金持ちであることは知らなかったので、誰でも世捨人になれるもんだと思うていた。ところが銭がなければ、世捨人にはなれないのである。西行はすべてを捨てたと言われているけれども、広大な荘園だけは捨てなかった。当時においても、銭が命の世の中であったから。」(西行―『阿呆者』所収)

 「西行の生きた時代においては、荘園に縛りつけられている百姓などは、人間の内には数えられていなかった。……略…………世捨てというのは、単に京都の貴族社会を捨てるというだけのことであって、荘園の百姓をも含めた世の中全体を捨てるという意味ではなかった。当時は田舎の無学文盲な百姓などは人間の内には数えられていなかったので、都では貴族を捨てて世捨人になることは大変なことだと思われていたのである。」(同)

 「西行はうちのお袋が言うたように、荘園の百姓に働かせておいて、その上がりで自分は好き勝手に行動し、無一文が一番ええ、というような歌を詠んだ男である。下司などは、人間の内には算えていなかったのだろう。また長明も兼行も貧乏が好きで、そういう窮乏生活を経験した人だが、併しこの人たちも下級貴族であって、してみれば、下級とはいえ、貴族である以上、なにがしかの社領からの上がりはあったのだ。だから飢え死ぬところまではいかなかった。芭蕉は全国各地の弟子に連句。発句の教授をすることで、謝礼を受け取っていた。
 こう見てくると、これらの人たちも、その言葉は兎も角、生活面ではみな贋世捨人だったのではないか。一休が女にうつつを抜かしたように。」  (「贋世捨人」) 

 車谷長吉には「母」(祖母を含めて)の影響が強い。(同じ重さで弟の存在がある。「吃りの父が歌った軍歌」は弟について書いたところが重要なポイントである。)車谷長吉は深層心理的には「母なるもの」への畏怖と従属心があるように思う。西行に対して、現実の側から批判した母がいる。そう諭した母は息子の「西行熱」をさまそうとして立派である。リアリスト、生活者の視点で文学を見定めた評価は世の文学史家や評論家を一蹴して立派である。
 車谷長吉が西行を読んでこんな生き方もあるのかと感銘して、自分も「世捨人」になりたいと願う。しかし、長吉よ、それは、観念的で甘いんじゃないの、というのが生活者の母のやさしい警告である。母のその論理は実生活を知悉したものの考えであり、生活から発した論理は誰も否定できないし反抗もできない。そのせいか、のちに車谷自身も覚めて西行の世捨てを辛辣にいっている。車谷長吉にとって作家業は、実生活社会で世捨人に近い生活ができる最適な職業でもあった。だから「贋世捨人」=作家になることで自己肯定して生きる道を選んだのである。私は、これほど作家になることを説明した作家をほかに知らない。
 西行については小林秀雄の「西行」や吉本隆明の「西行論」があるが、これには西行が世捨人であったことは重視していない。歌を書いたことが「西行」の西行たるゆえんであるという感じである。西行は、世捨人ではなく「出家遁世」なのである。小林秀雄の「西行」のなかの一節。

 「西行は何故出家したか、幸いその原因については、大いに研究の余地あるらしく、西行研究家達は多忙なのであるが、僕には興味のない事だ。およそ詩人を解するには、その努めて現そうとしたところを極めるがよろしく、努めて忘れようとし隠そうとしたところを詮索したとて、何が得られるものではない。」

 ああ、小林秀雄という人はこういう人なんだな。人の境涯なんかには興味がない。人がどんな生活、境遇にあろうとも俺には関心がねえ、人間の価値はその人が作り出したものにある、かれが何を考えているかにある、ということなのだろう。「努めて忘れようとし隠そうとしたところ」を暴くのは意味がないという感じである。小林秀雄が断定的にみているのは、「西行は生得の歌人であった」というこの一点である。こういういいかたは、中原中也に対しての言い方でもあった。詩人や歌人は詩歌で語るからこそ存在する。そして「生得の」詩人こそが語るに値する。これが小林の方法である。小林の見方は誤っていないが、どうも天性重視でつまらない。あと一声が足りないのである。才能があろうがなかろうが、人は、自分の在り方として文学を選ぶ場合もあるのだ。そこは認めなければならない。小林秀雄の近代批評とは天才の素質をもった文学者や芸術家の成果と苦悩を煮詰めたことではないか。「努めて忘れようとし隠そうとしたところ」は歌で読め。作品で読め。言葉をまわしこめ。それはわかるが。………車谷長吉は小林秀雄の「西行」も読んでいたはずだが、その文学芸術主義的な西行観になんとも思わなかったのか。
 小林秀雄は車谷長吉に興味を持っていたらしい。おそらく車谷長吉の小説をほめた白州正子(小林秀雄の遠縁にあたる)の影響であろう。こういう逸話がある。自伝的な小説『贋世捨人』のなかで、車谷長吉が芥川賞候補にあがったが落選した選考会の日に小林秀雄から電話が掛かってきて、「僕はね、新橋の吉野屋で呑みながら、文藝春秋からきみの朗報が入るのを待っていたんだよ。馬鹿ッ。」と言ったという。小林秀雄がほんとにそういったか。それは確認できない。だがそういう人だろうな、という感じはなんとなくある。小林秀雄という批評家は自分がそう思っている確信がはずれたとき、すごく機嫌が悪くなる人じゃないか。もちろん私は実際あっていないから知らない。しかし、彼の講演録や批評文を聞いたり読んだりすると自信たっぷりに自分を保つその姿勢がある人という印象があるから、そう感じるのである。
 西行が世を捨てたのは真実か。たしかに西行にとっての「世」は武家や貴族階級の社会であって、それを捨てただけの話ではないか。かれがどんな歌を歌ったとしても、その背後を考えると庶民(農民)とはやはりちがうなと冷たく覚めてしまう。ほんとうに世を捨てたのではない。出家しただけである。つまり、地位も名誉もいりませんと言っただけのはなしである。かれのそのあとの歌は、その弁明の歌であるのではないか。西行にとって「世」というのは「世間」のことではないことはあきらかである。車谷長吉もそこに気づいたのである。
 小林秀雄は西行の歌は叙情詩でも叙事詩でもなく思想詩である、とその「西行」のなかでいっているが、世に出ることのない民衆にはまったく無縁の話である。それを後世のエリート文学者や学者が、自分たちだけの〈世〉を作り、無常観、仏語的に美しく精神的に解釈して、すごい歌人だとはやしたてる。小林秀雄の「西行」は最たるものだ。私は小林秀雄の知性をたいそうなものと思うが、解釈の立ち位置を疑問に思う。その理由は前に書いた。かれの『近代絵画』や「ゴッホの手紙」はすごみのある文章であるし私も影響を受けた。かれの精神というものに対する畏怖のこころは学ぶものがある。小林秀雄は絵に対しても視る人よりも読む人だった。焼き物でも視るよりも読む人だった。それが小林秀雄的である。独特な見方はだから視ることを超えて読むところにあったのである、そこが小林秀雄のすごいところだと私は思っている。
 車谷長吉は西行の影響を受けて世捨人になることを志したが、なりきれず、贋世捨人=作家となった。そのあと、かれは無常観と仏道を強烈に意識した。そしてつぎに関心を深めたのは、「つれづれ草」の吉田兼好である。兼行は世捨人というより、隠遁者であったから、そのスタイルが自分にあうと思ったのだろう。兼行について書いた文章が多くなっているのは、西行くずれの証拠である。
 車谷長吉は文壇社会で辛酸なめながらも出世した成功人であった。二度も芥川賞の候補にあがりながら、かなわず『赤目四十八瀧心中未遂』でついに直木賞をとって、自他とも認める作家となった。つまり「喰っていけるようになった」。俗世間の利益追求の「うす汚い金」にまみれた世界で生きなくてすんだ。
 小説づくりは巧い。母はおしゃべりな人だったというがその血を受け継ぐ車谷長吉も記憶の良さと語りのうまさがある作家でもある。深沢七郎の「楢山節考」に影響受けて書いたと思われる「なんまんだあ絵」や「漂流物」は登場人物が長々としゃべる話がでてくる。この「しゃべりもの」という手法は車谷長吉の特徴である。ドストエフスキーの小説にもそういう長々と「しゃべる」人物が出てくるが、読者を退屈させないのは相当工夫がいる。
『盬壺の匙』の冒頭の文章。 

 「今年の夏は、私は七年ぶりに狂人の父に逢いに行った。その時、母から『去年の夏、宏ちゃんの三十三回忌をした。』と聞いた。宏ちゃん、というのは私の母の次弟で、私には叔父にあたる人であるが、その人のことを、私は「宏之兄ちゃん。」と呼びながら育った。……略…………
 宏之叔父は昭和三十二年五月二十二日の午前、古い納屋の梁に粗縄を掛けて自殺した。享年二十一。私が小学六年生の時のことだった。」 

 「狂人の父」という眼をひく言葉を最初にガツンと出している。ところが、この小説、内容の展開は、狂人の父に関するものではなく、自殺した叔父の「宏之」についてのことである。内容を読んでいくと父のことがあまり出ず不自然だなと思う。おそらく、作者は、書きあげてから後で、インパクトを、つまり「非日常」を与えるために、「狂人の父」を出したと推測する。こういう異常性を出すことで、作品に高揚感を与え、読者が飛びつく計算が入っている。言葉遣いにも独特さの工夫がある。たとえば「思った」を「思うた」、セックスを「まぐわい」、妻を「嫁はん」、トイレを「便所」、下着を「下穿き」、美人を「別嬪」など………。車谷長吉流というか、伝統的な日本語の言い方にこだわる姿勢というのがある。ここには近代嫌いの車谷長吉がいる。

 『贋世捨人』は面白かった。車谷長吉の書くものには、実名で登場するひとたちが多い。高橋順子、小林秀雄もそうだが、辻邦生、川村二郎、竹内好、吉本隆明、大江健三郎、保坂和志、陳舜臣………………。
 60年代から80年代にかけて出ていた「現代の眼」という雑誌を出していた現代評論社のオーナーが、実は右翼の人であったということが書かれているのを知って、驚いてしまった。その筋の人は知っていただろうが、わたしははじめて知って驚いたのである。この雑誌はいわゆる新左翼系、反体制、反権力を標榜した言論誌で書き手も当時のそうそうたる人たちが書いていた。私もときどき購入して読んでいた。その「現代の眼」編集部に車谷長吉は勤めていたというのである。その社内の人間模様もリアルで面白かった。
 車谷長吉はやはり「捨て身の作家」であった。「人の顰蹙を買う作家になった」(「まさか」)と自らを語っているが、『贋世捨人』の最後にある次の文章。 

 「この死を機に、愚図の私はようやく、ふたたび東京へ出て行く決心を固めた。非僧非俗の贋世捨人として生きていく道は、どうあっても文士になるほかに方法がないと思うた。私の目の前には陳舜臣氏の虚ろな口が大きく開いていた。あの虚ろな口が、つまり小説家だった。私はあの口へ入っていくのだ。
 私の手許には、二萬四千円しか現金がなかった。それが私の全財産だった。八月四日、その金を握って、私は東京へ仕事を捜しに行くべく、姫路駅から普通電車に乗った。弟にもらった萬年筆一本と、粟田口近江守忠綱の匕首をふところに服んで。いよいよとなったら、匕首で首の頸動脈を切って、自決する覚悟だった。
 電車の窓に、猛夏の播州平野が遠ざかって行った。」 

 ここには、まさしく「捨て身」になって作家(文士)になる道に生きようとする作者の決意が描かれている。「この死」とはこの年、車谷長吉と同じ38歳で心筋梗塞で死んだ従兄の死のことで、「陳舜臣氏の虚ろな口」とは陳舜臣が料理屋で小説家は奥歯に力をこめて書く仕事だから奥歯が殆どなくなって虚ろな口になったと言っているのを聞いた経験を言っている。「匕首」をしのばせて作家になれなかったら、それで自決するんだという、なんともカッコつけたなと思わせる。(嫁はんに捨てられたら自殺するつもりでいると、どこかで書いてもいる。)車谷長吉は自らの全身の生き方を「捨て身」のところまで追い込んでいった作家であったのだ。ほかの平均的な作家志望者なら「ダメだったら、ほかの仕事みつけてはたらくさ」ぐらいの適当な気概が関の山だろう。
 こういう逸話を書いている。芥川賞候補になった選考会で落選して、落胆に逆憤して、九人の選考委員を呪い殺してやるつもりで金物屋で五寸釘を九本求めた。そして―

 「天祖神社は鬱蒼とした樫や公孫樹の奥に鎮まっていた。あたりは深い闇である。私は公孫樹の巨木に人形を当てると、その心臓に五寸釘を突き立て、金槌で打ち込んだ。金槌が釘の頭を打つ音が、深夜の森に木霊した。一枚終わると、また次ぎと、『死ねッ。』と心に念じながら、打ち込んでいった。打ち終わると、全身にじっとり冷たい汗をかいていた。全身に憎悪の血が逆流した。」(「変」―『金輪際』所収)

 こういう描写は「虚」であったとしても、怨念まみれた鬼気があってすごいな、と思う。こういう感情は「捨て身」でなければ出てこないだろう。ところが、作家登竜門の直木賞をもらって文壇人生活が板についた後に書いた「文士の生き方」では「文士はあんまりいいものではないな」という不満をこぼしている。実際そうかもしれない。しかし、なんと贅沢なことか。
 車谷長吉は無名時代、辛酸なめたかもしれないが、ある面で恵まれていたなあという感じを与える。大手出版社の新潮社や文藝春秋社の雑誌編集者が関西まで訪ねてきて、作品を書くようにすすめるところがある。そのあとも何度も書け書けと尻を叩かれる。書いても書いても直し直しが入っていやになるところがあるが、しかし、無名の書き手からみると、そういうふうに有名文芸雑誌の編集者が目をつけてくれるのは、うらやましいんじゃないか。沖縄には東京に住まずに地元で書く器用なプロ作家がいるが、ほかにもプロの作家を目指している無名のひとは多い。だが大手の雑誌の編集者から書くように奨められるひとは、ひとりをのぞいてほとんどいないんじゃないだろうか。中央文壇に取り上げられず孤独な境遇でしこしこと作品を書き、ローカル文壇や同人誌やらに発表しているのが現状である。

                           (「脈」86号―特集 車谷長吉の文学世界 2015.11 に書いたもの再掲載)


夢の詩人―懐メロとしての 谷川雁                     松原敏夫

2018-03-04 | 詩人論、作家論、作品論

 

沖縄での、ある夜の会合の終わる頃、「では、さらばじゃ!」と谷川雁は丸いバッグを肩にかけ、いなせな格好をして、芯の入った声で、居酒屋を先に出ていった。すると、沖縄のある女流詩人が、ほれぼれとした表情で見送っていた。その女流詩人は酒のはいった会合の途中で谷川雁に「おめえの詩は帰る場所のない男を見破らずに、ただ女の愛を弄んでいるから駄目な詩だ」と批判されたが逆にうれしそうな顔で返した。「女にやさしくない男はつまらない男です……イメージから変われ、って女がいいそうな、男が変わることを求めた言葉じゃないですか。……」。

こういう記憶の情景がふっと湧いてくる。だが細部がはっきりしない。こういう会話が実際にあったか。記憶の錯誤かもしれない。……

しかし、たしかに谷川雁は沖縄にきたことがあった。当時那覇市若狭に居酒屋「ゆうな」という店があって、そこで小さな歓迎会があった。今は池間島にひきこもる伊良波盛男氏に声かけられて参加したのだった。いつだったか定かでない。70年代の後半だったか……。歯切れのいいしゃべり方だった。論理的な明晰さで会話をさばく。声も大きかった。

「では、さらばじゃ」なんて、ウチナーの男は〈ふつう〉いわない。谷川雁の潔い、男性的、武士のような闊達な声。しゃべり方も、口ごもった、歯切れの悪いしゃべり方ではなく、自信たっぷりというか、響き渡るような、口語的でなく、文語的な、しゃべりかただった。そこがその女流詩人をほれぼれとさせたのだろう。これが谷川雁という男だ、と感じさせた。

ああ、これが日本語だ、日本人だ。日本の詩人だ。羨望と拒否的な心情がたちあがった。ちぇ、なんともかっこいいぜ。だがな、悪いけど、おれは高倉健さんが好きなんだ、あの、ぼくとつな、押し出すような声で、すまなさそうな、しゃべり方だよ。あれがいいんだ。世の中から逸脱、疎外、追放されたようなはぐれ男の哀愁、うだつがあがらないが、影のように粋に生きている、そんな男。高倉健。そんな男にほれるぜ。雁さんよ。

谷川雁は目立つように中心にいなければすまない感じの人だったのではないか。いさぎよい男の姿。そこがある時期の女性のハートをひきつけたのか。心とはいわない。ハートだ。そして饒舌なレトリックだ。…… 

昔からの印象。すごい、かっこいい詩句を書いたな! 谷川雁のイメージはそれだ。 かっこいい!だがくせ者だね。とまたくる。いろいろ物議をかもす。伝説化していった詩人。「瞬間の王は死んだ」か。……うーむ。なるほど実に潔い。

ぼくのもと職場の上司に、雁と同じくらいの年齢の陸軍士官学校卒がいたが、かれは、出征するまえに戦争が終わったので、手柄(武勲)をあげるまえに戦争が終わったことを、非常に残念がっていた。その勢いをもって戦後の社会で、ある法人組織のある部の長となったら、軍隊命令調で、同期の世代の部下職員をあつかっていた。その職員たちは戦中の名残を持っていたから、軍隊の命令を聞くような忠義の格好で服従していた。実に哀れな情景を何度もみせられた。戦後の戦中世代の出世主義者のなかには無反省のまま暴君的に振る舞って残念をみたす、こういう人が多くいたのではないか。谷川雁も砲兵の所属で実戦にでるまえに戦争が終わった。
丸山真男のように戦後民主主義、近代主義を手放しで受け入れた学者とはちがって、共産党(除名されたが)や労働組合、組織活動の渦中で自己を実践した谷川雁にとって戦中はどうだったか。

鶴見俊輔がいうように谷川雁は幕末に生まれておけばよかった。維新の志士になったはずだ。理念にまっしぐら。邁進。しかし谷川雁は民衆だったろうか。鍬の一本でも手に握って汗水たらして血豆がでるくらい、土にふったことがあったろうか。精神的知的階級を構築しながら民衆を扇動しただけの言動家、詩人だったのか。谷川雁の詩のフレーズを声に出して読んでみればわかる。まさに指導者、扇動家のロマン的口調である。

おれの作った臭い旋律のまま待っていた
南の辺塞よ
しずくを垂れている癩の都から
今夜おれは帰ってきた 

びろう樹の舌先割れた詩人どもの
木綿糸より弱い抽象を
すみれの大地ぐるみ斬ってきた
優しい蛮刀で一片ずつ

              (帰館)

 

海べにうまれた愚かな思想 なんでもない花
おれたちは流れにさからって進撃する
蛙よ 勇ましく鳴くときがきた
頭蓋の窪地に緑の野砲をひっぱりあげろ

               (おれは砲兵) 

 

おれは大地の商人になろう
きのこを売ろう あくまでにがい茶を
色のひとつ足らぬ虹を

            (商人)

 

おれは村を知り 道を知り
灰色の時を知ったった
明るくもなく 暗くもない
ふりつむ雪の宵のような光のなかで
おのれを断罪し 処刑することを知った

               (或る光栄) 

〈おれ〉という人称指示語のなんとも行動的な勇ましさ、格好つけ。しかし、うまい。暗喩が詩的現実となった傑作の詩句たち。読者の読み方でいろんなことを喚起させる。行動派詩人の言葉だ。「大地の商人」を冗談で不動産屋のことかと訊いた人がいたが、「なろう」「売ろう」「きのこ」「にがい茶」「色の足らぬ虹」……とはなにか。「おれは大地の商人になろう」は「おれたちは大地の商人になろう」にならなければならないのだ。谷川雁が大衆に向けたものへの言葉なら。

「大衆に向かっては断乎たる知識人であり、知識人に対しては鋭い大衆である」
                            (工作者の死体に萌えるもの)

という工作者の思想は、知識人は大衆を拒否せよ、大衆は知識人を拒否せよ、といっているのではないのだ。自立して相互に扇動しあえ、ということなのだ。つまり刺激的で相互に喝破しあう関係を構築せよということだ。曲解が許されれば、だ。

もう時の彼方の言葉を、思想の古典として読むしかないのも否定できない。プロレタリアート、鉱夫、農民、民衆はいまどこにいるのか。大衆はどこにいるのか。

戦後を生きた谷川雁の私史。戦時、砲兵、戦後共産党入党、オルグ活動、離党(除名)、60年安保、三池炭鉱労働運動(大正行動隊)、サークル活動、65年上京、筆を折る、66年小企業設立、80年代、十代の会、宮沢賢治に関する文章、……死という図式がある。それまで書いたものは詩集や散文で掲載されているが、燦然とした古典であるといっていいだろうか。時代が読者であるからして、時の言葉が古くなっていくのは宿命的でもある。

ぼくが60年代に谷川雁の詩に出会ったとき、もう書かない詩人だった。「瞬間の王は死んだ」という名セリフを残して、さっそうと詩の世界から去った詩人。その後をれんれんとして歩むものは、谷川雁とはちがうぞ、といった案配で、文学の世界をとらえていたといってもいい。労働運動、革命運動と連動した雁の言葉を、社会主義リアリズム文学との区別さえつかなかった。文学は政治とはちがう道だという観念が芽生え、それにひきずられ、ほんとの文学、文学らしい文学に傾倒していた。文学雑読の道を歩いていた。

闘争の詩には、農民、プロレタリアートの覚醒、革命運動の挫折を歌ってはならない矜恃があったかもしれない。 

「谷川の詩の特色は意味空間にあるのではなく、いわば詩行のつながりの中の、突出した一行のもつ破壊的なイメージの美や論理にあるように思う。だからたとえば全体の詩の印象はうすれても、その一行だけがなまなましく意識の底にこびりついているというように記憶される。」(北川透「夢みられたコンミューン―谷川雁の詩の世界」)

「谷川は自己の内なる私有意識、自我を処刑するにふさわしい場のイメージとして《村》を求めたのであり、それはまた別にいえば、《村》を夢みることによって、自我処刑の責苦に耐えるのである。」(同)

「故郷からの家出人であるプロレタリアートの感情の底にひそんでいるこの心の破片と記憶をよみがえらせることによって、新しい連帯の基礎にすることができる――彼の夢は論理の翼を与えられて一気に走り抜けたといえる。(同)

「彼の詩はある頂点までのぼりつめていたといえる……」(同)
 

思潮社の現代詩文庫『谷川雁詩集』の解説にあった北川透の、この「谷川雁論」は谷川雁の詩への理解の手引きでもあった。現在でも、もっともすぐれた論である。(しかし、北川透は谷川雁が死ぬまで一度も直接会ったことがない、という)。なるほど、その一行だけが生々しく意識のそこにこびりつく。いい言い方だ。よくわかる。私的所有を否定した虚構を連帯に結びつける。民衆の原像。被差別民と労働者、農民。前プロレタリアートの感情。東洋的な村落共同体。そこから導き出した思想の造型は谷川雁独特のものである。ゆえに谷川雁は先駆者の姿、さすがと思わせる。

政治と思想の論理を基底にした詩作。前プロレタリアートの原感情で夢見られた幻の村、コンミューン。闘って勝つための戦略を練る意図がありありだ。詩も負けることが嫌いなんだ。もちろんそれはだれもそうだが、資質的なものもある。

コンミューンをいかに仮構していくか。その基底にあるのが、アジア的共同体(村)にある沈黙の感情域=原感情である。という発見は詩的感性と思想的感性が合体して編み出したものと思う。

こう書いてきて、いま自分が書いている、やっている詩との、ひどいギャップを感じている。ぼくはどこかで、戦後においては<もはや時代が読者である>と書いた。自らが持っている意識や感覚がずれている、通じなくなっている……ということはよく経験する。この時代がいいのか悪いのか。そういう紋切り調ではいえない。いいところもあれば悪いところもある。少なくともいい時代ではある。過去の時代に比べれば……と思う。今の時代が昔に比べて悪くなっている、という人がいるのは信用できない。経済的に豊かになっている。便利になっている。自由になっている、医療も発達している、権威が弱くなっている、民主主義の三昧世のなか……だが反面、壊れたものが、こうこう、ある。……そういうところがある。……そこは平均的、一般的にいうしかない。

当時(60年代)に谷川雁詩集を読むことと現在とで、こんなにちがうのはなにか。言葉が熱くなっているのに、一方では冷めている。谷川雁のフレーズはなにかの行動、思想的雰囲気のある環境で読むとすばらしい「詩のナツメロ」のようにやってくると思うのはぼくだけだろうか。 そうだ。谷川雁は「なつめろ」になっているのだ。

「谷川雁の言葉たちは、読む者になにか恋情の告白めいたことを強いる。田舎者というより、田舎武士まいた剛毅な観念の運動が燃えるような色どりのメタフォアに仕上げられて迫ってくる。」(黒田喜夫「谷川雁詩集から」)

「彼の詩の美と力強さは根源的なエネルギーにふれている美と力強さだが、彼はそのエネルギーを、出発点ではなく帰着点であるかのようにうたっている。私の中のひとりの日本農民の裔は、谷川の燃えるようなよびかけに、われわれの真実はそんなに美しくはないと答える。」(同)

「近代主義はただ踏みこえた石にすぎないとは、彼の決然とした宣言だが、それを踏みこえることができるのは美しい比喩によってであろうか。」(同) 

黒田喜夫のなんという皮肉な評価であることか。近代労働者の末裔でもない谷川雁が、対象の出自階級、つまり農民、鉱夫、プロレタリアートを歌う。そこには美しい自然へ対するがごとく、階級に対している。そこを貧農出身の黒田喜夫は見抜いている。そんなに美しくはない、と。実際の泥土のような労働、汗水の労働をしたことのない知的インテリが農民や労働者の根底にあるものをつかんでいるとして歌うとはどういうことか。心情のエネルギーをつかんで歌うだけで終わりか。
戦後の農民はほとんどが農地改革によって地主の解体によって小作農から土地所有者へとなった。戦前の農民と戦後の農民の質的変化がある。小作農家としての被搾取民の意識は地主、あるいは支配者に対抗する階級としてあった。村落共同体(村)で関係を築き、共同のよしみで仲間意識があった。農民にとって、自然の風景は、作物が実るかどうかの気象が気になる場所である。四季が美しいとかなんとかは二の次だ。日本的抒情は生活感覚を問わないで遠くから風景を眺めた都市民の感覚や心情にすぎない。ふるさとを美しく歌うことができるのは限られている。悲しいかな、常民は支配者が右にしろといえば従うしかない。権力を持たないし、権力には無欲だからだ。

村は閉鎖的な空間だ。村に生まれのものが、自分の言葉をもって生きようとすると、共同体の桎梏に対峙していかねばならない。詩を書くことは裏切りとなる。黒田喜夫はそこを詩と反詩という切り口で村を幻視化してあばいてみせた。 

乱暴な言い方になるが歴史学は権力者(支配者階級)についての学であり、民俗学は被支配者階級の、農民、民衆についての学である。とみることはできないか。とにかく世を支配しようと動き、権力争い、支配者にのしあがろうとして、戦や殺戮をくりかえし、民衆を道連れにする階層のものたち。なぜこういう権力好きなやつらが出て世を闊歩するのか。人間というものが国家や社会を作った理由はこういう欲望をみたすためにあるのか。国家は廃止できないものなのか。一方自然と繰り返しの習俗で生きることを強いられた農民(民衆)、常民がいる。歴史に出てくる人物や時代事項で世の中の流れをくくってしまうのはなんとも苛立たしい。歴史を支えていたのは常民の力であったことを忘却してはならない。お城を実際に築いたのは租税労働化された農民や雇われ労働者(人夫)の力であって、殿様や支配階級そのものではない。思考転換しないといけない。

谷川雁は柳田国男を評価していたようだ。常民、民衆の心情の域にある村の原感情をすくいとる方法として民俗学に接したからにちがいない。民衆を知るには歴史学ではできない。 しかし、遅かったのではないか。近代の時点で武士の視点で一揆が起こると期待していたのか。

谷川雁の書評の仕方には谷川雁らしい特徴がある。たとえば、『鮎川信夫全詩集』の書評。1965年11月、朝日ジャーナル。 

「詩がほろんだことを知らぬ人が多い。いま書かれている作品のすべては、詩がほろんだことのおどろきと安心、詩が生まれないことへの失望と居直りを、詩のかたちで表現したものという袋のなかに入れてしまうことができる。もちろん、そのなかにはある快感をさそうものがないわけではない。しかし、それはついに詩ではない。」 

わかります。この詩論の主張。ポレミックな言辞。この書評文に違和感があるのは、書評でありながら、鮎川信夫の詩の言葉にひとことも触れないで、鮎川信夫の詩的活動、戦後詩への「荒地」の影響を記述しているところだ。作品にふれずに書くことに差異を禁じ得ない。おそらくこういう書き方が谷川雁の対象へのやりかたであろう。真正面からみるのではなく、ちょっとずらした角度から切り込む。対象をだしにしながら、自分の知識や思想を披露するやりかたがある。
吉本隆明編の『ナショナリズム』に対してもそうだ。自分の知識と思想の披露をする。戦略的といえば戦略的だが、まず対峙する自分の言葉(意見)を出さなければならぬということなのだろう。おべっかは使わない。否定と肯定なんてものではない。そんなものに意味があるとは思っていない。

以後の谷川雁の文章で安心して読めるものは『宮沢賢治紀行』と『ものがたり交響』、『ものがたり考』だと個人的には思う。大人の世界はつまらないので、子供の世界にシフトしていった時期の表現活動の産物だ。童話の世界に起死回生をみたような感じだ。大人を組織しようとするのはつまらなく徒労が多い。世界は子供だとするのは、ぼくにも共感させるものがある。

「教えるとは共に希望を語ること。学ぶとは誠実を胸に刻むこと」(アラゴン)

この引用は『谷川雁の仕事Ⅱ』の「編集余滴」から拾った。革命と教育は似ているようで非なるものである。理念をおしつけるものは教育ではない。〈希望〉という人間にとって最後の言辞をうしなってはならない。それは革命ごっこではできない。

革命運動が大人の世界の物語であるなら、童話は子供の世界の物語である。そこには自由な連想が羽ばたいている。うっとおしい固定した大人の社会関係がない。宮沢賢治の童話を作品ごとにとりあげて、解釈を述するやりかたに、谷川雁は生き生きしていると私には思える。

谷川雁は、夢で詩を書く詩人だったのだから、その夢がなくなったら書かないはずだとだれも思う。「谷川雁詩集」が1960年1月に発行されたのは偶然か戦略か。この時期の安保闘争に出されたのは運命だった。のちのサークル村運動。三池闘争、大正行動隊の運動。沈黙。……

ところが、また詩集をだしている。1985年に『海としての信濃』だ。この詩集のあとがきは長い。まるで自己韜晦を縫うような、あとがきらしからぬ、知的、暗喩的な文章がつらなる。谷川雁は、一時代のみごとな閃光。ぼくからいわせると「戦後詩はナツメロ」のフレーズをかくもみごとに残した詩人だ。が、この『海としての信濃』は詩的言語の抽象と緊張がものたりない。あの雁詩を知っているものは、肩すかしを食わされたような気分じゃないか。 

詩は弱音を吐かない。ぼくのように、中也や朔太郎に詩を感じるものは、雁のような、剛毅な、かっこいい詩にあこがれると同時に、ボロがぽろぽろでてくる弱い人間に毒づく詩を好んで読んだり書いたりする。 これもまた事実。

谷川雁が1995年に亡くなったとき、沖縄の詩人同士の間で、その事実を語りあおうとするひとは皆無であった。谷川雁は、あの宣言の詩人で終わっていた。清田政信が「谷川雁論」を書いているが、これとて1968年、「詩・現実」5号である。そのあとの谷川雁は語られることはなかった。もちろん、存在だけはかぶさっていた。情念の断言と饒舌の美学。暗喩の詩人。……もはや幻の遠い詩人だった。「東京へいくな ふるさとをつくれ」というフレーズは、ここ沖縄では特別なフレーズとして響いてくる。就職のため東京へいかない若者が多い。就職してもUターンしてくる。競争社会のヤマトとの心理的差異に耐えられず帰ってくる、と沖縄の教育者や行政者が分析するが、そんなものは信じない方がいい。帰ってくるものは、生きる場所としての価値が東京にはないことに気づいているからなのだ。生きる価値のないところに長くいる必要はない。 脱出も運命。帰郷も運命なのだ。

荒川洋治の「谷川雁へいくな」という文章が響く。(谷川雁の仕事Ⅱ付録・河出書房新社) 

「谷川雁の詩の美質は好戦性にある。革命幻想があったからそうなのではない。好きも嫌いもない。「男性日本語」の古層にある好戦的な性格を体現したからである。」 

これはよくわかる。その好戦性は実際の戦争に参加しそこねたものの残滓心情として戦後にあったにちがいない。その男性心情がやりきれないのは、血と殺戮のリアリズムをのけてロマンチスズムに塗られていることだ。かれの詩のなかに流れるロマンチシズムに対して鮎川信夫が「日本ロマン派の戦後版だよ」といったゆえんが理解できる。谷川雁の詩は「たたかう男の詩」として読まれたのだ。「連帯を求めて孤立を恐れず」というフレーズのように。

谷川雁の書いたものは、男性的だし、負けた場所がないし、つねに前へ前へ、根へ、根へである。なにかあると思っている。挫折があるが挫折がない。男性詩人なのである。近代詩や現代詩のひ弱な、泣きべそかいている詩は好きじゃないのだ。 

「瞬間の王は死んだ」、こんな詩人は忘れろ、といったが、かれは筆を折ったわけではなかった。 

「「谷川雁は筆を折った」と何度か書かれて、そのままにしてきた。あらたまった決意をしたわけではないが、ほぼ事実に近い。厳密に訂正しようとすれば、それを書かねばならなくなる。おおげさに言わなくとも、書くよろこびがないから書かない。なぜ、ないのか。読んでほしいと思う顔が浮かんでこないだけのことである。書くという作業は自分自身のためにする行為だから、そのゆえに現実または架空の相手がいる。現実の相手も、気体にまで昇華しておかねばならない。だが、いつのまにか受け手を活性化する気持ちを失った。」(谷川雁「『神話ごっこ』の十五年」―『意識の海のものがたりへ』、日本エディタースクール出版部、1983、初出『毎日新聞』1981・9・5、夕刊) 

谷川雁が語りかける相手というのは、松本健一によれば「『工作者』が組織した大正行動隊の依拠すべき地方、漁民、山村民、鉱夫などの革命の砦としての生活民」(「谷川雁 革命伝説」)だった、という。エコノミックアニマルのネクタイ野郎達ではなかった。サラリーマンには革命は無縁だ。

松本健一の『谷川雁革命伝説』は甘いとらえ方である。このひとも好戦的な美の論者のように思える。

「どうして雁はああ、ポーズをつくるのが好きなのかねえ、と兄の谷川健一さんがいった。」(松本健一「『谷川雁の仕事』にふれて」)という。それは「武装」と松本健一はいう。……ぼくは谷川雁という人間がようやくわかってきた。

詩にするほどの境涯や経験や生き方や意志がないものたちが詩を書くことじたいむなしい。安定と平和と無危険と中産と無境涯で詩が書かれることが信じがたい。 名のある現在の詩人達が、どこかの大学の教師になりすましているのが多い。これが戦後詩のなれの果てだ。

「段々と降りてゆく」よりほかないのだ。飛躍は主観的には生まれない。下部へ、下部へ、根へ根へ、花咲かぬ処へ、暗闇のみちるところへ、そこに万有の母がある。存在の原点がある。初発のエネルギイがある。」(原点が存在する) 

じつに美しい。革命運動経験のないものにとっても、このフレーズは思想言語の感応として憎いほど官能的だ。とりこにさせる。時代が空虚になびいているとしてもだ。とくにこの沖縄のいまの現実には反基地運動の表層の闘争がやむをえず花を咲かせているが、しかし、やがてくるだろう。下部と根へ向かうべき時が。

(「脈」82号 2014/11 に書いたものを一部訂正して再掲載)


沖縄の詩人 清田政信ノート (第6回―最終回)

2017-08-28 | 詩人論、作家論、作品論

ノートⅣ 後期詩編―詩集「瞳詩編」、「渚詩編」、「碧詩編」 

 清田政信はこの三冊の詩集を三部作とよんだ。発行年は「瞳詩編」「渚詩編」が1982年、「碧詩編」が1984年2月である。1984年9月に出された最後の著作である『造形の彼方』の巻頭に詩「沈黙」が掲載されている。ぼくらが正当に読める詩作品はこの「沈黙」(初出1984・4)が最後と思われる。 

   沈黙

  岬はすすみ
  岬はとまどい
  言葉は当てる対象を失った
  媾曳が切れたとき
  血は刃をのんで柔らいでいる
  線は夜を閉じて
  密度を
  何う並べおわった
  絵を見たんだ
  言葉と色彩は相入れぬから
  私は刺すような
  溢れを記述していったんだ
  これは独在だろうか
  ならば対象は消えているから
  堅く抜けていった あの
  精神の穂先が正確に
  虚無の噴いている面につき当たった
  宿酔!
  遠くで確執がきれいに散ったんだ
  贅をふるいおとす
  自問を
  しなやかに
  ひとつの禁をむすぶ手の放心
  砂が匂っている
  陽がねむっている
  息づまるような淋しさ
  すでにみえるイメージは去ったから
  けずられていく自我を
  空を通っていく
  火と呼べ

  「絵をみたんだ」というのは、前月3月に「知性の神話」というエッセイで山元恵一の絵画についての美術批評を書いているので、山元の絵と思われる。清田の詩は言葉が現在や現実を土台に出てくる。
 三部作が、ある女性との関係を歌った詩であることは明らかである。愛の共感域を求めて言葉なきところを言葉で構築しようとする詩想が三部作を貫いている。最後の詩集『碧詩編』でその女性と切れていることが謳われているから、この「沈黙」も時期からして、その「切れ」を謳っていると解する。
 「言葉は当てる対象を失った/媾曳が切れたとき/血は刃をのんで柔らいでいる」というのは現実を語っている。対幻想としての女性、関係としての女性、詩を生み出すニンフとしての女性……が不在となった。関係がきれたとき、ほんとうの関係がみえる。「宿酔」!といった。「散った」といった。「息づまるような淋しさ」とは正直な抒情だろう。
 「沈黙」も、関係の創り出す魂のうごきで書いている。関係の作り出す情念が現実を背景に自動速記的に語られている。「岬」は自我の代名詞としてみる。性的なイメージも含んでいる。この愛は生活社会に背いたエロスだから、その愛の線は夜を閉じる。絵に比喩された対象である愛は消え、「精神の穂先が正確に虚無の噴いている面につき当たった」と詩人は転換する。そして「宿酔!」と醒めた現実に戻ってくる。「遠くで確執がきれいに散ったんだ」。この愛の彷徨が「ひとつの禁をむすぶ手の放心」であることにも気づいてしまう。
 この詩は恋愛の終わりをうたった恋歌であるとみなすことができる。

  三部作は係累や生活や関係や状況をとりこんだ、現実の女性との関係を書いている。ふたりの世界をひとりの世界から照射する角度で書かれている。
 なぜ三部作が生まれたのか。このころ、清田は同人誌『詩・批評』を離れ、個人誌の性格をもった『詩・現実』で孤絶しながら書いていたように思う。このころになるともう詩的交友のつきあいが、あまりなかったようだ。よく「ひとり街にでる」という表現の言葉があるが、街は独りを癒す場所として与えられている。彼にまつわる生活的・家族的な醜聞を聞くのもこのころである。実生活的には妻との関係の破綻、家庭の崩壊、ある女性との交際、同棲していた時期になる。私小説作家的な生活を想像させる。
 三部作のはじめの『瞳詩編』に「きみ」という語彙が多く顕れるようになっている。これまでの詩にでてくる「きみ」は詩を発する不特定の「きみ」であった場合が多いが、この「きみ」は具体的な像をもった「きみ」である。このころ出会い、詩人の魂をめざめさせた女性である。「なぎさ」とか「みどり」とかいう名詞がときどきでてくるが、それは名付けられぬ対象を喚起するものであったかしれない。それが「きみ」になった。

   たとえばきみを問いつめて
  わたしは眼をふせたまま
  沈黙をさけ 沈黙に
  みつめられる一瞬がある かくて
  嵐をはらんだまま 遂げざりし冬は
  二人の中を通り 終息するのだ
  それもいい きみのやわらい熱に
  みちびかれて 肉の深みに
  突きさす 茎のわななき
  それもいい 衣を脱ぎ ひきしまる
  裸身にのこる 最後の
  羞恥もすてたきみに 今
  私は何を捧げればいい
     (透明な苦しみ・『瞳詩編』)

  エロスのはじまりと性愛の充溢した世界と官能的言辞の生成。『瞳詩編』、『渚詩編』には珍しく「あとがき」がない。それは必要がなかったからだろう。現在進行形で関係と詩が進んでいたからと思われる。関係の現実を背景に愛の詩編が豊穣にうまれた。「嵐」の予兆と愛の緊張をうたった詩編から読み取れるものは、言葉がいつも〈きみ〉にむかっていることだ。こういう関係の詩的世界に読者は読む位置をもつだけだ。と同時にこうもいうことができる。恋愛は個人的なものでありながら、他者に通ずる普遍的なモチーフである。素材的にポップな詩である。だが、それを、たやすくみせないのは清田が彼自身の詩的情念で深くつかまえた関係をうたうところにある。 

北川透は『瞳詩編』にはさまれた栞で書いている。

  ……散文詩「瞳へむかう言葉」のなかに、〈この島を死の島と言った人がいる。昼の労働におわれ、いま地酒を汲んでいる彼らは、きっと安らぎへ向かって肉声をしずめているのだ。血のこびりついた刺身を食べる。百年一日のように同じ恋唄をうたっている。三味線は耳膜をなぐりつけながら鳴り続ける。一つの狂い、一つの虚脱へ落ちていくのだ。〉という部分がある。もっとこういう場面を内向化し、デフォルメさせたことばが欲しい。その意味では、彼のことばは、いまでもあまりに黒田喜夫的、清水昶的な戦後詩でありすぎる。そして、黒田や清水の風土や感性を抜かざるをえないだけ抽象的で、無性格になる。
 ここを越えてほしい。わたしたちの戦後詩を踏みにじって欲しい。
        (恋唄あるいは南方について―『瞳詩編』覚書』

  この文章が書かれたのは1982年3月である。北川透が感じ取っているのは、詩の自閉の予兆、ひとりの彼方である。だから、外部の、というか、清田は「過去や故郷は追憶によってではなく、現在の情況にたちむかう思想の透徹によって発見されていくものだということ。現在をよく生きている者にだけ故郷は時制を破砕して肉迫するのだ」(清水昶論Ⅱ)といった論理の繊細さをいっていたわけだし、北川が、そこを場面化してデフォルメすることを求望していることは理解できる。が一方では、この三部作は、はたして「黒田喜夫的、清水昶的な戦後詩」であったか、ぼくには今でも疑問である。

    きみの背は不安に柔らげられて反り
  痛みに鳴っている
  もう帰ることはできない
  まだ一度もきたことのない
  胸つき峠の明晰な切り岸
  そこからみおろす世界の高さ
       (相聞・『渚詩編』)

   帰るところはないか
  帰るところはないようだ
  帰りえぬゆえに
  戸を蹴り  さけがたく
  歩きはじめる  前のめりの
  眩暈の中へ帰って行くのさ
         (諧謔・『渚詩編』)

  「帰る」という動詞は故郷や家やらがあてになるが、ここまで来たら「帰る」言葉の方向が別の意味をもつ。帰る場所のないところへ帰ることだ。失われたもの。そこが帰る場所だ。そこは詩人しか感じ取れないところだ。
 最後の詩集、『碧詩編』は、「沈黙」とおなじ線状でうたったものが多く対象(女)を喪失した寂寥がモチーフとなっている。

   夢をねむらせるように
  声を低く
  霧にしわぶきながら私は背をふんで
  一人の住まいへ帰っていくのだ
        (日常・『碧詩編』)

  三部作をどう評価するか。言葉だけでは解釈できない世界がある。詩人は、このころ40歳代。恋唄を多作し、性愛もエロスも抒情も詩に捧げている。『碧詩編』にポール・エリュアールを意識したという文章がある。とすれば女性はガラのように詩的啓示を与える存在だったか。その成果が三部作であり、『愛すなわち詩』のような、ということになろうか。
 中期にあった〈村〉、〈風土〉、〈民衆〉へ対峙するまなざしから詩をすくい上げる詩的発想が、三部作ではみえない。彼にとって、この三部作の世界は、近代や街や都市の内実を、ひとりの女性のなかに発見して、なにかをつかみとろうと苦悶した結果ではないか。したがって、村の原感情と近代に引き裂かれた、言葉が落ち着くことのない変容の関係を歌っているようにみえる。二人の関係自体に自足する甘い恋歌ではないのだ。 

 ひとつの異質と関わってまた一つの詩集になった。三部作はこれで完結する。……(略)……女は去り作品だけが残った。女は関係を完結して生活を処する方法を知らなかった。馴れることで生活から生まれる新しいイメージを支えるという深い思慮をもちあわせていなかった。(『碧詩編』あとがき)

  未来はないから
  私は身軽になって
  街を走るにまかせているんだ
            (言葉・『碧詩編』)

   1984年(?)以後、清田政信は、病境の深い闇の彼方にいったまま、書いていない。この詩人ほど詩に自らの生と存在をかけた詩人はいないのではないか。ぼくは今、清田政信という詩人の生活と栄光と悲惨を想っている。 (完)



(この文章は、沖縄で出されている『脈』81号「特集沖縄の詩人 清田政信」(2014年8月)に書いた「清田政信についてのランダム・ノート」を「改題」して連載しています。)

 なお、今年(2017年)の3月末、沖縄で「清田政信研究会」という組織が立ち上がって、活動を開始したことをお伝えしておきます。


沖縄の詩人 清田政信ノート (第5回)     

2017-08-27 | 詩人論、作家論、作品論

ノートⅢ 詩を書くということ 

 詩を書くということについて、この詩人ほど、何度も何度も自問する詩人は希有だ。自らに問いを課しながら、常に詩を問うことで獲得する言語を開いている。

  「詩を書くということはなんとややこしいことだろう。そして何と微妙な生の展開だろう。せまい間借りで幼い娘の寝息をききながら詩を書くということは、何か犯罪的な意識をともなわざるを得ない。日常と肌すりあわせながら日常にそむく途へ歩むのは少しばかりつらい。それに深夜でなければ言葉が呼び入れられない。その時間を手に入れることは極度の困難だ。それで二年前からある古びた喫茶店が私の詩を書く空間になった。まず音楽を聴くという受動を課することによってできるだけ日常の言葉から遠ざかり白紙の状態から言葉をつむきだす。」(「わが詩法」、『抒情の浮域』に所収)

  「わが詩法」は伊良波盛男が出していた『南北』5号(1976年8月)に書いている。『清田政信詩集』は1975年だから、この文章は1年後。生活風景のなかで娘の寝姿をみながら詩をかく犯罪性。これはぼくも何度も体験があるので実感としてよくわかる。喫茶店とは、那覇桜坂の音楽喫茶「1872」だったろうか。そこはぼくもよく通った。でも出会ったことはない。では他の喫茶店か。山之口貘も家にいられずに喫茶店で詩を書いた。書斎のない貧しい詩人は詩を書く場所をさがさないといけない。いい詩は書斎ではうまれないということかもしれない。

 音楽喫茶1872にはクラシック音楽を聴く個室を設置したホールがあった。コーヒーやタバコを吸いながら、音楽と読書にふけった。清田政信はどんな音楽を好きだったんだろう。残念ながら聞いたことがない。『瞳詩編』にでてくる、ある女性と出会ったとき、ジャズの流れる店だったようだ。いつだったか、ある飲み屋で、ぴんからトリオの演歌「女のみち」を「いいなあ、この歌」とつぶやいていたのをきいたことがある。美術には相当な関心を寄せ、画家論を多く書いているが、音楽には暗かった、と思う。そう、清田政信は、音よりも眼の詩人でもあったのだ。

   「渚にあった。他者との触れ合いで、傷ついても、というよりその傷によって深く渚の心域へ降りていけると思うようになった。…………渚をみつめている。拒否のうちにこわばりながらそのいやはてにうちふるえている。私はやっと南島の風土につきあたっているかもしれない。拒否と肯定にひきさかれるとき、渚ははりつめている。その半球の青に向かって私はそれの暗さを深めることで均衡をたもつ。沈黙!それはほとんど言葉を発せずに、いやそれ故に心域の暗さを高みにおしあげる。」(『抒情の浮域』あとがき)

  「詩を書く者を批評へさしむける衝迫は何だろう、といま考えている。いろんな答えが予想されるけれども、私の場合、言葉の自家中毒におちいった内閉から自らを解き放ち、情況を現実として構成しようとする意志以外のなにものでもない。」(「情念の力学」あとがき)

  「詩を書くということは、自らの遠い出自を現在に現出するという行為と深くかかわっているかもしれない。地方の都市にいてなにか自らの生が希薄になり、生の根拠がくずされるという感情にみたされるとき、いつでも遠い出自を喚起した。そして東京をちいさくしたような那覇で、生活の内質がうすれるような時、村にかつて在った日の、あるいは今でも私の感受性の原質をかたちづくる村の体験は、言葉のちからによって蘇り、現在の生に遠近を展いてくれたようだ。そこで記憶は単に過去に属するものではなく、今ある私の形成の衝迫を内部で支えるつよい要因になり得た。私が街に生まれていたら、おそらくこういう風には詩を形成しなかったろう。だが人は自らの出自を回復し現実に奥行きをうながしながら、はじめて表現の現在に存在を開いていく行為を持続しえるのだ。」(『疼きの橋』ノート)

  「沖縄で詩を書くとはどういうことか。それはことばが〈近代〉として十分に体験されていないところで、しかも物質としての〈近代〉がはげしい速度で都市を変容させ、村の〈共同体〉を破壊していく情況に挟撃されつつ自らのアドレッセンスを追尋する魂の行為となる以外にないだろう。地方に在りながら地方を対象化するということは、単なる土着への依拠によっては果たされないし、また土着からの離反として言葉を円環化するところにもあり得ない。土から身を剥離する論理を従深化すると共に、その論理化の過程で風土の肉感を体現すること―これ以外に地方に在って詩を書く方法はないのではなかろうか。それを前提にする限り、どんな言葉の実験も可能だし、どんな思想を方法化するのも可能だといえよう。」(感受性の変容―未発表1979・6、『情念の力学』所収)

  引用した後半の文章ふたつには、都市や街や近代が詩とどう関わるのか、を書いている。このあたりになると清田政信が詩的困難をいかに超克していこうとしているのかがみられる。
 沖縄で詩を書くことの困難とその相克をとおして言葉を獲得していく、詩人の苦悩とおそるべき敏感な感受性がある。強烈な詩の自覚者、といってもいい。これほどまで、自らの詩の誕生を深く追求して語った詩人はいない。「風土の肉感」という詩句も実に刺激的であるし、学ばされてしまう。

(この文章は、沖縄で出されている『脈』81号「特集沖縄の詩人 清田政信」(2014年8月)に書いた「清田政信についてのランダム・ノート」を「改題」して連載しています。)


沖縄の詩人 清田政信ノート (第4回)

2017-08-26 | 詩人論、作家論、作品論

 唐突だが、清田が、島ぐるみ闘争までなった50年代の土地闘争は農民の土地私有意識に依拠した戦いであったがゆえに敗北したと書いたことを想起してみる。(詩的断想)。
 いま沖縄本島の、その土地所有者たちは軍用地主となり経済社会化した復帰後の沖縄基地社会の土地資産利益者として存在していることは言を俟たない。琉球王国の解体後、明治期の土地整理で非所有者から所有者になった農民らがいた。この農民らが戦後社会の大資産家となったり、農業政策の失敗で流亡の民になるのが多かった。那覇や基地の街コザの底辺層に地方、離島農民の末裔であるものが多かった。これは沖縄戦後社会の不都合な構造だ。無産階級と土地を手放した農民の行く末、その姿は複相深める戦後社会を語らずにいられない。とにかく「生きるすべを失った生活」は民衆にはこわいものだ。 

  言葉を発すれば
  かげがえのない少女を失わねばならぬ 

 これは宿命のようなものだ。ここにいわれる「少女」のイメージは象徴であろう。愛憎のつまった対象だ。エロスの重なる対象だ。あるいは詩人がよくかたる村の少女かもしれない。たとえばそのひとり。故郷の島の中学生のころ出あった内地帰りの少女への記憶。

 「その言葉の異郷の匂いに魅せられ、その言葉を聞くために、わざわざ少女のクラスまで日課のようにでかけた。日曜日などは、友人と自転車を列ね、少女の村まで行き、門をなんべんも行き来するのだ。結局は一言も言葉を交わさずに終わった。だが奇妙に少女の像は自閉の意識を潤す様に思えた。」(原境への意志)
 「少年にとって愛は相手の少女が理解したかどうかとはかかわりない。自意識が自らをみつめるまなざしが、ひとつの欠如として(飢渇)として自らの感情を感受するときそれをみたすのが少女の像(他者)だとすれば、最初から挫折を予定された体験といえよう。その挫折を少年と少女が共有する言葉を生み出さない限り彼らの愛は実現することはあり得ない。」(〃)

 少女のイメージが幼年の具体の体験であったかどうかは問題ではない。ここでは恋と夢の挫折の経験を記すだけでいいだろう。だが少なくとも「愛の幻想域=愛の共感域」の存在を自覚したことだけはいえると思う。エロスとセクスの極地は、その共感域を通して実現されるものだからだ。この体験は、そのあとの詩人の深層に深く残存している。

  「詩を書く者は、大人を受容する論理に感受性をこわされながら野の法廷(暴力だけが支配する)から背馳し、少女の充実した感受性からも身をもぎはなしつつ、欠如としての意識を深める以外にはないようだ。」(〃)

  こんなふうに自己分析して語るのは、実に並ではない。詩人の感受性を縦横に深化させて、だれも語ったことのない言葉をだしてくる。詩人の言葉は本質的言辞をみせるからぐっとくる。

  あたふたと歩きでる先で
  視えない樹が燃える
  汀で血が破裂する
  臓腑が透きとおる 

 詩人は現実を感じつつ、歩行へと進める。そこで感受性は転換し、喩法の中に入り込む。暗喩を目指すしかないのだ。みえないものを視、隠された現在をあばく。

  「テーマは絶えず隠されている。まして風土なんてものとは可能な限り離れていなければならない。できるだけ少ない言葉で未成の韻律が獲得されていれば作品は始まるのだ。その韻律が遠さから夢を顕すときぼくらは風土が詩にいきづいているというのだ。また対象の不在の中に像が噴出してくるとき出自の蘇生というのもいいのだ。すべての描写よ去れ! 今対象といちゃついている描写の時代は終わったのだ。少なくとも詩において描写はなんのたしにもなりはしないのだ。私の詩はこの描写の拒絶から開始される。それにしても失語のつきくずしてゆくときの言葉はひとつの苦しみをともないながら作品が実現されたとき不思議な充実感をもたらす。」(わが詩法)

  詩と反詩の疼きが、それとなくかかれている。風土に向かって対峙して離れよ。韻律が根っこの遠さから夢を顕す。描写は詩のたしにはならない。この詩の実作の地点で語られる詩作の秘密は、彼自身の詩のエネルギーをみせている。「失語のつきくずしてゆくときの言葉」とは沈黙する魔の解放であり、不在をあらしめる快楽である。詩人が言葉をつかって書くことの根源には失語の解放がなければならない。

  「なんでシュール・レアリスムに関心をもつのか、というと、われわれの記述的な文体、常識的な文体、散文的な文体を支えている現代の価値観を徹底的に批判し、疑問を提出したいというところから、シュール・レアリスムに関心をもったといえましょう。そういう意味で詩の根拠―四季派から荒地派に至る詩の根拠―を一様疑ってみるわけです。そして自分たちの詩の根拠をどう形成するかということになると思います。」(「感受性と思想」―琉球大学教養部での講演。1978・2・24)

  琉大文学の同人たちとシュルレアリスムに関心もっていたことへの言及だが、シュルレアリスムの関心と詩作への応用は少なからず当時の文学に影響をあたえていたことは間違いない。『遠い朝・眼の歩み』における「幻覚あるいは原色の村」はシュルレアリスムの詩想が端的に反映している。この作品にはシュルが「幻覚」という醒めた地点から切り取られているので、妄想的夢的な手法の結果ではある。その延長には『光と風の対話』の「夢の記述」がある。夢とエロスがひとつになった、散文だが、リビドーのなせるわざだ。
 夢、幻覚、幻視、幻想、自動記述……眼にみえないもの、特に無意識を重要視した方法はシュルレアリスムが詩を生み出す方法として沖縄の若手詩人を魅了した。ぼくもその影響というか、学んだもののひとりだ。

   苦悩のため
  透きとおる闇の
  球体に近づき きみに近づき
  きみでもなく わたしでもない
  言葉になるとき
  わたしは愛を殺す

  なんという亀裂か。「球体」とはこの詩人がよく使う語彙である。まるきもの。やわらかいもの。炎と対比してでてくる。女性の身体の比喩をいっているかもしれない。「透きとおる闇」とは詩人がみている、明晰なのだ。「苦悩」と「愛」。連鎖でもなく「近づき」ながら「きみでもなく わたしでもない言葉」の世界では愛は不可能なのか。抽象が肉感的にやってくる。

    暗黙のうちに瀕死のことばよ翔べ
    わたしらはことばをうしないつくして愛を知る 

  そうか。これを言いたかったんだ、と解釈する。これも宣言なのだ。「瀕死のことば」は再生されねばならない。「わたしら」とは誰か。「ことばをうしないつくす」とはどのような地点か。はげしい。だがそういう説明不可能な詩境でありながら、非在の空間や場所を感じさせること。これが詩的言語の魅力だし、強さだし、神秘だし、理解を求めない、こえた世界の存在なのだ。これこそが「愛」にたどる。不可能な愛も愛のひとつだ。

   感覚の領野をむなしくみたして
  巡霊の果てにうずくまり
  沈黙のまわりを言葉で囲み
  その深処で沈黙の意味を問え

  沈黙の本質はそこだ。この言葉が指示する世界はなんだろう。「巡霊」という語彙に意味を持たせている。「感覚」「巡霊」「沈黙」と横並びする言葉の配列に、詩人はなにかを深化するのだ。巡霊は死者への旅である。死者の沈黙の意味を問え、なのだ。

  問いの韻律でうねる波の
  流砂の根を洗う速度を抽象する
  海ぞいの村の 夜の花茎の決債をくぐり
  声を忘れて嘔吐する昏迷の朝よ
  産声の構図よ
  磯臭い母音よ
  鳴り響け

  暗喩の彼方で輝く詩的世界。「夜の花茎」とは性的なイメージを想起させる。ここで詩人は謳う。「鳴り響け」と。村の自意識に芽生える声を内面の暗さからうたいあげる。「産声」や「母音」が吊されてある。

   巡霊の遊牧民の
  昏迷の領野を囲撓する
  皎い声のゲリラは撓む根の国の
  波止場から わたしの内なる遠景へ
  ほとばしる沈黙の 深淵と拮抗する
  初々しい発語衝動

  このイメージは飛躍だが、世界の事象を引き寄せている。世界の炎の地、中東アラブと日本赤軍のゲリラの連携。そこに散ったゲリラ。革命はさらに散った。革命は今はくだらないテロリズムになっている。やはり共同の行動は組織を中心に個を滅亡に引きずり込む。ヒロイズムとテロリズムが合体している絶望。それは美しさをはなれて悲惨だ。「根の国の波止場」。それは沈黙の波止場だ。ここで詩は引き受けている。「内なる遠景」を。もはや詩は無罪でありえない。幸せな詩を書くな。他者とふかい深遠で出会って、沈黙をほとばしらせよ、それが「初々しい発語衝動」なのだ。 (続)

(この文章は、沖縄で出されている『脈』81号「特集沖縄の詩人 清田政信」(2014年8月)に書いた「清田政信についてのランダム・ノート」を「改題」して連載しています。)

 


沖縄の詩人 清田政信ノート (第3回)                松原敏夫

2017-08-25 | 詩人論、作家論、作品論

ノートⅡ 「内言語」ノート

 清田政信にとって詩は方法意識の実践場であった。いや戦場のようなものであった。詩の言葉を紡ぎ出すことと情念が一致して「炎える」詩を書いた。詩は失語を破って発語からうまれた。その至適な作品のひとつ、「内言語」をあげてみよう。

   内言語

    破滅から翔べ
   追いつめられて 辺民の発することばに
   わたしはさばかれている
   なにゆえ 辺民は流星のように
   臓腑を裂いて疾走する
   一筋の兇器でなければならないか
   なりふりかまわず生きてきて
   いつでもくらしのきずなを断てぬわたしの
   頭のなかの海へ翔べ
   敗走のはてに何かを言おうとすれば
   必ず何かを失う
   失う意識の終るところが旅立ちのはじまり
   言葉を発すれば
   かげがえのない少女を失わねばならぬ
   あたふたと歩きでる先で
   視えない樹が燃える
   汀で血が破裂する
   臓腑が透きとおる
   苦悩のため
   透きとおる闇の
   球体に近づき きみに近づき
   きみでもなく わたしでもない
   言葉になるとき
   わたしは愛を殺す
   暗黙のうちに瀕死のことばよ翔べ
   わたしらはことばをうしないつくして愛を知る
   感覚の領野をむなしくみたして
   巡霊の果てにうずくまり
   沈黙のまわりを言葉で囲み
   その深処で沈黙の意味を問え
   問いの韻律でうねる波の
   流砂の根を洗う速度を抽象する
   海ぞいの村の 夜の花茎の決債をくぐり
   声を忘れて嘔吐する昏迷の朝よ
   産声の構図よ
   磯臭い母音よ
   鳴り響け
   巡霊の遊牧民の
   昏迷の領野を囲撓する
   皎い声のゲリラは撓む根の国の
   波止場から わたしの内なる遠景へ
   ほとばしる沈黙の 深淵と拮抗する
   初々しい発語衝動

  この詩が発表されたのが『中央公論』1972年6月号、「特集沖縄の思想と文化」だった。本土ジャーナリズムが復帰する沖縄の内実を吸収する意図で企画した特集に当時の学者、ジャーナリスト、知識人らが答えたようなものだ。
  五月十五日・沖縄の経済 (久場政彦)、民衆論(川満信一)、琉球処分から沖縄処分へ(我部政男)、沖縄戦後政治の構図(仲宗根勇)、辺境論(新城兵一)、「空道の思想」とは何か(上原生男)、古琉球の宗教と政治(与那国暹)、王統継承の論理(池宮正治)、言語・文化・世界 (儀間進)、南向きの沖縄文化論( 比嘉政夫)、戦後沖縄の文学( 岡本恵徳)、渇きと豊穣の原思想 (勝連繁男)、沖縄の演劇(中里友豪)、沖縄の芸能(いれいたかし)、内言語-詩(清田政信)、日本国家となぜ同化し得ないか-座談会-( 新川明・岡本恵徳・川満信一)[ほか。

 状況の現実に即して沖縄のことを語るこれらの言説のなかで、清田政信の詩は異質だし、異彩だ。しかも、はずれではない。これをつぎのような雑念で読む。
沖縄が復帰するころの時代状況、政治的、社会的状況のなかで書かれたこと。状況における詩と思想の提出が、状況的な言説を深く掘り下げ、個人の言語を深化することで共感域を構築する詩想が貫かれていること。
 この年は復帰の年だが、2月に連合赤軍浅間山荘事件や5月に日本赤軍テルアビブ乱射事件があったことを想起する。革命が極限の行動をとる時代。革命運動がおいつめられるようにあらわれた時代。こういう見方はうがちすぎかもしれない。しかし、変革を志向する詩を生きる清田政信が、そういう状況に無知であったと思えない。断片的でありながら状況を深く認知する詩境で書かれたとぼくはみる。もちろん〈テルアビブ〉は時期がずれるので、これをモチーフにしているわけではない。しかし「巡霊の遊牧民の/昏迷の領野を囲撓する/皎い声のゲリラは撓む根の国の」という詩的イメージは背景に中東アラブの緊迫状況から編み出したものではないか。清田にとって、この緊迫感、炎、というのは、詩的心理としてかなうものであったかもしれない。ベトナムと中東は当時の世界の炎の地点だった。これもうがち過ぎかもしれないが。
 この詩は『清田政信詩集』(1975年12月)の「眠りの刑苦」に収録されている。(沖縄の)緊張した政治的状況と対峙しながら、状況に隠れる根源的な課題を失うことなく、あくまで自己の詩的思想の声を失わない作品と思う。

  「発語衝動」とは失語の対極だ。題名を「内言語」とする詩の展開と意図が隠される。詩や言葉の思想が塗り込められている。情念の言葉で。言葉の場所がどこにあるのか。しかも、言葉が緊迫している。読んでみる。

    破滅から翔べ
   追いつめられて 辺民の発することばに
   わたしはさばかれている
   なにゆえ 辺民は流星のように
   臓腑を裂いて疾走する
   一筋の兇器でなければならないか

  いきなり出てくるこの緊迫。失語に従事していた感受性と精神を切り裂く。詩の生成への始まり。詩は準備され発される。始原の導入として読者の感覚を屹立させる。こうまず書き付ける詩人の魂は高いところに生まれている。テンションがはき出す美だ。「わが詩法」でこう書いている。

  「自らの生を論理化していると、ひとつの空洞にぶつかる。だがそれはほんとに空洞だろうか。私は否だと答える。論理化という醒めた思考の操作の背後で澱のごとく眠っているものがある。それを夢というもよし、あるいは情念というもよかろう。私はそれをゆさぶるようにして、まず一行の言葉を手に入れる。これが始まりだ。」(わが詩法)
 「対象を忘れるほどの夢の充実。そして第一行を瞑目の水先案内として、言葉を拒絶して眠る濃密な原感情。それは生活に深く根ざしながら、決して生活という次元では言葉に顕れない個人史の現在における断面だといえよう。」(〃)

  夢も情念もとにかく一行から始めなければならない。詩の生成とは「澱のごとく眠っているもの」をはきだすものだ。そこは明晰という扉なのだ。原感情をゆさぶることで言葉を発生する。こういう詩がはじまることの始原を論理化する言葉にはじめて出会った。詩をはじめる意識が燦々と降り注いでいる。実作者の、なんとも明晰な詩学的言説だ。
 開始の導入部に続く「追いつめられて」の圧迫感。「辺民」と「さばき」から導き入れる「臓腑を裂いて疾走する」というイメージ抽出の変貌。ただごとではない。ここはどこだ。言葉は生きられるのか。「辺民」とは誰か。詩に対置する辺民か。辺民は長い歴史と慣習と暮らしと性を結束させて村を持続する自然だ。静かだが強烈な力を持っている。詩人といえども、生活的には辺民のひとりとして生きなければならない。自分のなかの辺民でさばかねばならない。なぜなら辺民は外部でもあるが、外部で格闘するものでもない。内部で格闘するものだ。それは自らの血がひきずっている絶対性と暗い属性だ。詩人が「辺民」を取り出したのは拒絶するためではない。みえざる共感域を構築するものとしての戦略にあるのだ。

  「詩のことばが最ものびやかに現出するとき、それは盲目の〈像〉が視覚を回復することであり、一行のことばからはじまって生きられる未成の〈生〉であり、全個人史と絶えずつり合う情念の展開といえよう。したがって生の喪失が深いほど(喪失を感受しているほど)言葉はより垂直に生活の根源へつきささってゆく。」(〃)

  しからば「情念」こそが、みえるものを拒否し、未成の生を構築する。詩人はみえるものを信用していない。みえるもので語るのは抑圧体の秩序の世界であり、詩人の「臓腑を裂く」兇器だからだ。みえないもので語るものを見えるもので裁くのは、詩人の言う村の掟であり、法であり国家なのだ。そして生活でさえも。

    なりふりかまわず生きてきて
   いつでもくらしのきずなを断てぬわたしの
   頭のなかの海へ翔べ

  「破滅から翔べ」は、ここに着地する。「わたしの頭のなかの海へ翔べ」。生活や生き方の対峙が、詩と反詩の対峙と重なってでてくる。「なりふりかまわず生き」た詩人の姿がでてくる。なにがなりふりかまわずか。詩と生活が相反することか。詩は生活を犠牲にすることもたしかにある。「くらしのきずなを断てぬ」とは生活圏の消去ではなく、「ふり」して生きる世界となる。だから「頭のなかの海」が残されるのだ。そこへ翔ぶしかないのだ。生の喪失をここで復活し、生き生きと表現する準備となる。海はみえる海ではなく、みえない海だ。その海をこうもいうときがあった。

  「街に住んでいると夏はいのちが自らを開示する方法ももたずにただ浪費という風俗の中へ衰弱していくようにみえる。だが海へ出るとそういう二分法―衰弱と健康、歓喜と悲哀、物資と生命―は打ち砕かれる。砂丘に立って彼方を見ていると何も見えない。しかし視野をさえぎる〈物〉がないことによってかえって眼線は無限へ向かって投げられる。不思議なものだ。眼は見ることに従属するとき、いつか何も見なくなる。〈見えない〉こと、何ものもないない広がりに佇つことによって何かが見える。」(海への思索)

  なるほどなあ。海に佇むとはこういうことか。その海へ詩人は幼い娘をつれて行く。生きていることを確認するために、もだ。だが、その海は「なにものもない広がり」をもって逆に「何かが見える」世界となる。ランボーがいったように「海」と「永遠」は比喩でつながる。
 「眼は見ることに従属するとき、いつか何も見なくなる。」とはまさしく誰も実感することではないか。みえるもので支配する世界への反逆として詩は準備されなければならない。また、のちにこう書いている。これは精神の断崖をいっている。危ないことを説明しようとする、この自己分析は心理と病理がおなじであるようにみえる。

  「昼何か心に傷を負う。眠りに入るとそれがすぐ夢になっておびやかす。これは現実と夢をへだてる障壁がたいへん希薄になっているのではないかという恐れをいだかせる。これは私の幼年から続く幻覚の資質とシュール・レアリズムによってそれに根拠を得た思いが倍加されて精神が生活からの規制を飛散させたあとにくる症状かもしれない。」(わが病理、1982・3)

  みえる生活世界の、眼が従事する世界でなんらかの内面に傷を負った精神が夢にでてくることは誰しもあることだ。肉体だけが生き物でない。眼にみえない精神、心も生き物であること。生命をもっていること。その表出が夢である。それが現実との境界をうしなうとき精神病理とよばれる世界にはいっていく。そこを病理で切ってしまわず、芸術創造の契機にしたのがシュルレアリズムである。精神科医であったブルトンがその力に眼をつけたのはなるほどと思わせる。文学や芸術はみえるもので語るのではなく、みえないもので語るものなのだ。

    敗走のはてに何かを言おうとすれば
   必ず何かを失う
   失う意識の終るところが旅立ちのはじまり
 

 詩を書く=生きるという感覚をもった詩人にとって、詩人は生活社会では敗走者なのだ。勝者は詩を書かないし、書く根拠がない。失う意識の終るところとは敗走者のみが感知する感覚だ。「失う」、これさえも「終わらせる」意識。まさしく、これが「旅立ちのはじまり」なのだ。

 
(この文章は、沖縄で出されている『脈』81号「特集沖縄の詩人 清田政信」(2014年8月)に書いた「清田政信についてのランダム・ノート」を「改題」して連載しています。)


沖縄の詩人 清田政信ノート (第2回)              松原敏夫

2017-08-24 | 詩人論、作家論、作品論

 黒田喜夫は『光と風の対話』の解説で書いている。 

 「村の生と、生に加担して生きようとする意識との戦いと裂け目。そこに主体を通じてだけ視ようとする見えざる村への企てと、村の幻想との戦いと悶えがあって、それが清田政信の言葉の出発となっているにちがいないと思えるのだ。」 
 「〈村〉に根ざしつつ、〈村〉を否定しつつ、不可視の〈村〉へ。個の悶えをつらぬくことにおいて見えざる愛へ。自然とエロスの郷は、彼の裂目として言葉の、きらめく〈個〉である断面に、苦しげに鋭く、女の肉、海、そして流亡する血族たちの死の劇性となって、綴られようとしていると思う。時として溢れ、形容過多の、波となる饒舌も含みながら、である。」

 黒田喜夫の指摘はうならせるものがある。清田の出自の村と内なる詩的闘争に深い理解を示しつつ、表現のスタイルを「形容過多」「波の饒舌」とするところはぼくも納得する。なんとなくそういう感じがあるからだ。
 「村」という言葉が指示するものは、近代が飲み込んでいった今は変貌し、みえない。清田政信は66年に黒田喜夫にであって、「自らの詩の方法をあらためて考える機縁となった。」といっている。その影響といってもいい作品が「細民の深い眠り」や「家郷への逆説」「眠りの淵にめざめる崖」などであろう。大学を終えて生活社会へ現存の身をかけ、観念や自意識やらでは、つきあえない支配的な規律や習慣をしのばせている市民社会のみえざる虚偽と差別に感受性を向けるのは「降りること」であった。そこに「村」「細民」「流民」「掟」「家郷」「出自」「血」といった語彙がみつけだされた。谷川雁の「村の共感域」に触発されながら黒田喜夫の幻覚の村が溶け込んだ詩的世界があった。
 シュルレリアリスム、谷川雁、黒田喜夫、清水昶あるいは大岡信……。清田政信の詩は当時の詩的思想や言語の水準を吸収して咀嚼して、この沖縄の風土のうえに、かれ自身の内面から、みいだした言語創造を深くうちたてた世界だと誤謬を覚悟でいおう。

 60年代の政治と文学の思想を語る言葉が多くあるが、いまは措いておく。
 『沖縄にとって天皇制とは何か』(1977・8)に書いた「微視的な前史」にこういう文章がある。 

 「……共生を説くすべての思想を対象化せよ。一言で尽くすとすぐれて個を造型し得る思想のみが他者の心を動かす言葉を持ち得るということだ。
したがってぼくらは自己放棄による優しさの連帯を超えて自らの現存の欠如態を言葉によって明確にし、渇望に言葉を賦与すると、平面に苦しむ市民社会に背他しつつ実現させる記憶の、意識の現存への氾濫を実現できるのだ」(『疼きの橋』にも収録)

  共生そのものには異論はない。清田がいっているのは、共生が政治化した暴力をかぎ取っていると思われる。共同体の心性が個の生命を呪縛する民族主義へとつながっていく危険を批判しているのだ。つまり共同体思考が共同体主義に陥り、個の存在を、個を語る言葉を、個の創造を、共生の概念的抽象的な領域に無化しようとする視点に異議をとなえている。いま政治的幻想による言語を個の存在の尊厳よりも優位におく思想が戦後70年に復活しようとしている。共同体の作為である国家が宗教観念と結びつき、無私の精神を誘導し個人を滅亡する手法は、なおも無化されずに現存して、政治権力に利用されている。悲しい日本的民族主義だ。醒めて抗したい。 

 ぼくは前に「戦後詩はもはやナツメロのようなものだ」(書評・西銘郁和詩集『時の岸辺に』)と書いたことがある。自然あるいは近代の孤独を歌う詩から考える詩に変換させた荒地派の詩の詩想は都市化と個人化にまぶされた修辞派や言語派の台頭のまえに古典的となっている。「戦後詩を滅ぼすために」という著作さえでる。戦後詩を滅ぼしたあとになにがあるのか。ぼくは疑問でいる。戦後詩はナツメロのようにぼくらの意識と記憶の中に住み着いて、内部でときどき奏でているのではないか。あの時代の言葉たちを……時代や社会や世界と詩を対峙させた言葉を。……あんなふうに書きたいが……もう古い……つかずはなれず……という状況にいる。 

 かつて苦悩の抒情詩人清水昶の「南島の詩人への手紙―清田政信論」での記述。 

 「自分を徹底して追いつめてみて、そこになおも残るひかりを詩の中に発見できるかどうか、いわば詩は、わたしにとって精神の暗い実験室だったのです。」 

 清水昶らしい、この文章は、詩の領域を共感した、本質的な意味で詩の追求者の姿である。苦悩の求道者という貌だ。そう自説を述べて、清水は「眠りの刑苦」をあげて、清田の詩の性格をちくりとさしている。

  「初期のみずみずしさに比べて、なんとも重苦しく感じられます。」
 「初期作品には海と風と光、そして、そのような南島の風土を背景にして、くるしげではあるが必ず爽やかな輝きを放つ一行があった。」
 「誤解を恐れずにいうならば、詩とは反面、観念の遊びを、その創作過程の内に持っていて、だからこそ、そんな精神のゆとりの中に全的な自分の姿を表現できると思うのです。」
 「谷川雁風に、あるいは黒田喜夫流に断固たるコミュニストの位置に立って詩に向かおうとする詩人は、今や古典的とさえなりつつあります。とってかわって都市中産階級の詩人たちが身の置き場のない不安を唄いはじめました。ということは、とりもなおさず都市中産階級こそ、どこへも行き場がなくなったことを意味しており、わたしは階級分化が明確になりつつある日本の詩的状況に興味を覚えます。「日本の詩的状況に興味を覚える」などというと、まるで他人事みたいですが、この国の前近代的な風土の上で、近代の孤独をにがく噛んでいる都市中産階級の詩人たちは否応なく実体としての民衆の只中へ降りることを強いられ、そこから孤独で不安な唄は、湧きあがりはじめてきたと思うからです。」

  清水昶と黒田喜夫が日本の自然と民衆をめぐって激しい論争をしたことがある。なにか、ここにはその清水の萌芽があるような気がする。おそらく清水は清田政信は、資質はちがうが、自分に似た詩人の道にあることを暗にいっているように思う。だからこそ時代の質の変化の認識を誘うようにいっている。
 70年代以後の日本。都市中産階級は、「降りる」よりも資本主義の時間の速度に不可避についていくことで都市生活を表出する境界にいたのではないか。その視点で詩は修辞詩に活路をみいだしていたともいえる。高度経済成長、消費社会のつくる雰囲気的社会、民衆は〈大衆〉とよばれるようになり、たとえば、シラケブーム、ニューファミリー、家族ゲームなど、肥大化した実態のない戦後日本社会で社会意識を築く。その最たるものが無階級意識をになった都市中産階級であり、総中流意識の担い手でもあったのだ。かれらが今、政治や経済や文化のリーダーとなっているのは正当だろうか。ぼくは、かれらの言論を疑惑の目でみている。
 清田政信は、「清水昶論Ⅰ―肉感の喩法」(「アザリア」創刊号、1978・9)、「清水昶論Ⅱ―くきやかな走者」(「詩・現実」13号、1980・10)を書いている。(『抒情の浮域』に収録)

  「清水昶の詩はいかなる場合でも生活を出自とする。だが作品が実現された場合、きっぱりと訣別する。たとえ観念を表現している場合でもその根底に日常の生活体験が豊かに腐葉土と化している。あれだけ多産な秘密はそこにあるかもしれない。」(清水昶論Ⅰ)
 「詩を書くことは意識の内視を経て民衆の生活の中に眠っている収奪の生活史を幻想において占有する試み以外ではありえない。」(同)
 「出自を問えば必ず風土と民衆にゆきつくのであって、その民衆と風土の接点で格闘する限り詩が日常性(私詩)に堕することはないと思われる。」(同)

  清田政信が書いていることは、清水昶の生活体験に根ざした詩法を理解して同調するが、東京と沖縄はちがうぞ、風土、土着、村、前近代がそのままなお残っているぞ……ということをいっているように思える。
だから次のような文章にもなる。

  「東京の詩人たちにとっては存在自体がすでに情況に対して異化として在ると思われるけれども、地方においては、異化をおしつぶす形で共同性は働くのだ。これは風土と顔をつきあわせている地方の物書きの宿命であり、それを引き受けることによってはじめて個体は他者を成立せしめるのだと言えよう。私は清水昶の作品に深くうたれながら一方で自らの沖縄を考え、嘆息を禁じ得ない。」(清水昶論Ⅱ)

  ここで清田は沖縄と都市の疑似性を自覚しながらいっていることに留意する。きみは都市中産階級の発生をいっているが沖縄はちがうぞ。沖縄の人民はなお民衆の次元にいるんだぞ、流民や細民や辺民や農民やらだ。かれらを詩にとりこむんだ。沖縄には個を異化する自由の近代都市はまだきていない……と。
 それは、ぼくの勝手な解釈だ。……だが、今まわりを見回してみよう。なんて都市のような感じなんだろう。ハイパーポスト72。復帰後40年の歳月は沖縄の島をすさまじく変貌させている。自然や風景の解体と物質の豊かさを引き替えた近代主義の欲望。ぼくらはそれに慣れっこになっている。それで村の農民はどこにいるんだ?流民だらけの光景ではないか。……那覇やコザや浦添や宜野湾やらに……先島、離島、地方、奄美、日本、外国からながれてきた……流民たちが住みついている。……約束された土地を持たないから流民なのだ。底辺層や流亡を構成する流民だ。流民のひとりであるぼくが住んでいる土地は旧のなか。あるとき地元の隣人と話していると「このへんは100年前はみんな親戚だったんだ!」と自転車にのって叫んでいた農民の末裔らしき地元男に遭遇した。村の意識が存在するかつての村落共同体に近代がおおいかぶさっている。よそからきた流民が住みつき、新興住宅、アパート、マンション住民を形成する。沖縄戦で破壊されたあと帰村したものたちが再構築した村落共同体を復帰後、経済社会の進展、人口移動の結果、疑似都市へつくりかえ、都市計画で農地が宅地になった地帯が増殖し、インフラにあわせたマイホーム街がさんざんつくられる。
 沖縄の歴史はつついて開けば、首里王府、支配層、身分制、士族、農民、搾取、人頭税、苛酷……近世社会の暗い構図が露わになる。それでも近世沖縄民衆は一揆をおこさなかった…… 常民にとって歴史の変動は支配階級の身勝手な権力闘争、桎梏、強制労働、課税の圧政、……。21世紀の現在、沖縄学のつかんだ歴史社会の構図の内実があらわになっている。資本主義経済によるすさまじい社会変容、都市中心社会……都市中産階級の輩出(中流意識)、その人口比率の圧倒的存在。自然と風景を喪失したものたち。共同体意識のないものたちが人口構造のほとんどを占めている。若い世代は、入ってくる都市の風俗をまねて、同化し、東京や大都市との距離の意識がない。ネット社会で均質化を享受して、世界との差異をバーチャルで無化している。アイデンティティの民俗文化でさえ風俗の領域でちやほやされているだけだ。
 清水昶は60年後半から70年代詩人のヒーロー的存在だった。ぼくも現代詩手帖を購読して、清水昶が書いたものを真っ先に読んだりした。詩集も注文したりした。昼間から酒のんで対談に臨む詩人に共感していた。……

 私的な話。結婚して家族をもつようになって部屋の手狭さで、そのころ買って集めた蔵書をばっさり処分したことがあった。そのときのぼくの心境は、暗い青春を自己処罰あるいは詩から自己追放あるいは棄却を図りたかった。90年代だ。いまあのころの蔵書はほとんどない。古本屋のロマン書房に処分したので今頃はだれかの手にわたっているかもしれない。冬樹社、国文社、審美社、永井出版企画……。
 あのころは、愚かにも〈暗さの競争〉だった。暗い青春が時代に似合った。貧しい風情が時代を語ったので居心地がよかった。―革命、夢、自己変革、詩的情念、殉教、反乱、暴徒、過激派、反体制、反権力…………いわば逸脱の快楽があった。
清田政信と生年が同じ、つげ義春の漫画に癒やされたりした。ああ、「されどわれらが日々」、高橋和巳、埴谷雄高、中原中也、ドストエフスキー、カフカ、カミュ、ランボー、…………。この沖縄の暗さを代表するものは何だったか。それが詩だった。好み好まざる。そんなことはどうでもいい。明るい光と暗さ。この対比。そういう見方、それがよかったんだ。…………

  詩作品は、他者からどのように読まれるか。読まれたか。当然、そこには、十人いれば十人の読み方がある。困難があるのは、詩の言葉が個人的な言語、個人を語る言語であるということである。そこでなぜ読むのか。個人でありつつ個人を超えた言語があるからである。社会的言語ではない。パブリックな言語ではない。だからいいのだ。清田のいう「個の造型」だ。 (続)


(この文章は、沖縄で出されている『脈』81号「特集沖縄の詩人 清田政信」(2014年8月)に書いた「清田政信についてのランダム・ノート」を「改題」して連載しています。)


沖縄の詩人 清田政信ノート (第1回)           松原敏夫

2017-08-23 | 詩人論、作家論、作品論

ノートⅠ  重く輝いた詩人 

   清田政信という詩人! 彼は沖縄戦後詩における未踏の詩の世界を切り開き、深化し、持続し、駆け抜けた。未踏の詩の世界とは文学言語を政治や現実効果に従事させようとする非文学の方向性に否定を明確にして、50年代後半から、復帰をはさんで、80年代半ばまで、誰よりも、詩はいかに書かれるべきかを問い、戦闘的に追尋し、その方法を実践し、従深化し、いきつくべきところまで追求したことである。そこからでてきた鋭い言語、批評、詩人としての苦悩、重い生の方向と輝かしい悲惨をぼくらはみてきた。ぼくは、その暗い輝きを忘却することができない。

 清田政信の詩と思想について、現在の詩的状況において思惟すること、あるいは沖縄の詩において彼が発信した言語と存在を問うことを通して、現在の詩が読みなおされる価値のある詩人であることにぼくも異論はない。では、どのように読むべきか、という問いをかけたとき、ぼくにはいつも困難がにじみ出る。彼について書いた幾多の文章を読みながらも、なお、すっきりしないまま、彼の圧倒的な詩的言語に対峙する自分自身の言語をまだもてていないからだ。難解な詩人―と、評する人が多いし、ぼくもいったりする。詩的言語が平準な言葉から遠い密度、内面と暗喩の強い言語で展開されているのが多いからだ。しかし、「難解」、そのひとことで片付けてしまうことにはぼくは自らの怠惰を感じてしまう。 

 清田政信(1937~ )! 彼は8冊の詩集と3冊の批評論集を出した。(『琉大文学』、『詩・現実』、『詩・批評』、その他も発表場所であったが。)。
 彼の特徴は詩の実作だけではなく、評論(エッセイ)を並行して書いていたことである。詩と評論がクロスして、自己を語る言葉と他者(対象)を語る言葉を思想の領域で結び、さらに状況と現実と対峙して深めていく。そこには詩的論理を手放さない、先鋭な批評性が反映していた。政治状況を批判する言辞、あるいは、彼は〈眼の詩人〉であったから、沖縄の美術批評(画家論など)を多くてがけた。そして、歯に衣着せぬポレミックな熱き批評の論理をみごとに語って見せた。

 著作を時系列で並べてみる。 

詩集『遠い朝・眼の歩み』(詩学社)(1963・11、26歳)
詩集『光と風の対話』(思潮社)(1970・8、33歳)
『清田政信詩集』(永井出版企画、1975・12、38歳)
詩集『疼きの橋』(永井出版企画、1978・10、41歳)
批評集『情念の力学』(新星図書出版、1980・3、43歳)
批評集『抒情の浮域』(沖積舎、1981・8、44歳)
詩集『瞳詩篇』(沖積舎、1982・4、45歳)
詩集『南溟』(アディン書房、1982・9、45歳)
詩集『渚詩篇』(海風社、1982・11、45歳)
詩集『碧詩篇』(七月堂、1984・3、47歳)
批評集『造形の彼方』(ひるぎ社、1984・9、47歳) 

 こう書き出してみると、40代がもっとも著作を多く産出していて、この時期はまさに詩人熟成の時期だった。特に1982年(45歳)は立て続けに詩集3冊発行していて、ぼくのような不活発のものからしたら、詩にとりつかれたようなその姿が、尊威のような感じであった。
 清田政信の詩を読むと、詩は、ひとりの拠点こそ詩の原点であることをぼくらに強く教示する。
 内面に下りよ。記憶の村を喚起せよ。消えゆく村の原感情と共感域をつくした生の回復をめざせ。風土の闇と対峙して詩をすくえ。支配の規範が秩序する現実を批判し拒絶する正統な苦悩を貫け。……といった生を炎のように、はげしく転生させた詩作品群。……、そのはげしさは書く者の感覚からして爽快でもあった。

  「彼(黒田喜夫)がそこにあることが詩がそこにあることなのだ、という端的な原理をその詩から直裁に黙示されるのである。」    (「黒田喜夫『詩と反詩』跋文)

 といった埴谷雄高の言葉は清田政信にもあてはまると思う。
 清田政信がそこにいるところに詩がうまれた。この詩人の希有性。変貌する魂。沖縄の詩壇は清田政信という詩人をもったことを矜持とすることができる。

 60年代後半。清田の詩にであったときの印象。そのころ、ぼくは、いわゆる日本の近代詩、北原白秋、島崎藤村、山村暮鳥、中原中也、萩原朔太郎、宮沢賢治……といった程度の詩の知識しかもっていなかった。そんな程度でもいたから、清田の詩的言語にであうということは強烈だった。暗喩表現の詩のスタイルとの衝撃的な出会いといってもいい。これが詩なのか、というおどろき。世界をわかりやすいと思っているものにとっては、こういう詩は敬遠されやすい。しかし青年期は奇怪と抽象に親近感のある時代である。反現実なるものへのあこがれ。それが青年期だ。それを生きる青春は、素朴な抒情詩とは異質な言語を欲しがったのかもしれない。感情の自然や感性を素直に歌った抒情詩から考える詩に変換せしめた「荒地」派や社会性を取り込んだ「列島」に扇動された戦後詩を想起してもよい。詩はとにかく〈現代〉詩であった。現代詩は離島出身の青年の自然意識を驚嘆させたし、学ぶべき世界が大きかった。文学への関心がむしゃらに起こって、読むことの快楽をおぼえた。

 最初に読んだ詩はなにか。新城兵一の「ザリ蟹といわれる男の詩編論」からだった、と思う。当時、政治青年のはしくれだったぼくは、友人が持っていた新城兵一の個人誌『橋』2号(1966・4)にのっていた、その評論にであったのがはじめてかもしれない。「ザリ蟹―」は、しかし、はじめはぼくの触手によくはかかわらなかった。大学に入りたてたばかりだったし、当時の状況をよく知らないし、すぐ組織化されたぼくは、マルクスの著作をかじるのにせいいっぱいの状況にいた。だが、自分の存在的思考と均衡させながら行動していたぼくは政治への疑問を持つようになった。そのときから清田政信という詩人の言葉に向くようになり、かれの書いた作品や文章を注視した。詩集を出していたこともわかった。へえ、沖縄でも詩集を出す詩人がいたのか、というのが、南の離島出身の無知な青年のぼくだった。

 清田政信の詩に具体性があまり出ないのは、疑念に思っていた。かれの言葉に「詩は描写ではない」という言葉がある。もちろん理解できる。たしかに情念を駆ける、思念のありったけを叩き込むような詩の書き方は壮絶でもある。具体性、日常生活の匂いがないのは別に欠点ではない。詩は個人の世界だから、散文的にわからせようとしなくていい。だから描きではない。それはいい。詩は読者に奉仕するものではないからだ。世の中、「わからない言葉だ」という判断で一蹴するものだ。だからといってわかってもらうような詩を志向するのは退化である。詩は芸術言語の最高にあるから、その矜持を保持する権利を行使せよ、ということがある。 

 清田政信のイメージは、暗喩、思想、言語、なによりも詩の変革者だった。言葉を変革しようとする意志にみちていた。日常の秩序化された、呪縛の思惟から言葉を解き放つこと。だから清田政信はぼくにとって強烈な暗示的詩人だったし、言語への思想を刺激的にした詩人だった。それからなにが訪ずれるか。惰性的な慣習的な固着的な保守的な組織的な思惟を破砕する言葉を求めようとする反現実的な思惟と情念がでてくる。存在のアナーキーといってもいい。青春のアナーキーといってもいい。アナーキーな情念。心情的には、ぼくもこれに類似している。それはいまでも続いている。
清田政信もコミュニズムの洗礼を受けていた。政治活動(学生運動)もした。それからなぜ決別し、文学(詩)を対峙させるスタンスになったのか。その契機が彼の詩の秘密をとく鍵である。なぜならもっとも清田的詩の思想の端緒は、そこかにあったからである。
 詩で政治や現実と戦う! ―これが清田政信という詩人の詩的精神であった。 (続)

(この文章は、沖縄で出されている『脈』81号「特集沖縄の詩人 清田政信」(2014年8月)に書いた「清田政信についてのランダム・ノート」を「改題」して連載しています。)


貧乏を意匠にした詩人・山之口貘-平成という時代の奇妙な軽さ

2015-06-30 | 詩人論、作家論、作品論

衣食住の生活にそれほど不自由はないのに、海外旅行する金がないとか、顔を整形する金がないとか、生活以外に使う金が不足していることも、この平成時代では<ビンボー>と称するらしい。貧乏の水準もここまで来たかという感じである。こんな時代で、食うことさえままならない生活の中で書かれた山之口貘の詩はどう読まれるのか。

文学は、裸一貫で起こす事業でもある。貘は、詩人で生計を立てることを求望していた。しかし、詩人に楽なし。浮浪者をしたり、友人・知人から借金したり、汲み取り屋などの仕事しながら食いつないだ独身時代。借金だけでは足りず、生活のために妻や娘を質屋に入れる夢までみた結婚後の窮乏生活。楽から遠い生活の中で書かれた貘の詩は、世間が冠した貧乏詩人という評価に、自己像を等価させ、そのフレームの中で応えてきた言語表現であった。そこに出てくる詩の情景は、食うことに実感がなく、生活感のない、この時代では、まるで意匠であるかのように映るかもしれない。

佐藤春夫がダダイスト高橋新吉に貘を「ルンペン詩人」、貘には新吉を「きちがい詩人」と紹介したとき、精神病のため父に三年間も座敷牢に閉じこめられたといわれる新吉は、「僕よりも貧乏ですかねえ」と不満であったらしいのだが、その後新吉は、自らの苦悩を禅の世界に求めた。いっぽう、貘は、宗教や革命思想には意識的に興味を示さず、あくまで、地上の身体に就いた人であった。貘は、他者の言語を借りなかった。

「自惚れるようですが/びんぼうなのであります」(自己紹介)と、自己の現実をシニカルに「貧乏」と書かずに「びんぼう」と書く。推敲魔であった貘が、ひらがなで「びんぼう」と書いたのには意図的な意味があった。漢字の<貧乏>は暗くて重たくてよくない。ひらがなには、軽い感じがある。びんぼう。このことは貘が、負ってしまった貧乏を受感しながらも、その現実に距離をおいてみることで、できるだけ軽く感じるところまで逃れる術を言っているような気がする。なぜ詩を書くかという問いに、「詩を書くのは精神のバランスをとるためだ」と書いたのには納得がいく。

                               (貘のいる風景:山之口貘20周年記念誌」/山之口貘記念会編集委員会:琉球新報、1997.7)